第49話 報告
第1層の空気が、こんなに軽く感じられたことは初めてだった。
第2層から階段を登りきった瞬間、六人の肩から何かが降りたように呼吸が楽になった。魔素密度の差――第2層の圧がなくなったことで、身体が解放された感覚がある。岩肌の色も、黒褐色から見慣れた灰褐色へ戻っていた。真帆の《光球》の白い明かりさえ、少し柔らかく見える。
「――帰ってきた」
悠斗が天井を仰いだ。その声に力みはない。疲労はあるが、安堵の方が大きい。
「まだだぞ。地上に出るまでが試験だ」
蒼真が言うと、航が鼻を鳴らして笑った。
「遠足みたいだな」
「遠足は帰りも命がけじゃねえよ」
「帰りの第1層のほうが怖くなくなってる私たち、成長だと思う」
紅葉が独り言のように呟いた。
その言葉に、蒼真は少しだけ頷いた。確かに、第1層の空気はもう、最初に潜った時のようにこちらを飲み込むものではなくなっていた。もちろん油断はできない。だが、何が危険で、どこを見ればいいかを、六人の身体が覚え始めている。
帰路の第1層は、行きよりも滑らかだった。ゴブリンとの遭遇が二回あったが、第5班にとっては流れ作業に近かった。蒼真の先制射で一体を仕留め、前衛が残りを処理する。紅葉の声掛け、航の後方警戒、悠斗の踏み込み、里奈の待機、真帆の光球維持。意識しすぎなくても、全員が自分の位置へ戻る。
ただ、蒼真はその滑らかさをそのまま安心にはしなかった。
矢残四本。帰りの二戦で二本使用。今日一日で二十本の矢を射った。回収できたのは実質ゼロ。避けられてダンジョンの硬い壁に当たった矢は変形し、再使用に堪えない。ゴブリンに刺さりきらなかった矢も、鏃や矢羽根に傷みが見受けられるため再使用は控えるべきだった。
蒼真はメンテナンスノートに書いた。
第2層戦闘での矢の回収率は実質ゼロ。
――これも弓術士の課題だ。
矢は消耗品。魔法は術者の魔力が続く限り撃てるが、矢は物理的に有限。いくら射形を磨いても、矢筒が空になれば撃てない。弓術士の壁は、火力だけではない。継戦能力にもある。
十三時二十八分。
予定より三十二分早く、第5班はダンジョン入口に到達した。
岩の裂け目を抜けると、七月の太陽が待っていた。
蒼真は目を細めた。光が、眩しい。ダンジョンの中にいた約六時間。朝の涼しさは消え、夏の熱気が肌を包んだ。蝉の声が耳に突き刺さるように鳴っている。外の空気は暑いのに、魔素の圧がないだけで肺が軽かった。
「――出た」
里奈が呟いた。杖を握ったまま、空を見上げている。目の端が光っている。泣いているのではない。光が眩しいだけだ。でも、その表情は五月に地上に戻ったときと同じだった。安堵と、達成感。
ただし、あの時とは違う。怯えきって立っていた顔ではない。自分の足で戻ってきた者の顔だった。
「里奈ちゃん、お疲れさま」
真帆が里奈の隣に立ち、水筒を差し出した。里奈は受け取って一口飲み、ふっと頬を緩めた。
「……ありがとう。真帆ちゃんも」
「うん。お疲れさま」
悠斗が地面に大の字に寝転がった。
「終わったーーー! 腹減った! マジで腹減った!」
「お前は戦闘中も腹減ってたろ」
「航、よく分かるなお前。減ってたよ! ハイゴブリンの棍棒避けながらグゥって鳴ったもん!」
「それ腹の音だったのかよ」
「俺は命の音だと思ってた」
「腹の音を格好よく言うな」
紅葉が呆れたように笑い、真帆もつられて笑った。里奈も、ほんの少し肩を揺らす。
蒼真はその掛け合いを聞きながら、弓を背に回した。
――終わった。
第5班は、第2層を踏破して帰ってきた。計画通りに突入し、計画通りに戦い、計画外の敵を前にして退き、計画通りに帰還した。全員無傷。時間内。五月とは、何もかもが違う。
担任の後藤が待機場所に立っていた。くたびれたスーツにコーヒーの紙コップ。ネクタイは相変わらず曲がっている。ただ、蒼真たちを見る目は、いつもの昼行灯のそれではなかった。
蒼真は背筋を伸ばした。ここまでが試験なら、報告までが班長の仕事だ。
「後藤先生。第5班、帰還しました。十三時二十八分、帰還予定三十二分前です。前衛に軽微な打撲・衝撃あり。小林の《小回復》により治療済みであり支障なし。第2層中間点に到達し、帰還しました」
後藤は紙コップを傾けながら聞いていた。表情は変わらない。だが視線だけは、蒼真の報告と五人の状態を同時に確認している。
「戦闘概要。第1層でゴブリン計十二体を撃破。第2層でハイゴブリン三体、ゴブリン計八体を撃破。全戦闘でフォーメーションを維持し、前衛の負傷は軽微で小林の《小回復》で対応済みです」
後藤が小さく頷く。
蒼真は一拍置いた。
「それと――第2層の奥で、体色の暗いハイゴブリンを目撃しました」
後藤の手が止まった。
紙コップの縁が、口元に届く前に宙で止まる。
「体色が、より暗い。黒っぽい。角は二本で体格は変わりませんが、配下のゴブリン四体を指揮しているように見えました。ゴブリンへの語りかけも、通常の個体より明らかに多かった。全体で五体がまとまって行動していて――統率が取れすぎていました」
紙コップが後藤の手の中で微かに傾いた。
「……体色が暗い、ね」
後藤の声が低くなった。蒼真は後藤の目を見た。昼行灯の裏に、何かが動いている。
五月に、角一本のハイゴブリンを報告した時と同じだ。あの時も後藤は、ほんの一瞬だけ顔を変えた。
「先生?」
「いや。よく観察したな。報告、了解した」
後藤は紙コップを口に運び、コーヒーを飲み干した。
「お前たち、よくやった。全員、今日はゆっくり休め」
その言葉は短かった。けれど、いつもの雑な労いとは少し違った。後藤はくしゃりとコップを潰し、背を向けた。その背中に、蒼真は声をかけた。
「先生。あの個体は、何か知っていますか?」
後藤が立ち止まった。振り返らない。
蝉の声だけが、やけに大きく聞こえた。
「……知らないよ。だから調べる」
それだけ言って、後藤は管理棟の方へ歩いていった。
蒼真はその背中を見送った。後藤の表情が変わった瞬間。五月に、角一本のハイゴブリンを報告したときと同じ空気。あの時も後藤は「一本?」と呟き、何か違和感を覚えていた。
――先生は、何かを掴みかけている。
だが蒼真にできることは報告だけだ。あとは教官と、その上の組織が判断する。
蒼真は空を仰いだ。七月の青空は高く、白い雲が立川の街の上をゆっくり流れていた。
「蒼真! 飯行こうぜ飯! 死ぬほど食う!」
悠斗の声が背後から飛んできた。
「俺も腹減った」
航が立ち上がる。
「里奈と真帆もどう? せっかくだし六人で」
「行く」
里奈の頬が緩んだ。真帆も頷く。
「紅葉は?」
「行く行く。お腹ぺこぺこ」
六人が歩き出す。ダンジョンの入口を背に、夏の光の中を。
蒼真は最後尾を歩きながら、仲間たちの背中を見ていた。
火力が足りない。矢は有限だ。一撃で仕留めきれない壁がある。
でも――。
蒼真は拳を握り、開いた。
六人で戦えた。考えて撃って、仲間の力を借りて、退くべき時は退いた。
火力の課題は、持ち帰る宿題になった。矢の消耗も、次までに考えなければならない。暗い肌の個体のことも気になる。
けれど今日は、六人で第2層を抜けて、全員で陽の下に戻ってきた。
――今日は、いい日だった。
「おい蒼真、何ニヤニヤしてんだよ! 気持ち悪いぞ!」
「うるさいな悠斗。行くぞ、飯だ飯」
蒼真は足を速め、五人の輪に追いついた。
七月の太陽が、六人の影を長く伸ばしていた。




