第53話 世田谷の食卓
夏休みに入って三日目。
蒼真は中央線の車窓から流れる景色をぼんやりと眺めていた。
立川から新宿方面へ向かう電車は、平日の午前にしては人が多い。夏休みの家族連れ、スーツ姿のサラリーマン、大きなリュックを背負った旅行者。日常と非日常が混在する車内に揺られながら、蒼真は膝の上に置いた紙袋に目を落とした。
新宿の洋菓子店で買ったバウムクーヘン。前回のGWに持っていったものとは別の店を選んだ。美咲と結衣が甘いもの好きだと知ったのは、あの時の食卓だった。甘いものを見つけた瞬間に結衣の目が輝き、美咲が遠慮しながらも二切れ目を取ったのを覚えている。
――前期実力考査から、もう十日か。
窓の外を流れる住宅街を見ながら、蒼真は無意識に右手を開いたり閉じたりしていた。弦を引く動作の名残。ここ数日、訓練施設で百射近く引いている手は、まだ硬さが残っている。指先には弽の感触が残り、電車の振動に合わせて右手の筋が小さく反応する。
夏休みなのに、頭の中には訓練計画が並んでいる。百射超え。魔力込め量を変えた試射。走り込み。ナイフの点検。メンテナンスノートの整理。
休みに入ったはずなのに、むしろやることは増えていた。
新宿で乗り換え、小田急線に揺られること数十分。世田谷の住宅街を歩くと、七月末の陽射しが容赦なく降り注いだ。蝉の声が耳を覆う。アスファルトから立ち昇る陽炎の向こうに、見覚えのある二階建ての一軒家が見えた。
インターホンを押す前に、玄関の扉が開いた。
「来たな、蒼真」
神代誠二。父・恒一の弟。四十代前半、穏やかな顔立ちに短く整えた髪。ポロシャツにチノパンという休日の出で立ちで、蒼真を見て笑った。
「叔父さん、お邪魔します。これ、お土産」
「おう、ありがとう。上がれ上がれ。エアコン効いてるから」
玄関に入った瞬間、冷たい空気が肌を撫でた。外の熱気に焼かれていた首筋が、一気に楽になる。蒼真は靴を揃え、紙袋を誠二に渡した。
リビングに通されると、叔父の妻・智子がキッチンから顔を出した。エプロン姿で、鍋の湯気の向こうから笑っている。
「蒼真くん、いらっしゃい。暑かったでしょう。麦茶でいい?」
「ありがとうございます」
テーブルに着くと、二階からバタバタと足音が降りてきた。
「そうまくーん!」
結衣――小学一年生。短い髪を揺らして階段を駆け下りてくる。その後ろから美咲――小学四年生が、少し照れた顔でついてきた。
「久しぶり、結衣。美咲も」
「そうまくん、またきた!」
結衣が蒼真の隣まで駆け寄って、にぱっと笑う。美咲は蒼真の顔を少し見上げてから、小さく首を傾げた。
「そうまくん、前より大きく見える」
「そうか?」
「うん。なんか、探索者っぽい」
美咲が真面目な顔で言う。結衣はそれを聞いて、蒼真の腕を両手でつついた。
「ゆみ、つよくなった?」
「ちょっとだけな」
「じゃあ、かっこいい!」
結衣が胸を張って言い切る。蒼真は照れて頭を掻いた。誠二が麦茶のグラスを置きながら笑う。
「結衣は相変わらず正直だな。でも俺もそう思うよ。目つきが変わった。いい意味でな」
「目つきって、そんなに変わるものですか」
「変わるさ。何かを越えた人間は、顔に出る」
誠二の声音は穏やかだったが、からかいだけではなかった。蒼真は麦茶のグラスを両手で持ち、冷たさを指先に感じた。
智子が昼食の準備をしている間、リビングで誠二と向かい合った。結衣は蒼真の隣に陣取り、美咲はソファの端に座っている。美咲は本を持っていたが、視線はページではなく蒼真に向いていた。
「試験どうだった? この前電話で少し聞いたけど、詳しく聞かせろよ」
蒼真は前期実力試験のことを話した。第2層に潜ったこと。ハイゴブリンと戦ったこと。班の仲間との連携が初めて噛み合った瞬間のこと。暗い肌のハイゴブリンを見つけ、戦わずに退いたことは、詳しくなりすぎない程度に話した。
「六人で第2層のハイゴブリンを三体倒して、全員無傷で帰ってきた。一般クラスでは一番の成績だった」
「いちばん!?」
結衣が椅子の上で跳ねそうになる。蒼真は慌てて片手を出した。
「俺だけの力じゃない。六人の結果だ」
「でも、そうまくん、はんちょうでしょ?」
「班長だけど、俺一人じゃ何もできないよ。敵を見つけるやつがいて、前で止めるやつがいて、足を止めるやつがいて、回復するやつがいる。俺は、その隙に矢を通す」
「みんなでやっつけたの?」
結衣が確認するように聞く。
「そう。みんなで」
「じゃあ、みんなすごい!」
結衣は迷いなくそう言った。美咲も本を膝に置いたまま、こくりと頷く。
「そうまくんも、みんなも、すごいと思う」
言いながら、蒼真は自分でも少し驚いた。試験前なら、ここまで素直に言えなかったかもしれない。弓で何とかする。自分が撃つ。そういう言葉が先に出ていたはずだ。
けれど今は違う。
矢は一人で飛ぶものではなかった。
誠二が麦茶を一口飲んで、静かに言った。
「お前、前に来た時は『まだ始まったばかり』って言ってたな。進んだか」
「――うん。進んだと思う」
「第2層って、大人の探索者でも気を抜けない場所だろ? ニュースで見たぞ」
「叔父さん、詳しいな」
「そりゃ甥っ子が潜ってるんだ。調べるに決まってる」
誠二はそう言って笑ったが、その目は真剣だった。蒼真はその視線を受け止めて、少し黙った。
「――課題もあった」
「課題?」
「弓の火力が足りない。矢は急所に当てなきゃ致命傷にならない。剣や魔法みたいに、一撃で仕留められない場面がまだ多い」
結衣が首を傾げる。美咲が小さな声で聞いた。
「弓って、遠くから撃てるのに?」
「遠くから撃てる。でも、当てる場所を間違えると止めきれない。魔法みたいに広く巻き込めないから、一発一発を考えて撃たなきゃいけない」
美咲は完全に分かった顔ではなかった。それでも、真剣な話だとは分かったらしい。膝の上の本を両手で押さえ、ゆっくり頷いた。
「じゃあ、いっぱい考えるんだね」
「うん。いっぱい考える」
誠二がテーブルに頬杖をつく。
「考えて撃つ、か。お前の爺さんもよく言ってたな。『弓は考える武器だ』って」
蒼真の手が止まった。
「――じいちゃんが?」
「ああ。兄貴と俺が小さい頃、道場で見てた時に言ってた。『剣は体で覚えろ。弓は頭で覚えろ』ってな。当時はよく分からなかったけど、今のお前の話を聞いて、ちょっと分かった気がする」
蒼真は箸を置いた。祖父があの言葉を、父や叔父がまだ小さい頃から言っていたとは知らなかった。
弓は考える武器。
後藤にも似たようなことを言われたばかりだ。弓を引け。考えながら。
祖父の言葉と後藤の言葉が、蒼真の中で静かに重なった。
◇
昼食は智子の手料理だった。生姜焼き、ポテトサラダ、味噌汁、白米。結衣が「そうまくんは、いっぱい!」と茶碗を指差し、蒼真は笑いながら受け取った。
「いただきます」
六人分の食器が並ぶ食卓ではないが、四人と一人で五つの席。家族の空気がある場所で食べる飯は、一人暮らしの自炊とは違う味がした。味噌汁の湯気、食器の音、結衣の元気な声、美咲が静かに取り皿を渡してくれる所作。そういう一つ一つが、妙に胸に沁みる。
「蒼真くん、夏休みは何するの?」
智子が聞く。
「訓練です。学院の施設で自主練習ができるので、毎日弓を引きます。走り込みもやって、秋の実習に備えたい」
「真面目だねえ」
「いや、やらなきゃ追いつけない相手がいるんで」
誠二が箸を止めた。
「Sクラスのやつか」
「――まあ、そんなところです」
「負けたのか?」
「直接は、まだ。でも順位表では負けてます。一般クラストップでも、Sクラスとの差は大きかった」
美咲が本当に小さな声で言った。
「その人たち、すごく強いんだ」
「うん。すごく強い」
「でも、そうまくんも練習するんでしょ?」
「するよ」
「じゃあ、ちょっとずつ近づくね」
小学四年生らしいまっすぐな言い方だった。蒼真は白米を口に運び、飲み込んでから頷いた。
「うん。ちょっとずつ近づく」
結衣がよく分からないという顔で首を傾げる。
「そうまくん、かけっこするの?」
「かけっこじゃないけど、似てるかもな」
「じゃあ、がんばれー!」
結衣は両手を小さく上げた。美咲は少し恥ずかしそうにしながらも、結衣の隣で「がんばって」と続けた。
食後、結衣は絵日記を見せると言って二階に上がり、美咲はリビングで本を読み始めた。蒼真と誠二は縁側に出て、小さな庭を眺めながら缶コーヒーを飲んだ。
庭には小さな鉢植えが並び、朝顔の蔓が支柱に絡んでいる。隣家の壁越しに蝉の声が降ってきた。日陰にいるのに、夏の熱はじんわりと肌に残る。
「実はな、蒼真。実家から荷物が届いてる」
「荷物?」
誠二が立ち上がり、奥の部屋から段ボール箱を持ってきた。宛名は「神代蒼真様」、差出人は「神代玄蔵」。
「爺さんから直接お前のマンションに送ると受け取れないかもしれないってんで、うちに送ってきた。中身は知らん」
「じいちゃん、そんなこと何も言ってなかったのに」
蒼真は段ボールを開けた。
中にはナイフが二本、丁寧に布で包まれて入っていた。
取り出して布を解く。刃渡り十五センチ。柄に細い溝。柄尻に通し穴。――蒼真が入学前に、父と祖父と三人で加工したスローイングナイフと同じ仕様だった。
「……じいちゃん」
手に持つと、重さも握り心地も馴染みがある。刃は新しく研がれていて、鋭い光を放っていた。既存の四本と合わせれば六本になる。失った一本を補うだけではない。予備まで含めた数だ。
箱の底に小さな紙片が一枚。祖父の字。達筆とも乱筆ともつかない癖のある文字で、たった一行。
『足りなくなったんだろう。予備も入れた』
それだけだった。「頑張れ」も「気をつけろ」も書いていない。ただ、孫が必要としているものを察して、送ってきた。
五月の実習で一本を失ったこと。前期試験で第2層に潜ったこと。直接詳しく話したわけではないのに、祖父は分かっていた。
弓だけではなく、こういうところも祖父らしい。
蒼真は紙片を指先で撫でて、口の端を上げた。
「気の利く爺さんだな」
誠二が缶コーヒーを傾けながら言う。蒼真は頷いた。
「うん。――ありがとう、叔父さん。預かっててくれて」
「礼なら爺さんに言え。俺は置き場所を提供しただけだ」
「うん。帰ったら連絡する」
誠二は目を細めた。
「蒼真」
「はい」
「兄貴も爺さんも、口で色々言うタイプじゃない。でも、見てないわけじゃない。お前がどこで何してるか、ちゃんと気にしてる」
「……分かってます」
「ならいい」
誠二はそれ以上言わなかった。縁側の空気に、蝉の声だけが残る。
蒼真はナイフ二本を布に包み直した。その重さは、武器の重さだけではなかった。
◇
帰り際、玄関で結衣が「また来てね!」と手を振り、美咲が「気をつけてね」と小さく言った。智子は保冷剤を入れた小さな袋を持たせようとして、蒼真が慌てて断った。
「本当に大丈夫です。すぐ電車なので」
「そう? でも暑いから、無理しないでね」
「はい。ありがとうございます」
誠二が蒼真の肩を軽く叩く。
「無理すんなよ。でも、やるなら全力でやれ」
「――はい」
世田谷の住宅街を駅に向かって歩きながら、蒼真はリュックの中のナイフの重みを背中に感じていた。
これで六本になる。実運用に五本、予備が一本。触媒の仕込みは帰ったらすぐにやろう。爪を切って、溝に括り付ける作業。地味で細かいが、この一手間が《小転移》を可能にする。
ナイフが二本増えたからといって、むやみに使えるわけではない。《小転移》は切り札だ。だが、選択肢が一つ増えることは、探索中の余裕に直結する。逃げるため。戻るため。仲間のもとへ届くため。
電車に乗り込み、窓際の席に座る。窓ガラスに、ナイフ六本ぶんを背負った自分が映っていた。
中央線が立川に近づくにつれ、車窓の景色が見慣れたものに戻っていく。迷宮都市の輪郭。モノレールの高架。探索者協会のビル。世田谷の静かな住宅街とは違う、ダンジョンのある街の空気。
錦町のマンションに戻ると、蒼真はリュックからナイフ二本を取り出し、机の上に並べた。既存の四本と合わせて六本。布の上に一列に並ぶ銀色の刃。
爪切りを手に取り、右手の爪を丁寧に切る。小さな爪片を一つずつ、ナイフの柄の溝に括り付けていく。祖父と父に教わった手順を、指が覚えている。
結び目が緩まないように。飛んだ時に外れないように。使わないで済むなら、それが一番いい。だが、必要になった時に失敗することだけは許されない。
六本の仕込みが終わる頃には、窓の外は夕焼けに染まっていた。
蒼真は机の端に立てかけた和弓を見た。
「――秋には、もっと強くなってる」
祖父の紙片を、メンテナンスノートの表紙裏に挟んだ。
バウムクーヘンの紙袋は空になり、ナイフは六本揃った。食卓の温かさと、祖父の短い言葉と、夏の訓練計画。その全部が、今の蒼真の背中を押している。
ナイフ六本を布に並べたまま、灯りを消した。
部屋の暗がりの中で、銀色の刃だけが、窓から差す夕焼けを細く返していた。




