第54話 弓道場の隣人
八月に入った。
蒼真の一日は朝六時に始まる。目覚ましが鳴る前に目が覚める。体がリズムを覚え始めている。
布団を畳み、窓を開ける。朝の空気はまだ少し涼しいが、遠くで鳴き始めた蝉の声が、今日も暑くなることを告げていた。洗面台で顔を洗い、鏡の中の自分を見る。頬は少し引き締まり、右手の指には弽の跡が残っている。
ストレッチと軽い体幹トレーニングを済ませ、ジャージに着替えて錦町のマンションを出る。まだ朝の涼しさが残る空気の中、立川駅方面へ走る。駅前を通過し、サンサンロードを北へ。モノレールの高架をくぐり、学院方面へ向かうランニングコース。片道約三キロ。往復で六キロ。
走り込みは弓を引く体力の土台だ。第2層で痛感したのは、弓を引く力だけでは足りないということだった。重い魔素の中で動き、止まり、狙い、撃つ。息が乱れれば射形も乱れる。射形が乱れれば、急所を外す。
だから走る。
足裏に返るアスファルトの硬さを感じながら、蒼真は呼吸を一定に保った。
七時半に学院の訓練施設に到着する。夏休み中も開放されている屋内訓練場は、朝の時間帯は人がまばらだった。弓道場――と呼ぶには設備が簡素だが、的と射場がある訓練区画。蒼真はここに毎日通っている。
受付で利用記録に名前を書き、射場に入る。的紙は新しいものに張り替えられていた。空調は効いているが、広い訓練場には夏特有の熱が残っている。床に置いた矢筒の音が、朝の静けさに小さく響いた。
今日のメニュー。通常射百本。そのうち二十本は、的への距離を変えて射線の角度調整を練習する。残りの八十本は同じ距離から、命中精度を追い込む。
メンテナンスノートには、昨日の数字が残っている。通常射命中率九十三%。集中が切れ始める七十射以降での中心維持率低下。右肩の張り。課題ははっきりしていた。
――と、それに加えて。
蒼真は矢筒から一本を取り出し、弦につがえた。いつも通り魔力を纏わせる。蒼い光が矢に沿って淡く走る。
ここから先が、夏休みの課題だ。
魔力を纏わせる量を意図的に増やす。通常の射撃で使う魔力を「壱」とするなら、「参」まで込めてみる。
体内の魔力を矢に注ぎ込む感覚を意識する。纏わせるのではなく、叩き込む。力ずくではうまくいかない。魔力が矢の表面で散ってしまう。
「……散る」
蒼真は弦を戻し、矢を下ろした。
魔力集中射。航が試験後の反省会で提案した発想。通常射で削り、ここぞで魔力を多く込めた一撃を放つ。理屈は分かる。実際、授業でも「任意で過度に魔力を付与すればダメージは上がるが、使用量とダメージ量は比例しない」と教わっている。割が良くない。だから普段は使わない。
だが――ここぞの一撃として成立するなら、話は変わる。
ハイゴブリンの胸を裂いただけで終わった一射。肩に当たっても止めきれなかった一射。あの重さを、あと少し奥へ届かせる方法が欲しい。
蒼真はもう一度矢をつがえた。今度は「弐」を意識する。
体内の魔力を腕に集め、弓を握る手を通じて弦に、弦から矢へ。纏わせる感覚の延長で、少しだけ多く流す。
放つ。
矢が飛ぶ。蒼い軌跡がいつもより太い。的に刺さる音が、少しだけ重い。
「――通った」
矢を回収して刺さり具合を確認する。通常射より深い。わずかだが、確かに深い。
蒼真はメンテナンスノートを開いた。
魔力込め量「弐」。
通常射より深度約一・五倍。
消耗は通常射の体感数倍。
軌跡が太くなるため視認されやすい。
連射不可。十射で限界か。要検証。
続けて「参」を試す。
腕に集めた魔力が、矢に流し込む段階で制御が甘くなる。弦を離した瞬間、魔力の一部が矢ではなく空気中に散った。蒼い火花のような飛沫が手元で弾ける。
「痛っ――」
指先が痺れる。魔力を制御しきれず逆流した感覚。矢は的に刺さったが、深度は「弐」から若干上がった程度。それに比べて消耗だけが跳ね上がった。
蒼真は右手を開閉し、痺れの残り方を確かめる。使えない。少なくとも現時点では、実戦で撃てる代物ではない。
「……魔力効率が悪い、か。先生の言う通りだ」
蒼真は苦笑した。だが落胆はない。「弐」の段階で通常射より効果が上がることは確認できた。あとは「弐」の精度を上げること。散らさずに矢に集束させる練習を繰り返せば、安定するかもしれない。
百射のメニューのうち、通常射を八十本、魔力集中射を二十本。この配分で夏休みの間にデータを積む。
急に強くはなれない。
なら、毎日少しずつ数字を積むしかない。
◇
十一時過ぎ。蒼真は最後の一射を放ち、的から矢を回収した。
右肩に重さがある。指先には細かな痺れが残り、背中には走り込みとは違う汗が滲んでいた。通常射八十本、魔力集中射二十本。最後の集中射は「弐」でも軌跡が乱れた。疲労が制御に直結することも分かった。
訓練区画の隅で水を飲みながらメンテナンスノートを見返していると、隣の訓練区画から剣を振る音が聞こえてきた。
規則正しい素振りの音。一定のリズムで、乱れがない。
蒼真がふと顔を上げると、隣の区画に見覚えのある背中があった。
須藤大河。
Sクラスの実力者。四月の模擬戦で蒼真に敗れた剣士。長身の体躯を制服ではなくトレーニングウェアに包み、木刀を振っている。
蒼真はしばらくその素振りを見ていた。一振り一振りが正確で、無駄がない。百回、二百回と数を重ねても軌道がぶれない。足の置き方も、腰の入り方も、毎回同じ位置へ戻っている。
ただ力任せに振っているのではない。
積み重ねた型を、一つずつ確認している。
――強い。当たり前だが、改めてそう思った。
四月の模擬戦で勝った。あれは事実だ。だが、須藤が弱かったわけではない。慢心と相性と、蒼真の奇策が噛み合った結果だ。
もし今、正面から何度も戦えばどうなるか。
蒼真は木刀の音を聞きながら、自分の胸が少し熱くなるのを感じた。
須藤が水を飲むために手を止めたタイミングで、目が合った。
「――神代か」
「よう、須藤」
須藤は蒼真の方を見て、少し意外そうな顔をした。
「夏休みも来てるのか」
「そっちもだろ」
「まあな」
短い沈黙。四月の模擬戦以来、まともに話したことはほとんどない。廊下ですれ違って軽く目が合う程度。蒼真にとって須藤は「Sクラスの実力者」であり「自分が勝った相手」だが、同時に「よく知らない相手」でもあった。
須藤の方も、どう距離を取ればいいのか測っているように見えた。
蒼真は水筒のキャップを閉めて言った。
「すごいな、素振り。何本やった?」
「五百」
「五百――」
「これから五百追加する」
蒼真は目を見開いた。千本の素振り。それを毎日やっているのだとしたら、須藤の技術の安定感に納得がいく。
自分は百射で右肩に疲労を感じている。須藤は五百本振った後で、まだ半分だと言う。
Sクラスとの差は、才能だけではなかった。
「お前は弓か」
「ああ。百射と、あと少し実験を」
「実験?」
「矢に込める魔力の量を変えて、効果を測ってる」
蒼真がそう答えると、須藤は少し考えるように目を細めた。
「火力の問題か」
「――聞こえてた?」
「いや、前期試験の順位は見た。一般クラストップだろう。弓術士でそこまで行けるなら、次の壁は火力だろうと思っただけだ」
蒼真は一瞬驚いた。須藤が自分の成績を把握していること。そして弓術士の構造的な課題を、外から正確に見抜いていること。
「……当たりだよ。弓は点の攻撃で、急所を外すと削りにしかならない。だから一発の重さを上げたい」
「点を重くする、か」
須藤が木刀を肩に担いだ。
「剣なら、斬撃を重くする方法はいくつかある。踏み込み、腰、魔力、刃筋。どれか一つだけではなく、全部が噛み合って初めて重くなる」
「弓も同じかもしれないな。魔力だけ増やしても散る。射形が乱れたら意味がない」
「なら、面白い課題だな」
「面白いって言うか、必要に迫られてるだけだけどな」
「必要な課題ほど面白いだろ」
須藤が当然のように言った。
蒼真は少し笑った。意外と、分かる気がした。
「聞いていいか」
「なに」
「前期試験、どうだった。――ダンジョンの中で弓を引くのは」
蒼真は少し考えて答えた。
「楽しかった」
須藤が怪訝な顔をする。
「楽しい?」
「仲間と連携して、考えて、工夫して、一射で仕留めた瞬間――めちゃくちゃ気持ちよかった。弓でもやれるって思えた。課題だらけだけど、それも含めて楽しかった」
蒼真は自分でも少し気恥ずかしくなって、頭を掻いた。須藤は黙ってその言葉を聞いていたが、やがて口の端を小さく上げた。
「お前、変わらないな」
「変わった?」
「変わらない、って言ったんだ。四月の試合の時と同じ顔してる」
「どういう顔だよ」
「勝てるか分からないのに、勝つ方法を考えて楽しそうな顔だ」
蒼真は須藤の顔を見た。嫌味でも嫉妬でもなく、ただ本心からそう言っているのが分かった。
四月の須藤は、蒼真に退学を勧めた。善意ではあったのだろうが、押しつけでもあった。あの時の蒼真は腹を立てて、真正面から模擬戦を受けた。
今、目の前にいる須藤は、その時より少しだけ遠くも近くも見えた。
「――秋の実習、楽しみにしてる」
須藤が不意にそう言った。
「は?」
「お前がダンジョンでどう戦うのか、見てみたい。前期は別行動だから分からなかったが、秋は同じ日程で被ることもあるだろう」
「見るって、お前が見に来るのか?」
「冗談だ。まあ、結果だけは聞くさ」
須藤は木刀を構え直した。会話はそこで終わりだった。
蒼真は訓練区画に戻り、最後のクールダウンの射を数本引いた。さっきまで少し重かった右肩が、不思議と軽く感じる。
隣から聞こえる素振りの音が、一定のリズムで続いている。
五百一本目、五百二本目。
数は分からないが、須藤の中ではきっと正確に積み上がっているのだろう。
◇
帰り際、隣の区画からはまだ素振りの音が聞こえていた。
蒼真は学院を出て、走って帰路についた。昼前の陽射しは朝より強く、サンサンロードの路面から熱が返ってくる。汗が首筋を流れる。それでも、足取りは重くなかった。
――普通に話すと、良いやつだな。
四月の印象。「よかれと思って退学を勧めてきた、押しつけがましい実力者」。その輪郭は、もう少し複雑なものに変わっていた。あの模擬戦の後に交わした言葉は少なかったが、須藤の目は確かに蒼真を認めていた。そして今日、世間話のように弓の課題を聞き、的確に見抜いた上で「秋が楽しみだ」と言った。
ライバル、という言葉は、まだ大げさかもしれない。Sクラスと一般クラス。上位と六位。須藤の足元にも及んでいないのは数字が証明している。
でも、同じ施設で汗を流して、同じ夏を過ごして、秋に向けて牙を研いでいる。
そう考えると、胸の奥がむずむずした。焦りではない。悔しさだけでもない。目の前に目標が増えた時の、高揚に近かった。
蒼真は走りながら、こみ上げる笑みを抑えられなかった。
マンションに戻り、シャワーを浴びてからメンテナンスノートを開く。
八月一日。
通常射八十本。命中率九十四%。
魔力集中射二十本。「弐」安定十二/二十。深度データ記録済み。
「参」は制御不安定。実戦投入には程遠い。指先への逆流あり。
走り込み往復六キロ。
須藤大河と訓練施設で会話。
木刀の素振り千本。千本だ。
俺も負けていられない。
明日は通常射の命中率を九十五%に上げる。
集中射は「弐」の安定率を十五/二十にする。
ペンを置いて、窓の外を見た。八月の空が青い。
まだ夏は始まったばかりだ。
火力の壁も、Sクラスとの差も、須藤の千本も、全部が蒼真の前にある。
越えるものが多いほど、弓を引く理由も増えていく。
蒼真は右手を開き、閉じた。
指先に、まだ朝の弦音が残っていた。




