第42話 先を行く者たち
第1層を進むにつれて、通路の構造が変わり始めた。
入口付近は一本道に近かったが、奥へ進むほど横道が増え、広間と通路が入り組んだ迷路のようになっていく。天井が高くなる区画もあれば、身を屈めなければ通れないほど低い場所もある。岩肌の濡れ方も場所によって違い、足を置く場所を選ばなければ滑りそうになる。空気は重く、魔素の密度が肌の上で一段増したように感じた。
「紅葉、ここの横道は?」
「通過時に一旦停止して確認。異常なし。先に行く」
紅葉が横道の入口で立ち止まり、《視力強化》で奥を覗いてから手を振った。航がフリーポジションから後方を確認し、全員が横道を通過するまで視線を維持する。
作戦会議で決めたルール通りだった。横道は通過時に一旦停止して確認。後方警戒は航に委任。この手順をもう何度繰り返しただろう。身体が覚えてきている。
それでも、蒼真は気を抜かなかった。慣れた動きほど、雑になった瞬間が怖い。五月の失敗は、達成感の直後に起きた。今の順調さは、安心ではなく確認を重ねるための材料だ。
突入から一時間半。時刻はおそらく九時。帰還予定の十四時まで五時間。第1層の通過想定は二時間半。順調なペースだった。
蒼真はメンテナンスノートを取り出し、壁際で短く足を止めて矢の残数と経過時間を記録した。矢残十七本。戦闘は五回。ゴブリン合計十一体を撃破。全員の負傷なし。里奈の《氷矢》命中三発。真帆の《小回復》使用ゼロ。つまり、誰も傷を負っていない。
――第1層で消耗しすぎないこと。
蒼真はペンを仕舞い、ノートを胸ポケットに戻した。前期試験の肝は第2層だ。ハイゴブリン通常種。角二本、体高百二十センチ、棍棒。第1層のゴブリンとは比較にならない硬さと力。前衛の消耗が予想される。だからこそ、第1層は体力を温存しながら通過したい。
蒼真は矢の使用本数を抑えることを意識していた。確実に先制で仕留められる状況でだけ矢を使い、前衛だけで処理できるなら任せる。弓術士のスタミナ管理。先日の訓練で「七十八射で震え」と記録した課題は、第2層での連戦に直結する。
弓は一射ごとに体を削る。矢も、集中力も、右手の感覚も無限ではない。
「ちょっと待って」
紅葉が足を止めた。
「何かある。通路の壁に……」
蒼真が近づくと、通路の壁面に黒い焦げ跡が残っていた。岩肌が僅かに溶け、煤のような模様が広がっている。真帆の《光球》が近づくと、焦げた跡の縁が鈍く光った。
「戦闘跡だ」
航が焦げ跡に手を翳し、すぐに引いた。
「まだ温かい。火魔法だな。一時間前後ってところか」
「他の班だ」
蒼真の胸に、小さな棘が刺さった。
当然だ。第5班だけがダンジョンに入っているわけじゃない。Sクラスの班も、他の一般クラスの班も、今日突入している。蒼真たちより先に第1層を通過した班がいる。
「火魔法ってことはSクラスの班か?」
悠斗が焦げ跡を覗き込んだ。
「Sクラスに火魔法の使い手がいる班は複数あるだろうな。一般クラスにもいるかもしれない」
航の言葉に、蒼真は頷いた。
――先に行かれている。
試験は個人とチームの評価だ。到達度、戦闘貢献度、連携、判断力。班別の順位表がSクラスと一般クラス合同で掲示される。つまり、他の班との比較は避けられない。
蒼真は焦げ跡から目を離した。
「気にするな。俺たちのペースで行く」
「ギラギラしてるくせに」
航が口の端で笑った。
「してない」
「してる」
「……ちょっとだけだ」
悠斗が声を上げて笑い、紅葉が「声でかい!」と叱った。里奈の肩がわずかに揺れ、真帆も口元を押さえて笑っている。
その軽さに救われた。焦げ跡を見て前のめりになりかけた足が、もう一度地面を踏み直す。
他の班が速いことと、自分たちが急ぐべきかどうかは別の話だ。
蒼真はそう言い聞かせた。
◇
さらに三十分。通路の途中で、床にゴブリンの粒子化残滓を見つけた。
粒子化した魔物は通常すぐに消えるが、ダンジョン内では微量の魔素残留が発生する。床の一部が僅かに黒ずんでいた。ここでも誰かがゴブリンを倒した痕跡だった。
「二箇所目だな」
悠斗が槍を担ぎ直した。
「先を行ってるのは一班か二班か。速いな」
蒼真は内心で計算した。自分たちの突入は〇七三〇。Sクラスの班が先に突入していたとすれば、三十分から一時間の差がある。第1層をノンストップで駆け抜けるような班がいれば、もう第2層に降りている可能性もある。
焦りが、ほんの僅かだけ胸を掠めた。
――ダメだ。
蒼真は弦ダコのある右手を握り、開いた。
ペース配分は計画通りだ。第1層二時間半。第2層で戦闘二、三回と探索。帰還。六時間半。この計画は作戦会議で全員が納得した数字だ。他の班が速いからといって自分たちが計画を崩せば、第2層で体力が足りなくなる。
班長としての判断が、感情を押し返した。
「ペースは変えない。予定通り行く」
「了解」
航が即座に応じた。悠斗も「おう」と頷く。
蒼真は里奈と真帆に目を向けた。里奈の呼吸は安定している。杖を握る手の力は第一戦のときよりも自然になっていた。真帆は《光球》を維持しながら歩いているが、魔力の消費は安定しているようだ。
全員の状態は良い。問題ない。
声に出したい衝動があった。この調子で行けば第2層でもやれる、と。でも言わなかった。口にした瞬間に油断になる。五月の帰路で後方警戒を怠ったのは、プレートを回収した達成感で気が緩んだからだ。
蒼真は前を向き、紅葉の背中を追った。
◇
六戦目。
広間の奥に三体のゴブリンが群れていた。紅葉の報告で蒼真が作戦を組み、先制射で一体を仕留め、前衛が二体を受ける。里奈の《氷矢》が右のゴブリンの足を凍らせ、悠斗がとどめを刺した。
手慣れてきていた。良い意味で。
戦闘のあと、蒼真は矢を回収しながら右手の感覚を確認した。百射のうちの何射目だろうか。先制射を中心に使っているから、まだ十射に満たない。訓練中に記録した「七十八射で震え」の閾値には遠い。
だが、第2層のハイゴブリンは一撃で落とせない。一体に二射、三射が必要になる。矢の消費と右手の持久力、両方を管理しなければならない。
――第1層は、節約だ。
蒼真は矢筒を軽く叩いた。残り十五本。
最低ラインには届いている。だが余裕があるとまでは言えない。第2層で二戦、三戦と重なれば、あっという間に減る本数だ。
「真帆、魔力は?」
「《光球》はまだまだ大丈夫です! ぜんぜん減ってないです!」
「里奈は?」
「……大丈夫です。《氷矢》はまだ余裕があります」
里奈の声はまだ硬い。でも「大丈夫」と言い切れるのは、五月の彼女にはなかったことだった。
「航、悠斗。疲労は?」
「問題ない」
「余裕。まだ全然いける」
「紅葉」
「索敵続行できる。通路と広間の切替も問題なし。っていうか班長、心配しすぎ」
紅葉が振り返って笑った。
「心配じゃない。確認だ」
「はいはい」
橋本教官がバインダーに何かを書いた。蒼真はその視線を背中に感じながら、前へ進んだ。
確認しすぎて悪いことはない。そう思う一方で、紅葉の軽口が場を固くしすぎないようにしてくれていることも分かる。
班は、声だけで動くわけではない。
空気でも動く。
◇
突入から二時間。七戦を終えて、通路の構造が変わり始めた。
下り勾配。天井が高くなる。空気が一段重くなった。魔素の密度が上がっているのが肌で分かる。真帆の《光球》の白い光が、少しだけ重たく見えた。岩肌の色も、第1層の灰褐色から、どこか黒を含んだものへ変わり始めている。
「近いな」
航が呟いた。
蒼真にも分かった。この先に、あの場所がある。
――第2層降り口。
五月に里奈を追って、混乱の中で初めて踏み入れた場所。六人がバラバラになって、恐怖と戦いながら暗闇を走った場所。ハイゴブリンの硬い肌に矢が弾かれ、至近距離から右目を射抜いた場所。
蒼真はあのときの感触をまだ覚えていた。弦を放した瞬間の衝撃。矢がハイゴブリンの右目に吸い込まれていく一瞬。祖父の声。鎧の隙間を射よ。
そして、帰還後の後藤の叱責。
お前の班員が死んでいたかもしれない。
今度は違う。
今度は、六人揃って降りる。計画通りに。作戦通りに。班長として、全員を第2層に連れていく。
蒼真は矢筒を確認した。残り十五本。ナイフ四本。真帆の魔力に大きな消耗はなく、里奈もまだ撃てる。悠斗と航の呼吸も安定している。紅葉の足取りも鈍っていない。
行ける。
ただし、急がない。
前方で紅葉が足を止めた。
「見えた。第2層降り口、前方五十メートル」
蒼真の心臓が一拍、強く打った。
今日得た手応えは、第1層を計画通り進めたこと。先を行く班を見ても、ペースを崩さずに進めたこと。
まだ届かない課題は、この先にある。
――第2層。
その名を胸の中で一度だけ繰り返し、蒼真は静かに頷いた。
「隊形維持。降り口まで、このまま進む」




