第57話 錦町の偶然
八月も後半に差しかかった頃。
蒼真は訓練を終えた午後、立川駅前のスーパーで買い物をしていた。
一人暮らしの食事は自炊が基本だ。米、卵、鶏むね肉、ブロッコリー、納豆。探索者の体を作るための食事は、安くて高タンパクなものが中心になる。最近はそこに、疲労回復用の果物と、訓練後にすぐ食べられるヨーグルトが加わった。
夏休みに入ってから、食費は少し増えた。朝の走り込み、百射、魔力集中射、体幹トレーニング。動けば食べる量も増える。悠斗ほどではないにせよ、体が以前より明らかに栄養を欲しがっていた。
レジを済ませてスーパーを出ると、八月の陽射しが目に刺さった。蝉がうるさい。店内の冷房に慣れた体へ、熱気が一気にまとわりついてくる。汗がすぐに額に浮かんだ。
蒼真は買い物袋を肩にかけ、錦町のマンションに向かって歩き始めた。
立川駅の南口を出て、線路沿いの道を東へ。錦町は駅から少し離れた住宅街で、迷宮都市の喧騒からは一歩引いた静かなエリアだ。大通りから一本入ると、探索者向けの店の看板は減り、代わりに小さな喫茶店やクリーニング店、古いアパートが目に入る。
蒼真がこのマンションを選んだのは、家賃と通学距離のバランスが良かったから。それ以上の理由は特にない。学院にも駅にも近く、訓練後に食材を買って帰るには便利だった。
交差点を曲がったところで――足が止まった。
前方に、金色の髪が見えた。
ツインテールにまとめた長い髪。白いブラウスに薄い青のスカート。スーパーの袋を片手に提げて、蒼真と同じ方向に歩いている。
制服ではない。訓練着でもない。日常の服装をしたその姿が、かえって見慣れなかった。
――天城凛?
蒼真は一瞬、目を疑った。なぜSクラスの天城凛が、錦町の住宅街を歩いているのか。
考えるより先に、口が動いた。
「天城――?」
金髪の少女が振り向いた。碧い目が蒼真を捉え、一瞬だけ微かに目を見開いた。すぐに表情が戻る。
「……神代」
素っ気ない声。それでも、足は止めてくれた。
蒼真の肩から、少しだけ力が抜けた。
「こんなところで会うとは思わなかった。買い物か?」
「見れば分かるでしょ」
凛がスーパーの袋を軽く掲げた。確かに、見れば分かる。
蒼真は自分の間の抜けた質問に少し恥ずかしくなった。
「――えっと、天城もこの辺に住んでるのか?」
「そうだけど」
蒼真は驚いた。同じ錦町。こんな近くに住んでいたとは知らなかった。
学校ではSクラス棟と一般クラス棟で動線が違う。訓練施設で見かけることはあっても、生活圏まで重なっているとは思っていなかった。
「俺もこの辺だ。錦町のマンション」
「……へえ」
凛は表情をほとんど動かさなかった。興味がないわけではなさそうだが、こちらの言葉に余分な反応を返すつもりもないらしい。
二人は同じ方向に歩いていた。別方向に住んでいるなら「じゃあ」で別れられるが、同じ道を歩く以上、無言で並ぶのも気まずい。蒼真は何か話題を探した。
悠斗や航との会話なら、多少雑に投げても勝手に転がっていく。紅葉なら向こうから三つくらい話題を増やす。真帆なら柔らかく拾ってくれる。里奈なら、少し間を置いても嫌な沈黙にはならない。
だが凛は違う。
必要な分だけ返して、あとは歩調だけを合わせてくる。
「天城も夏休みは訓練してるのか」
「当然。Sクラスは宿題も訓練も多いから」
「そっか。火魔法の――」
「何」
「いや、大変だなって思って」
「別に。やることをやってるだけ」
会話が途切れる。蒼真は心の中で焦った。
だが――嫌がられているわけではない気もする。嫌なら足を早めて先に行くか、横道に逸れるだろう。凛は蒼真と同じペースで歩いている。
スーパーの袋が、歩くたびに小さく揺れた。袋の中には牛乳らしき紙パックと、野菜が少し見えている。Sクラスの天城凛も、普通に買い物をするのだ。当たり前のことなのに、蒼真には少し新鮮だった。
「前期試験、お疲れさま」
蒼真がやや畏まった口調で言った。凛が横目で見る。
「……なんで敬語っぽいの」
「いや、Sクラスの人だし」
「クラスが違うだけで敬語を使うの? 同学年でしょ」
「それもそうだな」
蒼真は気を取り直した。
「前期試験、俺たちの班は一般クラスで一番だった」
「知ってる」
凛の返答に、蒼真は少し驚いた。
「知ってるのか」
「順位表は全クラス合同で掲示されてたから。六位だったでしょ」
「ああ。――悔しかったけど、嬉しかった。同じ順位表に載ってるってだけで」
凛はしばらく黙っていた。蒼真は余計なことを言ったかと後悔しかけたが、凛が小さく口を開いた。
「弓術士で六位って、普通はあり得ないから」
「え?」
「弓術士は火力が低いって、常識みたいに言われてるでしょ。それで一般クラストップなら――まあ、努力はしてるんだなって思った」
蒼真は心臓が跳ねた。
天城凛が、自分の成績を認めてくれた。
「努力はしてる」という言い方はSクラスの実力者からの上からの評価ではある。褒め言葉としては、かなり淡い。けれどそれでも、見てくれていた。
四月の頃なら、弓術士という適性だけで判断されていたかもしれない。須藤の時もそうだった。だが今は、順位表に数字が残っている。第2層に六人で降りて、戻ってきた結果がある。
それを凛が知っている。
「ありがとう。――もっと上に行くつもりだよ」
「そう」
凛はそう言って、視線だけを先へ戻した。拒絶の響きではなかった。
蒼真は思わず口元がゆるみそうになり、慌てて前を向いた。ここで嬉しそうな顔を見せすぎるのは、何か違う気がした。
でも、腹の底ははっきりと滾っていた。
「天城は、前期試験どうだったんだ」
「普通」
「普通って」
「一位だった」
「それを普通って言うのか」
「Sクラスなら、そういうものだから」
凛の声に驕りはなかった。事実を述べているだけだ。
蒼真は改めて、Sクラスとの差を感じた。六位に入って喜んだ自分と、一位を普通と言う凛。その差は、順位表の数字以上に大きい。
だが、不思議と嫌ではなかった。
見上げる場所が、また少し近くに見えた気がした。
マンションが見えるエリアに差しかかったところで、凛が足を止めた。
「私、こっちだから」
凛が指した方向は、蒼真のマンションとは反対側の路地だった。近所。おそらく三、四分圏内だが、別のマンションに住んでいるらしい。
「分かった。――じゃあ、また学校で」
「……ええ」
凛はそれだけ言って、路地の方へ歩いていった。金色の髪が夕陽に透けて、オレンジ色に光っている。蒼真はその背中が角を曲がるまで、無意識に見送っていた。
――あんまり興味持たれてないな。
蒼真は自分のマンションに向かって歩きながら、苦笑した。
凛との会話は、合計しても数分あったかどうか。内容も「買い物」「試験の順位」「努力はしてる」。たったそれだけだ。
距離が縮まった、と言うほどのものではない。友達になったわけでもない。凛の表情はほとんど変わらず、会話も短かった。
でも――。
蒼真は買い物袋を持ち直した。
凛が順位表を見ていたこと。弓術士で六位は普通じゃないと認識していたこと。「努力はしてる」と言ったこと。
そして、同じ錦町に住んでいること。
それだけで、今日の偶然は十分すぎるほどだった。
悪くない収穫だ。
マンションの部屋に戻り、食材を冷蔵庫に入れる。卵を奥のトレーへ、鶏むね肉を冷蔵室の下段へ、ブロッコリーを野菜室へ。自分の生活に戻る動作をしているのに、頭の片隅にはさっきの金色の髪が残っていた。
エアコンをつけて、窓の外を見た。夕暮れの空が赤から紫に変わっていく。
蒼真は和弓を手に取った。
――もっと上に行く。
そう言った以上、やるしかない。
凛に向かって言った言葉は、同時に自分への宣言でもあった。Sクラス一位の天城凛に、一般クラストップの自分が「もっと上に行く」と言った。今の時点では、背伸びもいいところだ。
けれど、背伸びしなければ届かない場所がある。
弓の弦を指で弾いた。澄んだ音が部屋に響く。
明日も、弓を引く。
◇◆◇
凛は自分のマンションの部屋に戻り、買い物袋をキッチンに置いた。
エアコンのスイッチを入れ、ソファに座る。外から持ち込んだ熱が、少しずつ体から抜けていく。白いブラウスの袖を軽く摘まみ、汗を逃がした。
キッチンの袋から牛乳を取り出し、冷蔵庫に入れる。卵、野菜、ヨーグルト。生活のための買い物。学院では見せない、ただの日常。
――神代蒼真。
錦町で会うとは思わなかった。こんな近くに住んでいたのか。
凛は冷蔵庫から麦茶を出してグラスに注ぎながら、さっきの短い会話を思い返した。
『もっと上に行くつもりだよ』
神代は笑いながらそう言った。嘘をついている顔ではなかった。あの目は、四月の模擬戦で須藤大河に勝った時と同じ目だった。
勝てるか分からない相手を前にして、勝つ方法を考えている目。自分の不利を承知して、それでも引かない目。
面倒な目だ、と凛は思った。
前期試験の順位表。
一般クラスの一位。全体六位。弓術士という不利な適性で、Sクラスとの差はあるにせよ一般クラスで突出した成績を残している。
もちろん、Sクラスの上位とはまだ差がある。凛の班から見れば、六位は六位だ。喜ぶほど近い順位ではない。
けれど、弓術士でそこまで来たという事実は、少しだけ記憶に残った。
訓練場で見た弓の軌跡が、また瞼に浮かんだ。矢に纏った蒼い光。一射一射に込められた正確さ。何千本もの矢が作った精度。
努力は嫌いではない。
努力しても届かない者は多い。努力していると言いながら、苦しさに酔う者もいる。だが神代のそれは、少なくとも後者ではなかった。
――まあ、努力はしてるみたいだけど。
凛はグラスを口元に運び、小さく息をついた。
それ以上は考えない。
考える必要はない。
ただ、次に訓練場で弓の音が聞こえたら、少しだけ見てもいいかもしれない。
そう思ったことに気づき、凛は目を細めた。
「……少しだけね」
誰に聞かせるでもなく呟いて、凛は麦茶を飲み干した。




