第51話 個体差の範囲
後藤喜一郎は、管理棟二階の廊下を歩いていた。
紙コップのコーヒーはとうに冷めている。ネクタイは曲がったままで、スーツの皺は今朝アイロンをかけ忘れたせいだ。たぶん昨日もかけていない。
廊下の窓から差し込む七月末の光が、床に細長い白を落としていた。夏休み前の学院は、どこか浮ついている。試験が終わった解放感と、まだ残っている授業の気怠さが、生徒たちの足音に混ざっていた。
――体色が暗い、ね。
蒼真の帰還報告から一週間。後藤は報告書を仕上げ、探索者協会立川支部の窓口に提出していた。
報告書の内容は明確だ。
前期実力考査中に、一般クラス1組第5班が立川ダンジョン第2層北東方向の奥部で、体色の暗いハイゴブリンを目撃した。角は二本、体格は通常種と同等。ただし、ゴブリン四体を指揮するような行動をとっていた。
随行教官の橋本圭介も同一の報告を上げている。
生徒の見間違いで済ませるには、目撃者が揃いすぎていた。神代蒼真は戦闘後の観察眼がよく働く。鬼塚紅葉は斥候適性としての索敵報告を行っている。橋本は評価者として距離を置いて見ていた。
これを探索者協会立川支部が取りまとめ、探索省に報告する。そういう流れだ。
後藤は管理棟の窓から外を見た。七月末の太陽が校庭を白く焼いている。訓練場の方で剣を振る生徒の影が小さく動いている。
――五月にも、引っかかった。
脳裏に浮かぶのは、あの時の報告書だ。
第5班が偶発的に遭遇したハイゴブリン。角が一本、体高百五十センチ。通常のハイゴブリンは角二本で体高百二十センチ程度。あの時は「確度は要検証」と書いて引き出しにしまい、前期試験の日程調整に追われて意識の表面から沈んだ。
今度は別の異変だ。角の数ではなく、体色。そして統率行動。
角一本の個体と、体色の暗い個体。特徴は違う。だが、どちらも「通常のハイゴブリン」からは逸脱している。
――同じ現象の、別の表れ方か。
後藤は紙コップを握り潰した。冷めたコーヒーの匂いが、潰れた紙の隙間から微かに立ち上った。
◇
探索者協会立川支部は、ダンジョン入口の北側に位置する三階建ての建物だ。
後藤が訪れたのは三日前で、窓口の担当者に報告書を手渡した。
担当者は三十代後半の男で、眼鏡をかけて髪を七三に分けた、いかにも事務方という風体だった。報告書を受け取り、目を通し、一度だけ後藤の顔を見た。
「学院からの報告ですか。ハイゴブリンの体色の異常」
「と、五月の角一本の件を合わせて出した。別々の事象だが、両方とも一般的な個体から逸脱している」
「五月の件。ああ、これですね。確度は要検証、と」
「その後に前期試験の準備が入って、追加調査はできていない」
担当者は報告書を机に置き、ペンでメモを取った。動きは丁寧で、対応も形式通りだった。そこに悪意はない。
ただ、熱もない。
後藤はそれを責める気にはなれなかった。支部の窓口は、毎日のように大小の報告を受け取る。魔物の数が少し多い、個体の色が違う、通路の形が変わった気がする。大半は個人の体感差か、一時的な揺らぎだ。すべてに大規模調査を走らせていれば、人手が足りない。
「探索省に上げます。ただ、こちらからは事実関係の報告のみになりますので、判断は省側に」
「分かっている」
後藤はそれだけ言って支部を出た。
事務方の対応としては適切だ。彼に責任を求めるのは筋違いだろう。
問題は、探索省がどう判断するかだ。
◇
探索省からの回答は、報告から五日後に届いた。
後藤は職員室の自分の机で、探索者協会立川支部経由で届いた文書を読んでいた。
公式回答。形式は整っている。日付、受付番号、報告対象、調査区分。どれも抜けはない。
要旨は一文に集約できた。
「当該報告の内容を精査した結果、ハイゴブリンの体色の個体差は他ダンジョンにおいても散発的に報告されており、直ちに異常事態を示すものとは認められない。引き続き通常の探索活動の中で経過観察を行い、新たな異変が確認された場合は速やかに報告されたし」
――個体差の範囲。
後藤は文書を机に置いた。
間違いではない。確かに、ハイゴブリンの体色の個体差は他のダンジョンでも報告されている。それは事実だ。角の本数についても、ごく稀に変異個体が出現するという報告は過去にある。
探索省の判断は、形式上は妥当だった。
だが。
後藤はコーヒーを口に運んだ。冷たい。
角一本と暗色個体。二つの異なる特徴が同じダンジョンの同じ層で、わずか二ヶ月の間に確認された。それぞれを単独で見れば、個体差の範囲かもしれない。だが、二つ合わせて見ればどうか。
さらに、蒼真の報告によれば統率行動があった。体色だけではない。通常種と同等の体格で、ゴブリン四体をまとめて動かしていた。紅葉は「指揮しているみたいに」と表現した。橋本の補足報告にも、似た観察が記されている。
体色だけを抜き出せば、個体差で済む。
だが、色と行動を同じ欄に並べれば、見え方は変わる。
後藤は椅子の背にもたれた。
――俺が探索省の担当者なら、どうする。
正直に言えば、判断が難しい。現時点での報告件数はわずか二件。しかも報告元は学院。プロの探索者ではなく、一年生の学生だ。
担当者の立場に立てば、「学生の報告を根拠に大規模調査を発動する」のはリスクが高い。人員を動かすのは金と責任が伴う。動かした結果、ただの個体差でした、では済まない。
ことなかれ主義、と切り捨てるのは簡単だ。
だが、行政の判断としては、一定の合理性がある。
後藤は自分自身に問うた。
――お前は、納得しているのか。
していない。
後藤は文書をもう一度読んだ。「直ちに異常事態を示すものとは認められない」。直ちに、という言葉が引っかかる。
直ちには認められない。
では、将来的には。
そこまでは書いていない。
後藤は引き出しを開け、五月の報告書を取り出した。「確度は要検証」と自分で書いた文字が目に入る。
あの時、忘れなければ。
前期試験の日程調整に呼ばれなければ、もう少し早く動けたかもしれない。第2層の現地確認を行い、追加データを揃えた上で報告できていれば、探索省の判断も変わっていたかもしれない。
――たら、れば、だな。
後藤は二枚の報告書を重ねてファイルに挟み、引き出しの奥に戻した。忘れないように。今度は忘れないように。
ファイルの背に、赤ペンで短く書き込む。
立川第2層・ハイゴブリン変異疑い。
「……個体差、ね」
低い声が職員室に落ちた。周囲の教官たちは誰も聞いていない。
◇
後藤は窓の外を見た。
夏休みが近い。試験結果を受けて浮かれている生徒もいれば、赤点の追加実習に怯えている生徒もいる。教官としての日常が粛々と回っている。
蒼真の顔が浮かんだ。
帰還報告の時の目。暗色個体のことを正確に報告し、「あの個体は何か知っていますか?」と問うた目。班長として成長した目だ。
あの報告がなければ、後藤は五月の件を思い出さなかったかもしれない。蒼真が目撃し、橋本教官がバインダーに記録し、蒼真が後藤に報告した。その一連の流れが、引き出しの中に沈んでいた違和感を引き上げた。
生徒の仕事は報告すること。教官の仕事は、その報告を然るべき場所に届けること。
届けた。
届いた。
そして――個体差の範囲、と返ってきた。
後藤は紙コップを捨てた。
――秋の実習で、もう一度第2層を確認する。
それが今の自分にできることだ。探索省を動かすだけの材料を、自分の目で集めるしかない。
教員として。
いや、元探索者として。
後藤は席を立ち、次の授業の準備に向かった。曲がったネクタイはそのままで、紙コップの跡が机に輪を作っていた。
◇
同じ日の夕方。
蒼真は訓練場で弓を引いていた。
五十射目。的の中心から僅かに外れた矢を見つめ、呼吸を整える。夕方の訓練場には熱が残っている。床から立ち上る暑さと、弓を引き続けた右手の熱が、身体の内側で重なっていた。
――後藤先生、何か分かったのかな。
試験帰還後に暗色個体のことを報告して以来、後藤からは何も言われていない。「知らないよ。だから調べる」と言って管理棟に消えたきりだ。
蒼真は弓弦を引き絞った。
後藤のことは後藤に任せる。教官の仕事に首を突っ込むのは自分の領分じゃない。
今、自分がやるべきことは――。
矢を放った。的の中心を射抜く。蒼い軌跡が訓練場の空気を裂いた。
――火力だ。
メンテナンスノートに書いた言葉が頭をよぎる。「弓の一撃を重くする方法を考える」。具体的な方法はまだ見えない。でも、やるべきことだけは分かっている。
ただ引くだけでは足りない。急所を射る精度だけでも足りない。ハイゴブリンの表皮を裂くだけではなく、その奥へ届かせる一射が要る。
五十一射目。
弦を引く。弽が親指を押し返す。右肩に張りがある。だが、まだ崩れない。
夏休みが来る。
蒼真は矢筒から次の矢を抜いた。
今日得た手応えは、迷いがあっても今やるべき訓練へ戻れること。
まだ届かない課題は、弓の一撃をどう重くするか、その答えが見えていないこと。
後藤が何を調べているのかは、今は分からない。
だから蒼真は、六十射目へ向けて弓を構えた。




