第44話 魔素の密度
階段を降りきった瞬間、蒼真は呼吸が詰まるのを感じた。
空気が、重い。
第1層とは違う。魔素の密度が全身を押し包むように纏わりつき、肺に吸い込む一息ごとに、目に見えない粒子が喉を滑り落ちていく感覚がある。五月にここへ来たときは里奈を追うのに必死で、空気の質感など気にする余裕もなかった。だが今、計画通りに足を踏み入れた第2層は――明確に別の場所だった。
足元の岩も違う。第1層より凹凸が大きく、踏みしめるたびに靴底へ硬い感触が返ってくる。壁面の黒褐色は光を吸い、真帆の《光球》が照らしても奥行きが掴みにくい。広いのに、圧迫される。そんな矛盾した感覚があった。
「……すごいな」
思わず声が漏れた。弓を握る右手に魔力が勝手に集まろうとする。体が、戦いに備え始めている。
「第2層の魔素密度は第1層より明確に濃いと習っている」
航が横に並び、低い声で補足した。教科書の知識だ。知識としては知っていた。だが実際に肌で受けると、頭だけの理解だったことが身に沁みる。
「一・二倍って聞くと大したことなさそうなのにな」
「体感だと全然違う。数字は平均値だし、通路や広間で濃淡もあるはずだ」
航はそう言いながらも、周囲から視線を外さない。冷静な声の奥に、警戒が張られている。
真帆の《光球》が頭上で揺れ、岩壁を照らした。黒褐色の岩肌だ。第1層の灰色がかった岩とは色が違う。天井は高く、光球の光が届ききらない暗がりが頭上にわだかまっている。やや薄暗い――光源らしい光源は見当たらないのに、完全な暗闇にはならない。ダンジョンの不思議さを改めて実感する。
「光球、少し高めにしますね」
真帆が掌を上げると、白い光がゆっくりと上昇した。足元と壁面の両方が見える高さ。戦闘になったとき、前衛の足運びと敵の影を同時に拾える位置だ。
「助かる」
「はい。第1層より影が濃いので、低いと足元しか見えなさそうです」
真帆の声は落ち着いていた。回復役として後ろにいるだけではなく、視界を支える役割も自分で理解している。蒼真はそのことに小さく頷いた。
「紅葉」
蒼真が呼ぶと、紅葉はすでに前方を見据えていた。瞳にうっすらと光が宿る。《視力強化》だ。
「前方、通路が北東に伸びてる。幅は第1層より広め、約四メートル。五十メートル先で広間に出る。……魔物反応、なし」
報告は簡潔で的確だった。声に余裕がある。第1層で八戦を重ねてきた斥候の落ち着きだ。
蒼真は頷き、全員の位置を確認する。紅葉が先頭、悠斗が前衛、航が中後衛寄りのフリー、蒼真が中衛、里奈と真帆が後衛。橋本教官はさらに後ろで、距離を保ったままバインダーを抱えている。
評価の視線はある。けれど、今はそちらに引っ張られない。
「了解。フォーメーション維持、第1層と同じ。ただし――」
蒼真は全員の顔を見回した。
「通路が広い。射線は確保しやすくなるけど、その分、ヤツらの動きも大きくなる。ハイゴブリンは棍棒持ち。リーチは悠斗の槍と近い。脚も速い。悠斗、航。距離を詰められたら無理に受けるな。広間が近ければ下がっていい。広間のほうが二枚並びで受けられる」
「了解」
「おう」
悠斗が槍を軽く回し、航が剣の柄に手を置いた。
「受け止めるより、ずらす感じだな」
「ああ。正面で止めようとするな。腕力勝負にしない」
「分かった。派手に受けた方が格好いいけど、今日は格好よさより点数だな」
「点数より生還だ」
航が即座に言い、悠斗が「それもそう」と笑った。軽口はある。だが、足は浮いていない。
蒼真は矢筒を軽く叩いた。残十五本。ナイフ四本、触媒付き。
《小転移》は――使わない。
この試験では、弓だけで戦う。第5班の力で、正面から第2層を踏破する。
もちろん、最後の最後に必要なら迷うつもりはない。だが、それは最悪の事態だ。最初から切り札に寄りかかる戦い方はしない。
「里奈」
名前を呼ぶと、里奈が顔を上げた。杖を握る指が白い。顔色は第1層より僅かに青い。魔素の密度が、もう身体に出はじめている。
「魔素、きついか?」
「……少し」
正直な答えだった。里奈は唇を引き結び、それから言い直した。
「少し、重いです。でも――大丈夫です」
その声は第2層の降り口で聞いた「大丈夫です」と同じ芯があった。蒼真は頷いた。
「無理はするな。ただ、お前の《氷矢》はここでも必ず要る。足止め、頼むぞ」
「――はい」
里奈の目に力が戻る。
真帆が里奈の肩に軽く触れた。何も言わない。ただ、いるよ、という意思表示。里奈がわずかに頷く。
蒼真はそれ以上、里奈に言葉を重ねなかった。励ましすぎれば、期待が重くなる。心配しすぎれば、腫れ物になる。今の里奈には、役割を渡すだけでいい。
足を止める。
その一言で、里奈は前を向ける。
「橋本教官」
蒼真が振り返ると、橋本教官は階段の最後段に立ったまま、バインダーにペンを走らせていた。眼鏡の奥の目が蒼真を見据える。
「第2層の探索を開始します。帰還予定は十四時。現在十時五分、残り約四時間」
「確認した。注意事項は承知しているな」
「はい」
橋本教官の視線が、蒼真から悠斗、航、紅葉、里奈、真帆へと順に流れた。全員の装備、立ち位置、表情を確認しているのだろう。
蒼真はその視線を背中で受け止め、前を向いた。
通路が北東へ伸びている。黒褐色の岩壁が左右に迫り、光球の明かりが揺れるたびに影が踊った。足元の岩は第1層より凹凸が大きく、踏み外せば足首を捻りかねない。広い通路は射線を取りやすい一方で、敵に横へ逃げる余地も与える。
五月、ここに来たのは混乱の中だった。里奈を追い、ゴブリンの叫びを聞き、戦い、血を流した。
今は違う。
六人で、揃って、作戦を持って――ここに立っている。
弓を握り直す。弦に触れると、指先に馴染んだ感触が走る。何千本もの矢を放ってきた右手が、来いと囁いている。
「――行くぞ」
蒼真の声に、五つの足音が続いた。
第2層の探索が、始まった。
今日得た手応えは、第2層の重さを全員で受け止めたうえで隊形を崩さなかったこと。まだ届かない課題は、この魔素の中でハイゴブリンを相手に、同じ冷静さを保てるかどうか。
蒼真は一歩先の暗がりを見据え、右壁寄りに歩幅を合わせた。




