第52話 夏休みの宿題
終業式の前日。
放課後の1-1教室に、第5班の六人が残っていた。窓を全開にしても風はほとんど入らず、蝉の声だけが教室を満たしている。黒板には翌日の終業式に関する連絡が残っていて、昼間の熱を吸った床からは、まだじんわりとした暑さが立ち上っていた。
机を六つだけ寄せて、簡単な円を作る。蒼真は教壇の前に立ち、メンテナンスノートを開いた。表紙の角は少し擦れている。四月から書き込んできた弓の記録、訓練の記録、そして前期実力考査の戦闘記録。その厚みが、一学期の時間そのものに見えた。
「反省会、やろう」
悠斗が机に肘をついた。
「蒼真、お前いつも反省会好きだよな」
「好きじゃない。必要だからやる」
「同じだろ」
「違う。好きなのはダンジョンに潜ることで、反省会はそのための準備だ」
「ほら、そういうとこ。準備まで好きなやつの顔してる」
紅葉が窓際から笑う。開いた窓の外では、校庭の向こうで運動部の掛け声が聞こえていた。
「班長、顔に出るタイプだよね。今も完全に『次どうするか考えるの楽しい』って顔」
「出てるか?」
「出てる」と航。「諦めろ」
「で、何から振り返る」
航が椅子を回して蒼真の方を向いた。いつもの淡々とした声だが、視線はノートに向いている。悠斗も茶化しながら姿勢を直し、紅葉は窓際から机の円に戻ってきた。里奈は膝の上で手帳を開き、真帆は筆箱から細いペンを取り出している。
ただの雑談ではない。全員が、その空気を分かっていた。
蒼真はノートのページを捲った。試験中に書き込んだ戦闘データ、帰還後に整理した課題。四日間かけて纏めた記録を、六人の前で広げる。
「まず、できたこと」
蒼真は指を折った。
「第2層に六人で降りて、ハイゴブリン通常種を三体倒して、変異種をやり過ごして、全員無傷で帰還した。時間も三十二分余裕を持って戻れた。これは全員の成果だ」
紅葉が腕を組んで頷く。
「索敵も全部通ったしね。見落としはゼロ。まあ、帰り道で悠斗が三回くらい『腹減った』って言ったのは、索敵じゃなくても分かったけど」
「戦闘中に腹鳴るの、あれは俺の責任じゃないだろ」
「体調管理も探索者の仕事だぞ」と航。
「そこで真面目に刺してくるなよ」
教室に小さな笑いが起きた。蒼真も笑ってから、紅葉へ頷く。
「ああ。紅葉の索敵がなきゃ側面射もできなかった。特に三体目のハイゴブリン、あれは紅葉が右側面を見てくれたから撃てた」
「それは班長が射線を作ったからでしょ」
「どっちかじゃない。両方だ」
紅葉が少しだけ照れたように目を逸らす。その反応を見て、悠斗がにやりと笑いかけたが、航の視線で黙った。
里奈が小さく手を挙げた。
「《氷矢》も――三体とも、足止めは機能しました」
「した。間違いなく機能した」
蒼真は里奈の目を見て頷いた。里奈の視線が一瞬揺れたが、逸らさなかった。
五月のあの日から、里奈はずっと「逃げない」ための訓練を重ねてきた。試験では、ハイゴブリンの足を止めた。一拍。それだけで前衛の命が守られ、蒼真の矢が通った。
「半歩でも止まれば、俺たちは動ける。里奈の一発は、数字以上に大きかった」
里奈は口元を引き結び、静かに頷いた。
「……はい」
真帆がぱっと手を叩く。
「《小回復》も二回使って、二回とも前衛を立て直せました! あ、でも悠斗さん、次はできれば『痛いけど平気』って顔で突っ立ってないで、ちゃんと言ってくださいね」
「言ったら心配するだろ」
「言わない方が心配します」
「はい。すみません」
悠斗が両手を上げると、真帆は満足げに頷いた。
「助かった」と悠斗。「あれなかったら二体目で膝ついてた」
「悠斗と航の前衛ローテーションも安定してた。一体目の時は悠斗が受けて航が牽制、二体目は逆。あの切り替えが速かった」
航が短く頷いた。
「悠斗が声を出してくれるからな。『替わる』の一言で動けた」
「それ航がすぐ反応してくれるからだろ」
「声がでかいだけじゃないってことにしといてやる」
「お前、たまに褒め方がひねくれてるよな」
蒼真は六人の顔を見渡した。できたことを確認する。成果を共有する。それが次に進むための土台だ。
笑いはある。だが、浮かれてはいない。第2層の重さを、一度全員で受けた後の笑いだった。
「――で、ここからが本題」
蒼真の声のトーンが変わった。
「課題。俺の火力が足りない」
教室が一瞬静まった。
蒼真はメンテナンスノートを掲げた。
「数字で言う。ハイゴブリン通常種三体を倒すのに、俺は合計九本の矢を使った。うち決定打になったのは三本。残りの六本は胸や肩や腹に当たったけど、表皮を裂くだけだったり、急所を外したりして、仕留めきれなかった」
悠斗が眉を寄せる。
「でも、三体目は一射で倒したろ。側面からこめかみ。あれ、すげえ綺麗だった」
「あれは条件が揃ったから成立した。紅葉がこめかみの位置を教えてくれて、前衛がヘイトを買ってくれて、里奈が保険で待機してくれて――その全部が揃って初めて一射で仕留められた。条件が揃わなかったら、また六射かかる」
蒼真はノートを閉じた。
「弓は点の攻撃だ。魔法みたいに面で攻撃できない。急所を射抜かなきゃ削りにしかならない。削りだけじゃ前衛の負担が増える。悠斗と航に無理をさせる」
悠斗が口を開きかけたが、蒼真が先に続けた。
「無理をさせたくないって言ってるんじゃない。もっと効率よく倒せれば、もっと奥まで行ける。もっと強い相手と戦える。そのために――弓の火力を上げる方法を見つけなきゃいけない」
航が腕を組んだ。
「矢に込める魔力を増やすのはどうだ。授業で習っただろ、武器に纏わせる魔力量は意図的に調整できると」
「考えた。魔力を多く込めれば一撃の威力は上がるはずだ。ただ――」
「消費が重い、だろ」
「ああ。魔力を過度に付与しても、ダメージ量は単純には比例しない。割に合わない可能性が高い。でも、」
蒼真はペンを取り、ノートに書いた。
「通常の射撃で削って、ここぞという場面で魔力を多く込めた一撃を撃つ。そういう使い分けができれば、今よりは、」
「緩急がつく、ってことか」と航。
「そう。全部の矢に魔力を込めるんじゃない。ここぞの一射だけ。それなら矢の消費も抑えられるし、魔力の負担も管理できる」
悠斗が手を叩いた。
「それ、やれるのか?」
「分からない。だから夏休みに試す」
蒼真の目が光った。
「夏休みは訓練施設が使える。百射、二百射でも引ける。魔力の込め方を変えながら撃ち込んで、どのくらい威力が変わるか、データを取る」
「夏休みって言葉の意味、知ってるか?」と悠斗。
「知ってる。訓練時間が増える期間だろ」
「だめだこいつ。完全に探索者学院に染まってる」
紅葉が手を挙げた。
「あたしも課題ある。索敵の範囲。今回は前方に集中してたけど、側面と後方の切り替えがもっと速くなれば」
「助かる。特に帰路の後方索敵は課題だった」
「うん。あの時のこと、まだ背中に残ってるから。次は、後ろから来る前に見つける」
蒼真は紅葉に頷いた。初実習の奇襲の教訓が、紅葉の中にも残っている。
里奈が静かに口を開いた。
「《氷矢》の精度――もっと上げます。足止めだけじゃなくて、凍結の範囲を広げられたら、前衛がもっと動きやすくなると思うので」
「里奈の足止め、今回は本当に助かった」と悠斗が言う。「あれで棍棒の振りが半歩遅れた」
「……半歩でも、役に立てたなら」
「半歩はでかい。俺の顔面が守られた」
真帆が続いた。
「《小回復》の回復量も。それと《光球》の位置取り。射線の邪魔にならないように照らすの、もっと練習します」
「真帆の光、何回か俺の矢の目印にもなった。邪魔どころか助かった」
「ならよかったです。神代さんが眩しくて外したら、私しばらく立ち直れません」
「外したら俺の責任だ」
悠斗が拳を握った。
「俺は――脚だな。《脚力強化》の持続時間。二体連続で息が上がったのは、持続が切れかけてたからだ。夏の間に体力つける」
「仙台帰っても走れよ」と航。
「走るって。朝飯前に」
「三日で終わるな」
「お前ほんと信用ねえな!」
航が静かに言った。
「俺は《斬撃強化》の出力調整。全開で振り続けると右腕が先に限界が来る。出力を落としても牽制が成立するラインを見つけたい」
「それが分かれば、前衛の交代タイミングももっと組みやすくなる」
「そういうことだ。夏明けには、数字じゃなくて感覚で合わせられるところまで持っていく」
蒼真は六人の顔を見た。全員が自分の課題を口にしている。試験で見えた壁を、誰一人として見なかったことにしていない。
四月の頃なら、話は悠斗の勢いか航の整理に寄っていた。けれど今は違う。紅葉が後方警戒を言い、里奈が氷矢の課題を出し、真帆が回復のタイミングを自分から挙げる。怖かったことまで、誰か一人の言葉に預けずに済んでいた。
――いいチームだ。
「よし。じゃあ、夏休みの宿題は決まりだな」
蒼真が笑った。悠斗が「宿題って言うなよ」と返し、航が「事実だろ」とツッコむ。紅葉が笑い、真帆が手を叩き、里奈が小さく、だが確かに笑った。
◇
翌日。終業式。
後藤が教壇に立ち、一学期の締めくくりの挨拶をした。
体育館での長い式を終えた後の教室は、少しざわついていた。夏休みの予定を話す声、実家に帰る日程を確認する声、赤点の補習を嘆く声。そんな空気の中で、後藤はいつも通り眠そうな顔をしている。
「えー、一学期お疲れ様でした。前期実力考査の結果は各自確認した通り。よくやった班もあれば、もう少しだった班もある。どちらにせよ、夏休みの間に自分の課題と向き合うこと。宿題もちゃんとやること。以上」
教室から笑いが起きた。後藤は紙コップを傾け、空だと気づいて顔を顰めた。
「それから、訓練施設は夏休み中も使える。使いたい者は自由に使え。ただし、ダンジョンへの自主潜入は不可だ。一年生は申請しても許可は降りない。分かったな」
「はーい」と教室全体。
「いい返事だ。信用はしてないが、返事はいい」
また笑いが起きた。後藤は眠そうに片手を振る。
「じゃあ、良い夏を。二学期に元気な顔を見せろ。真っ黒に焼けててもいいが、怪我だけは持ってくるなよ」
思い思いに教室を出てゆく生徒たち。
後藤は教壇を降り、蒼真の横を通り過ぎる時、一瞬だけ足を止めた。
「神代」
「はい」
「弓を引け。考えながら」
それだけ言って、後藤は教室を出ていった。
蒼真は後藤の背中を見送った。くたびれたスーツの肩が廊下の光に溶けていく。
――弓を引け。考えながら。
後藤は知っている。蒼真が何に悩んでいるか。火力の壁。弓術士の構造的な限界。そして、それを乗り越えるための答えが「考えること」にあると。
◇
終業式の後、教室に残った六人で最後の言葉を交わした。
「じゃあ、夏休みだな」と悠斗。
「訓練場で会うかもな」と航。
「あたしは実家帰るけど、八月の後半には戻る」と紅葉。
「私も――戻ったら、訓練場で」と里奈。
「みんな、体調気をつけてね」と真帆。
「真帆もな。人の心配ばっかりして、自分が倒れるなよ」と悠斗。
「それは全員に言えます。特に神代さん」
「俺?」
「一番言うこと聞かなさそうです」
「否定できないな」と航。
「そこは否定しろよ」
蒼真は六人を見渡した。四月に班分けで集まった六人。五月にダンジョンで地獄を見た六人。六月に連携訓練を積んだ六人。七月に試験で結果を出した六人。
たった四か月だ。
けれど、もうただの同級生ではなかった。互いの弱点も、怖がるところも、無茶をするところも、少しずつ知っている。だから一緒に潜れる。
「秋にまた潜る。その時には――もっと強くなってる」
悠斗が拳を突き出した。蒼真がそれに合わせる。航が一つ頷き、紅葉が「当然」と笑い、真帆が手を振り、里奈が――静かに、だが力のこもった声で言った。
「はい。秋は、もっと止めます」
その言い方が里奈らしくて、蒼真は思わず笑った。
◇
帰り道。蒼真は立川駅の南口から錦町のマンションへ歩いていた。
七月末の夕暮れ。空がオレンジ色に染まっている。駅前の雑踏が夏休みの空気を纏って賑やかだ。探索者風の装備をした男女がカフェのテラス席でノートPCを開いている。日常の中にダンジョンが溶け込んだ街。
蒼真はマンションに着き、玄関のドアを開けた。靴を脱ぎ、鞄を置き、和弓の前に座った。
メンテナンスノートを開く。昨日書いた課題。「火力を上げる方法を考える」「魔力を多く込めた射撃の試行」。
蒼真はペンを取り、新しいページの見出しを書いた。
夏休みの訓練計画。
①百射超えの基礎訓練(毎日)
②魔力込め量を変えた試射(データ取り)
③走り込み(持久力)
④メンテナンスノートの整理
書いてみると、やることは山ほどあった。一学期で見えた課題の全てが、夏休みという時間に詰まっている。
もちろん、休む日も必要だ。体を壊せば訓練どころではない。真帆に言われたばかりのことを思い出して、蒼真は計画表の端に「休息日」と書き足した。少し悔しいが、これも準備の一つだ。
それでも、やる気は静かに燃えていた。誰かに強制された宿題ではない。第2層で見えた壁を、自分で越えるための宿題だ。
蒼真は和弓の弦に指を触れた。弦が微かに震え、部屋に小さな音が響く。
――秋には、もっと重い矢を撃てるようになる。
窓の外で蝉が鳴いている。夏休みが始まる。探索者学院唯一の弓術士の、最初の夏が。
蒼真は弦を弾いた。
部屋に、弦音が一つ残った。




