第43話 六人で降りる
第2層降り口は、記憶の通りだった。
岩を削り出した階段が、暗闇の底へと続いている。段差は一段あたり三十センチ近くあり、幅は二人がすれ違えるかどうか。壁面には苔が張り付き、空気はじっとりと重い。階段の先から這い上がってくる魔素の圧が、第1層とは明らかに違った。
六人が降り口の前で足を止めた。真帆の《光球》が階段の上部だけを白く照らし、その先は光を吸い込むような黒に沈んでいる。
「ここだ」
蒼真は階段の入口を見下ろした。
五月の記憶が蘇る。あのときは里奈の足跡を追って、この階段を駆け下りた。考える余裕なんてなかった。ただ「追え」という後藤の声と、「全員連れて帰れ」という言葉だけを頼りに暗闇に飛び込んだ。
――今は違う。
六人が揃っている。フォーメーションがある。作戦がある。時間の管理がある。
蒼真は腕時計を確認した。〇九四五。突入から二時間十五分。計画より十五分ほど早い。第1層の戦闘がスムーズだった分の貯金だ。
「ここで一回休憩を入れる。五分」
蒼真が言うと、悠斗が壁にもたれかかって息を吐いた。
「助かる。さすがに七戦連続だと脚にくるわ」
「お前が一番動いてるからな」
航が水筒を取り出し、一口飲んでから悠斗に回した。悠斗は「生き返る」と大げさに言いながら水を飲む。軽口はあるが、声の奥には緊張が混じっていた。
蒼真も矢筒を下ろし、壁に背を預けた。右手を開いたり閉じたりする。弦を引く筋肉はまだ余裕がある。第1層では先制射に絞って矢を節約したから、射形の負荷は小さい。問題は第2層だ。ハイゴブリン相手にどこまで撃てるか。
矢は十五本。ナイフ四本。水分、非常食、弦の張り。ひとつずつ頭の中で確認する。余裕はある。けれど、余裕に見えるものは、戦闘が始まれば一瞬で削れる。
紅葉が降り口の階段を覗き込み、《視力強化》で奥を確認していた。
「階段は約二十段。下に広い空間が見える。第2層側に魔物の反応はなし。今のところは」
「ありがとう」
蒼真は里奈に目を向けた。
里奈は壁に背を預け、杖を膝に立てかけていた。目を閉じている。顔色は白いが、呼吸は整っている。蒼真が見ていることに気づいたのか、里奈が目を開けた。
「大丈夫です」
蒼真は何も言わなかった。頷いただけだ。
後藤の助言を思い出す。追い詰めるな。腫れ物にするな。里奈は自分で乗り越えるしかない。班長にできるのは、里奈が戦える場所を用意することだけだ。
真帆が里奈の隣に座り、水筒を差し出した。里奈が小さく「ありがとう」と受け取る。その二人の距離感に、蒼真は少しだけ安心した。訓練場で里奈と真帆が交わした言葉、足を止めない、倒れない。その約束はまだ生きている。
橋本教官は少し離れた位置で、バインダーを片手に六人を見ていた。休憩中も評価対象なのだろう。けれど蒼真は、そこを気にしすぎないようにした。今見るべきなのは、教官のペン先ではなく、五人の呼吸と表情だ。
◇
五分後。
六人が降り口の前に立った。
蒼真は全員の顔を見た。
悠斗。槍を握る手に力が入っている。いつもの軽口がない。緊張しているのだ。でも、目は据わっていた。大きな体を半歩前に出し、最初に敵を受ける覚悟をしている。
航。長剣の柄に手を添えている。表情は変わらないが、顎がわずかに引かれている。戦闘態勢に入る前の、航の癖だ。後方も横道も見るための意識が、既に張られている。
紅葉。《視力強化》を維持したまま、階段の先を見つめている。索敵スイッチが入っている。普段より口数が少ない分、集中の深さが分かった。
里奈。杖を両手で握りしめている。唇が引き結ばれている。だが、目は前を向いていた。逃げないと決めた日の言葉を、今も自分で支えている顔だった。
真帆。《光球》を掌の上で揺らしている。笑顔はない。代わりに、静かな覚悟が目の奥にあった。誰かが倒れたら支える。その準備を、もう始めている。
こいつらとなら行ける。
蒼真はそう思った。思って、心臓が熱くなった。
「これから第2層に降りる」
全員が蒼真を見た。
「五月にここに来たときは、バラバラだった。里奈を追って、混乱の中で飛び込んだ。あのとき俺たちは、まだ班だった」
蒼真は一度言葉を切り、弦ダコのある右手を握った。
「――今は違う。フォーメーションがある。声掛けがある。作戦がある。お前たちがいる。俺たちは今、パーティだ」
悠斗が口角を上げた。
「パーティか。いいじゃん」
「うん」
航が顎を引いて頷いた。
紅葉が「ようやく班長っぽいこと言った」と小さく笑い、真帆が緊張を少し緩める。里奈も、ほんのわずかに頷いた。
蒼真はその反応を見てから、続けた。
「降り口から先のフォーメーションは変わらない。紅葉が先頭、悠斗が前衛、航がフリー。俺が中衛で射線を確保する。里奈と真帆は後衛。焦らない。敵を見つけても、まず位置と数を確認する。俺が判断を出す」
「了解」
「任せろ」
「見えたものだけ言う」
「足を止めます」
「回復、準備してます」
短い返事が並んだ。作戦会議で何度も確認した役割が、今ここで声になった。
「橋本教官」
蒼真は橋本教官に向き直った。
「第2層に降ります」
橋本教官はバインダーから目を上げた。黒縁眼鏡の奥の瞳は表情を読ませなかったが、ペンがバインダーの上で一度止まった。
「確認した。注意事項は承知しているな」
「はい。ハイゴブリンは第1層のゴブリンとは別物です。無理はしません」
「よろしい」
橋本教官が一歩引いた。戦闘には参加しない。評価する目が、蒼真の背中を静かに追っている。
「紅葉」
「了解」
紅葉が階段に足を踏み入れた。靴底が岩を踏む音が、暗闇に吸い込まれていく。
蒼真は階段を見下ろした。
五月の記憶が、最後にもう一度蘇った。
里奈の悲鳴。真帆の傷。ハイゴブリンの硬い肌。後藤の通信。至近距離の一矢。そして、お前の班員が死んでいたかもしれない、という叱責。
あの日の蒼真は、班長という言葉の重さを知らなかった。
今は、少しだけ知っている。
――六人で降りる。
六人で戦う。六人で帰る。
蒼真は階段に足を踏み出した。
後ろから、五つの足音が続いた。
◇
悠斗の大きな歩幅。航の静かな靴音。紅葉の軽い足取り。里奈の少し硬い一歩。真帆の《光球》の光が、階段の壁を白く照らしていく。
魔素の密度が一段ずつ増していく。肌がざわつく。空気が重くなる。息が詰まりそうになるが、蒼真は深呼吸ひとつで身体を馴染ませた。五月のときとは違う。この重さを知っている。
階段を降りきった先に、広い空間が開けた。
天井が高い。真帆の《光球》の光が届かないほどの暗がりが、頭上に広がっている。岩肌の色が変わっていた。第1層の灰褐色から、より暗い、ほとんど黒に近い褐色。空気が第1層とは別次元に重い。
――第2層。
蒼真はこの場所を覚えていた。あのときは恐怖で周囲を見る余裕がなかった。今は見える。暗闇の奥行き。岩壁の亀裂。天井の苔。魔素の圧。全部が、全部見える。
「紅葉」
「索敵中。前方集中。第2層は薄暗い、通路と広間の切替で対応する」
作戦会議で確認したパターンの復唱。紅葉の声に迷いはなかった。
蒼真は弓を握り直した。矢残十五本。ナイフ四本。《小転移》は四回使える。だが、使わない。仲間にまだ見せていない。最後の切り札は、最後まで取っておく。
弓でやる。弓だけでやる。六人の力でやる。
心臓が弦音のように鳴っていた。恐怖と、それを上回る高揚。手は震えていない。
蒼真は前を向き、第2層の闇に踏み出した。
「行くぞ」
六人の足音が、第2層の暗闇に沈んでいった。
今日得た手応えは、六人全員でこの階段を降りられたこと。五月の混乱とは違い、役割と準備を持って第2層に立てたこと。
まだ届かない課題は、この重い空気の中で本当にハイゴブリンを止められるかどうか。
その答えは、闇の奥にある。




