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蒼弓の軌跡 ~探索者学院唯一の弓術士は静かに頂を狙う~  作者: 七夜灯
第二章 前期実力考査編

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第58話 秋の前に

 八月最後の金曜日。


 後藤喜一郎は職員室の自分の机で、冷めたコーヒーを啜っていた。


 夏休み中の職員室は普段より静かだ。教科担当の大半は休暇を取っており、出勤しているのは事務方と当番の教官、そして後藤のように「やることがある」人間くらいだった。

 窓の外では、校庭の端に植えられた木々が弱い風に揺れている。八月末とはいえ、昼の熱はまだ強い。だが、真夏の盛りのような暴力的な暑さではなく、どこか終わりの気配を含んでいた。


 後藤はスーツの胸ポケットからペンを取り出し、机の上に広げた書類を眺めた。探索省からの公式回答書のコピー。報告から五日後に届いたもの――もう、一月以上前の文書だ。日付の感覚が夏休みの間に曖昧になっている。


『ハイゴブリンの体色の個体差は他ダンジョンでも散発的に報告されており、直ちに異常事態を示すものとは認められない。経過観察を継続されたい。』


 後藤は回答書を読み返し、コーヒーを一口飲んだ。ぬるい。

 もう何度も読んだ文面だ。行政的にはこの回答が出たことで「対応済み」になっている。探索者協会立川支部の窓口担当者は事務的に受理し、探索省は事務的に回答した。書類上は処理が完了している。


 ――個体差、ね。


 後藤はペンを机に転がした。


 五月。蒼真たちが第2層で遭遇したハイゴブリン。額の角が一本だった個体。体高一・五メートル。通常種より明らかに大きく、筋肉質で、攻撃力も高かった。

 七月。前期実力考査で蒼真たちが目撃した暗色個体。体色が通常種より暗く、配下のゴブリンを指揮するような行動を見せた。


 二件。

 同じダンジョン。同じ層。二ヶ月の間に。


 個体差という説明は、一件だけなら通用する。ダンジョンの魔物には、外見や行動に揺らぎが出ることがある。現場の探索者なら誰でも知っている話だ。角の数が違う、体格が大きい、肌の色が濃い。そういう報告は、全国のダンジョンで時折上がる。

 だが二件になると、後藤の中の何かが引っかかる。

 元探索者としての勘、と言えば格好はつくが、実際のところはただの違和感だ。明確な根拠はない。数字として異常を示せるだけのデータもない。

 だから探索省の回答は、形式上は間違っていない。

 間違っていないことと、納得できることは別だ。


 後藤は引き出しを開け、報告書のファイルを確認した。角一本の個体と暗色個体、二件の報告書がクリアファイルに挟んである。五月のものには付箋が貼ってあった。


『次回確認時に再度確認のこと』


 自分の字だ。前に忘れた反省で貼ったものだった。

 後藤は付箋の端を指で押さえた。小さな紙切れ一枚。だが、そこには教官としての失敗を繰り返さないための重さがある。


 ファイルを閉じて引き出しに戻す。

 今度は忘れない。


 秋の探索実習で第2層に入れば、もう一度確認する機会がある。もし三件目の異常が見つかれば、その時は探索省の回答を鵜呑みにはしない。

 学生の報告だけでは弱い。

 なら、自分の目で見る。随行教官の報告を複数集める。出現地点、個体特徴、配下の有無、行動パターン。材料を揃えて、もう一度上げる。

 それでも動かないなら、さらに材料を集めるしかない。


 後藤はコーヒーカップを持って立ち上がり、給湯室に向かった。カップを洗いながら、窓の外を見る。八月末の空。まだ夏の色だが、風に秋の気配が混じり始めている。


 ――神代のやつ、ちゃんと弓を引いてるかね。


 ふと、そんなことを考えた。

 蒼真の前期試験での成長は見ていた。一般クラストップという成績は、弓術士としては異例だ。だが同時に「遠距離職としての単独制圧力に課題あり」という評価も、後藤自身がつけたものだった。


 弓術士は構造的に火力が不足する。それは適性の問題であって、努力で完全に埋められる差ではない。剣士のように間合いを詰めて切り込むわけでも、魔法使いのように面で押し込むわけでもない。

 点を通す。

 それしかない。

 だから難しい。


 だが、蒼真はその差を「考えること」で縮めようとしている。側面射の発想、紅葉の索敵情報の活用、パーティ連携で弓の限界を補う戦術。あの年齢で、それを実戦中に組み立てた。


 ――弓を引け。考えながら。


 終業式の日に蒼真に言った言葉を思い出す。あの時の蒼真の目は、後藤の言葉を素直に受け取る目だった。

 言われたことをただ守る目ではない。

 言葉の先にあるものを、自分で探しに行く目だった。


「……まあ、あいつは大丈夫だろう」


 後藤は独り言を呟いて、新しいコーヒーを淹れた。


 湯気の立つ紙コップを手に、職員室へ戻る。

 机の上には秋の実習計画の資料が広がっている。日程、班割り、随行教官、緊急時の撤退ルート。学生たちにとっては新学期の最初の大きな行事だが、教官側にとっては安全管理の塊だ。

 後藤は資料の端に、赤ペンで小さく書き込んだ。


 第2層個体観察、要注意。


 そして、その下にもう一行。


 1-1第5班、連携変化確認。


 理由は分かっている。

 神代蒼真が、夏をどう使ったか。

 それを秋に見るのが、少しだけ楽しみだった。


       ◇◆◇


 同じ日の午前。蒼真は訓練場で弓を引いていた。


 夏休みの訓練も、今日で最後のまとまった時間が取れる日だ。明後日には新学期が始まる。

 朝の走り込みを終え、訓練施設に入り、いつもの弓術用レーンに立つ。夏の初めと同じ場所。同じ的。同じ床。

 けれど、体の中に残る感覚は違っていた。

 呼吸が乱れにくくなった。右肩の張りが来るのが遅くなった。弦を引く時、背中まで力が繋がる感覚が少しだけ濃くなった。


 通常射八十本。命中率九十六パーセント。

 魔力集中射二十本。「弐」の安定率は十七本。八十五パーセントまで上がった。夏の初めは六割だったことを思えば、大きな進歩だ。


 だが「参」はまだ実用に遠い。矢に魔力を注ぎ込む段階で制御が乱れ、散ってしまう。十発中、安定したのは二発だけ。しかも消耗が激しく、連射など論外だった。

 指先に残る痺れも、まだ完全には消えていない。無理に実戦で使えば、自分の射形を壊すだけだ。


 蒼真はメンテナンスノートに記録した。


 八月最終訓練日。

 通常射八十本。命中率九十六%。

 集中射二十本。「弐」安定十七/二十=八十五%。

 「参」安定二/十=二十%。

 夏休みの成果まとめ。「弐」は実戦投入可能レベルに近づいた。「参」は秋以降の課題。

 走り込み総距離、約百八十キロ。

 体幹、引き手の筋力向上を体感。

 秋の実習に向けた新連携パターン、前衛左右展開+側面射を悠斗・航に共有済み。

 紅葉・里奈・真帆とは新学期に合わせて共有予定。


 ペンを置いて、的を見つめた。

 矢が刺さった痕が無数にある。この夏だけで何千本引いたか。正確には数えていないが、体はその分だけ変わった。

 的の中心に集まった穴は、努力の跡としては分かりやすい。だが、本当に大事なのはそこではない。

 疲れた時に、どれだけ中心から外さないか。

 魔力を増やした時に、どれだけ射形を崩さないか。

 仲間が作った一瞬に、どれだけ迷わず通せるか。


 ――夏に積んだものを、秋で試す。


 蒼真は弓を下ろし、深く息を吐いた。


 弓を片付け、訓練場を出る。

 外は八月末の空。真夏の猛烈な暑さは少しだけ和らいで、代わりに湿度の重さが残っている。蝉の声は変わらないが、日暮れの時間がほんの少し早くなった。

 校舎の窓には、夏休みの静けさが映っている。二日後には、この廊下にも教室にも生徒の声が戻ってくる。


 走って帰路につく。いつものランニングコース。モノレールの高架をくぐり、サンサンロードを南へ、立川駅前を通過して錦町へ。

 駅前の人の流れは、夏休みの終わりを前に少しだけ慌ただしい。買い物袋を提げた人、旅行帰りらしい家族、探索者風の装備を背負った若者たち。蒼真はその間を抜け、息を整えながら走った。


 マンションの前で足を止め、汗を拭いた。見上げると、空が高い。

 蒼真はシャワーを浴びて着替え、机に向かった。和弓を手に取り、弦を軽く弾く。澄んだ音が部屋に響く。

 その音を聞くと、胸の奥が少し落ち着いた。


 スマホを手に取り、第5班のグループメッセージを開いた。


『明後日から新学期。夏休みの訓練お疲れ。秋の実習に向けて、新しい連携パターンを考えたから、最初の訓練で試したい。詳しくは会った時に説明する』


 送信する。

 すぐに返信が来た。


『おう! 楽しみにしてるぜ!』

『了解。内容は大体聞いてる』

『索敵関係? 私の出番かな?』

『分かりました。準備しておきます』

『楽しみ! みんな元気だった?』


 蒼真は画面を見て、口元が緩んだ。六人の声がこの小さな画面に集まっている。

 悠斗の勢い。航の整理された返事。紅葉の反応の速さ。里奈の丁寧な言葉。真帆の柔らかさ。

 夏の間、それぞれ別々に過ごしていた。それでも、秋にまた同じ隊形へ戻れる。いや、戻るだけではない。夏の分だけ、前へ進める。


 蒼真は返信を打った。


『全員で試そう。秋は前期より上に行く』


 送信してから、窓の外を見た。夕暮れの空が赤い。

 明後日から、秋が始まる。


 蒼真はメンテナンスノートの最後のページに、一行だけ書き足した。


 秋の実習目標。

 第2層で前期実力考査を超える成果を出す。

 魔力集中射「弐」の実戦投入。

 六人で、もっと上へ。


 メンテナンスノートを閉じて、和弓を壁に立てかけた。

 弦が夕陽を受けて、一瞬だけ光った。


 ――いい夏だった。


 蒼真はそう思って、窓を閉めた。夏の空気が遮断され、エアコンの静かな音だけが部屋に残る。

 だが、胸の奥に残った熱は消えない。

 世田谷の食卓。祖父から届いたナイフ。須藤の千本素振り。悠斗と航との焼肉と花火。錦町で偶然会った天城凛。第5班のメッセージ。

 全部が、夏の中に積み重なった。


 秋はもうすぐそこにある。

 蒼真は壁に立てかけた和弓を見て、小さく笑った。


 次は、六人で。

ここまでお読みくださり、誠にありがとうございます。

本話で第二章前期実力考査編の完結となります。いかがでしたでしょうか?

次回からは第三章が開始しますのでお待ちください。

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