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蒼弓の軌跡 ~探索者学院唯一の弓術士は静かに頂を狙う~  作者: 七夜灯
第二章 前期実力考査編

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第48話 暗い肌の群れ

 第2層の奥に進むにつれて、岩壁の色が深くなっていった。


 黒褐色だった壁面は、さらに濃い影を帯び、真帆の《光球(ライト)》が照らしても奥行きが掴みにくい。足元の凹凸も増え、靴底に返る感触が一歩ごとに違う。第1層では湿った岩の匂いが強かったが、ここでは魔素そのものが空気に沈んでいるようだった。


 蒼真は壁際で短く足を止め、メンテナンスノートを確認した。突入から約四時間。時刻は十一時三十分前後。試験目標の達成ライン、第2層の中間点まで到達して帰還することは、もう手の届く距離にある。帰還予定の十四時まで残り約二時間半。十分な余裕がある。


 矢残六本。ここまで四戦、ハイゴブリン通常種を三体とゴブリンを計八体撃破。前衛の消耗は真帆の《小回復(ライトヒール)》で管理できている。里奈の《氷矢(アイスボルト)》は計三発使用、魔力にもまだ余裕がある。全員の状態は良好だ。


 数字だけを見れば、順調だった。

 だが、蒼真はその言葉を胸の中で強く否定した。順調という言葉は、油断と近い場所にある。第2層に入ってから、弓術士の壁を見た。ハイゴブリン二体との戦闘では、矢を六本も使った。前衛にも回復にも負荷がかかった。次に何が出るか分からない以上、余裕があると決めつけるのは早い。


「班長」


 紅葉の声が、変わった。

 蒼真は即座に身構えた。紅葉の声のトーンが、いつもの索敵報告とは違う。硬い。


「前方、広間。ハイゴブリン一体、ゴブリン三体。計四体。全部で五体か。いや、ハイゴブリンの後ろにもう一体いる。ゴブリンが四体目。計五体」

「五体……」


 多い。これまでの遭遇は最大でも四体だった。

 悠斗が槍を握り直す音がした。航の剣の鯉口が、ほんの僅かに鳴る。里奈が杖を両手で持ち直し、真帆の《光球(ライト)》がわずかに揺れた。


「うん? 待って。ハイゴブリンの肌、ちょっと違う」


 紅葉が目を凝らした。《視力強化》の光が瞳に強く灯る。


「……体色が暗い。他のハイゴブリンより肌が黒っぽい。角は二本で体格は変わらないけど、雰囲気が違う。ゴブリンたちが、ハイゴブリンの方を見てから動いてる。なんか……指揮してるみたいに」


 蒼真の背中に冷たいものが走った。


 ――通常種じゃない。


 体色が暗い。配下のゴブリンへの指揮が見える。通常のハイゴブリンは後衛を狙って走り出す程度の知能だが、この個体はゴブリンを使っている。

 五月に戦った個体は角が一本だった。今回は角が二本で、体格も通常種と変わらない。だが中身が違う。別のタイプの異常個体。

 蒼真は全員に小声で指示した。


「止まれ。音を出すな」


 五人が凍りついたように足を止めた。橋本教官が蒼真の判断を静かに見守っている。

 蒼真は壁際に身を寄せ、広間の入口へ視線を向けた。真帆の《光球(ライト)》は低く抑えられている。紅葉が少し前でしゃがみ、岩の陰から広間を見ている。悠斗は槍の石突きを床から僅かに浮かせ、金属音を出さないようにしていた。航は後方へ視線を配りながら、前方の気配にも意識を残している。


 ――戦うか。


 ――戦わないか。


 蒼真は考えた。

 先制射撃で仕掛けるか。直前の広間戦で成功した側面射を使えば、ハイゴブリンのこめかみを初撃で狙える。紅葉が位置を取れれば、一射で落とせる可能性はある。

 だが、可能性でしかない。


 こいつは他の個体より知能が高い。ゴブリンを指揮している。先制射が外れたら、あるいは一撃で倒しきれなかったら、五体が連携して反撃してくる。ゴブリン四体が同時に前衛に突っ込んでくれば、悠斗と航の二枚では持たない。

 里奈の《氷矢(アイスボルト)》で一体を止められても、残りが多すぎる。真帆の《小回復(ライトヒール)》は速くなったが、複数同時に負傷者が出れば追いつかない。蒼真の矢は残り六本。ここで半分以上を消費すれば、帰還時の不測の遭遇に対応できない。


 それに。

 蒼真は紅葉の報告を反芻した。まとまって行動。指揮しているように見える。通常の遭遇パターンとは異なる動き。


 ――これは、深追いすべきではない。


 五月の教訓が頭をよぎった。あのときは里奈を追って第2層に飛び込み、異常個体と死闘を演じた。結果として全員無事だったが、たまたま上手くいっただけだ。計画外の行動は、計画外のリスクを呼ぶ。

 今回の目標は試験の突破だ。未知の敵と戦うことではない。


「やり過ごす」


 蒼真の声に、悠斗が目を見開いた。


「戦わないのか?」

「戦わない。あれは通常種とは違う。統率が取れすぎている。五体を同時に相手にしたら前衛がもたない。試験の目標達成には必要ない戦闘だ。リスクを取る理由がない」


 悠斗は一瞬だけ何か言いかけたが、槍を握る手の力を抜いた。


「……了解」


 航が静かに頷いた。


「蒼真の判断に賛成だ。退く勇気もリーダーの仕事だろ」


 里奈が唇を噛んでいた。恐怖ではない。戦わなくていいのか、という迷いだ。蒼真はそれに気づいたが、あえて言葉にしなかった。

 ここで「逃げじゃない」と言えば、里奈の覚悟を疑うように響く。里奈はもう逃げていない。だからこそ、今は班長が戦わないと決める。


「紅葉、あいつらの移動方向は?」

「北東に向かって移動してる。このまま待てば、五分くらいで完全に射程外に出ると思う」

「待つ。全員、音を殺して待機」


 五分間、第5班は通路の陰で息を潜めた。


 たった五分。けれど、ダンジョンの中では長い。

 誰も動かない。悠斗の呼吸が少しだけ荒い。航は後方を見たまま、時折前方へ視線を戻す。里奈は杖を握ったまま、唇を引き結んでいる。真帆は《光球(ライト)》を必要最低限の明るさに抑え、光が広間へ漏れないよう位置を調整していた。

 蒼真は矢を番えなかった。弓を握るだけに留めた。番えれば、体が撃つ準備を始める。撃つ準備をすれば、撃ちたくなる。


 ――今は、撃たない判断を守る時間だ。


 紅葉が小声で状況を報告し続けた。


「暗い肌の個体、広間中央を通過。ゴブリン二体が前、二体が後ろ。ハイゴブリンが時々振り返ってる。……今、北東の通路に入った。最後尾のゴブリンも続いた。足音、遠ざかってる」


 暗い肌のハイゴブリンは配下のゴブリン四体を引き連れ、広間を横切って北東の通路へ消えていった。


「行った。反応なし」


 蒼真が全員に頷いた。

 張り詰めていた空気が、ようやく少し緩む。悠斗が喉の奥で息を吐き、真帆が《光球(ライト)》を元の明るさへ戻した。


「よし。帰還ルートに切り替える。試験目標は達成した。第2層中間点到達を確認、これより帰還を開始する」


 蒼真は橋本教官に振り返った。


「橋本教官。第2層で体色の暗いハイゴブリンを目撃しました。通常と異なる行動パターン。ゴブリンを指揮しているように見えました。配下のゴブリンへの語りかけも多かった。報告します」


 橋本教官はバインダーにペンを走らせながら、蒼真を見た。眼鏡の奥の目が、一瞬だけ鋭くなった。


「分かった。帰還後に担任にも報告しなさい」

「はい」


 その短いやり取りで、蒼真の判断が間違っていなかったことが確信に近づいた。

 橋本教官は戦闘に参加しない。だが、この報告を軽く扱わなかった。ならば、あの個体は少なくとも試験中の一年生が不用意に挑む相手ではない。


 蒼真は前を向いた。


 帰還ルートを辿りながら、蒼真の頭にはあの暗い肌のハイゴブリンの姿が焼きついていた。五月の異常個体は角が一本だった。今回は角は二本で数は普通だが、肌の色と行動が違う。同じ変異なのか、別の現象なのか、蒼真には分からない。

 ただ、一つだけ確かなことがあった。


 ――深追いしない判断は正しかった。


 五月の自分なら、突っ込んでいたかもしれない。異常個体を見て、弓でどこまでやれるか試したいと思っていたかもしれない。須藤に勝ったときのように、強い敵を前にして胸が熱くなり、その熱に足を動かされていたかもしれない。

 だが今は違う。

 守るべき仲間がいて、達成すべき目標がある。班長として、退くという選択肢を取れるようになった。

 それが成長なのだと、蒼真は自分に言い聞かせた。


「蒼真」


 航が横に並んだ。


「今の判断、良かったと思う」

「……そうか」

「ああ。俺たちだけならともかく、帰還まで含めると戦う理由が薄い。あそこで引けるなら、次も判断を任せられる」

「褒めてるのか?」

「褒めてる」

「分かりにくいんだよ」


 悠斗が後ろから小さく笑った。


「俺は正直、ちょっと戦ってみたかったけどな」

「言うと思った」

「でもまあ、戦わなくて正解だったと思う。あれ、なんか嫌な感じしたし」


 里奈が小さく頷いた。


「……私も、少しだけ戦わなくていいのかなって思いました。でも、今は、ほっとしてます」

「里奈は逃げてない」


 蒼真は前を向いたまま言った。


「俺が戦わないって決めた。それだけだ」

「――はい」


 里奈の声が少しだけ柔らかくなった。真帆がその隣で安心したように微笑む。


 蒼真は矢筒の重みを確認した。矢残六本。まだ油断はできない。帰還路でも魔物と遭遇する可能性はある。

 今日得た手応えは、未知の敵を前にしても戦わない判断ができたこと。

 まだ届かない課題は、あの暗い肌の個体の正体も、強さも、何も分からないこと。


 ――今は、それでいい。


 分からないものに挑むのではなく、分からないものとして報告する。

 それも探索者の仕事なのだと、蒼真は思った。


「隊形維持。帰るぞ」


 六人は来た道を戻り始めた。

 暗い肌の群れが消えた広間を背に、蒼真は一度だけ振り返る。

 黒褐色の闇は、何も答えなかった。

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