第40話 二度目の深淵
岩の裂け目が、六人の前に口を開けていた。
高さ十メートル、幅十五メートル。旧国営昭和記念公園の跡地に穿たれたそれは、立川ダンジョンの入口。人類が「迷宮」と呼ぶ深淵への門だった。
七月の朝日が背中を焼く。入口の周囲には探索者協会の管理施設が並び、入場ゲートの前には各クラスの試験班が集合していた。装備を確認する金属音、随行教官の点呼、緊張を誤魔化すような笑い声。いつもの登校時とは違う音が、朝の広場に重なっている。
空気が違う。
五月の初実習のときもそう感じたが、今回はもっとはっきり分かる。ゲートの向こう側から漏れ出す魔素が、肌をざらりと撫でていた。暑いはずなのに、入口の前に立つと首筋に冷たいものが触れる。
「時刻、〇七三〇。第5班、突入します」
蒼真が橋本教官に告げると、黒縁眼鏡の教官は手元のバインダーに目を落とし、バインダーから目を上げずに「確認した」と頷いた。事務的だが、背筋はまっすぐだ。あの目は全部見ている。蒼真はそう感じた。
「行くぞ」
声に応えるように、紅葉が先に動いた。黒髪のショートカットが揺れ、ダンジョンの闇の中へ音もなく滑り込んでいく。
二ヶ月前、ここでは鼓動の音しか聞こえなかった。今は紅葉の報告、悠斗の足音、真帆の光球の揺れまで拾えている。高鳴りはある。それでも、次にどこへ矢を置くかを考える余裕が残っていた。
心臓は鳴っている。でもそれは弦音のようだった。引き絞って、放つ直前の、あの一瞬。身体の芯に据わった緊張。恐怖を否定するのではなく、恐怖ごと飲み込んで前に出る感覚。
「蒼真、行くぞ」
悠斗が槍を担いで笑った。百八十センチの大きな背中が入口の影に入る。
「ああ」
六人がダンジョンの中へ歩を進めた。橋本教官が無言でその後に続く。
◇
外気が遮断される瞬間を、蒼真は今回もはっきりと感じた。
温度が下がる。湿度が上がる。そして魔素。目に見えない粒子が、全身の毛穴から染み込んでくるような圧。五月のときは息が詰まりかけた。今は、深呼吸ひとつで身体が馴染む。
真帆が一歩前へ出て、掌を上げた。
「《光球》」
白い光球が浮かび上がり、周囲を照らした。灰褐色の岩肌。天井の苔。水が染みた壁面。第1層の風景は、記憶と寸分違わなかった。けれど、見え方は違う。あの時は全てが大きく、暗く、こちらを飲み込もうとしているように見えた。今は通路の幅も、天井の高さも、足場の濡れ具合も、戦うための情報として目に入る。
「紅葉、頼む」
「了解。《視力強化》」
紅葉の瞳に微かな光が灯る。彼女は数秒の間、通路の奥を凝視してから振り返った。
「前方三十メートル、異常なし。通路幅約三メートル、左右に横道なし。進みます」
報告の声が落ち着いている。五月のときは手信号が多く、声を出すのにも緊張が滲んでいた。今は違う。索敵範囲、異常の有無、通路の構造。作戦会議で決めた報告フォーマットを、紅葉は自然に口にしていた。
蒼真はフォーメーションを確認した。先頭に紅葉。五メートル後方に悠斗が前衛一枚。その三メートル後ろに航がフリーポジション。通路では後方警戒を兼ねる。蒼真は中衛、右壁寄りに射線を確保。里奈と真帆が後衛。
事前の作戦会議で決めた隊形が、六人の足取りに染みついていた。誰も指示を待たない。自分の位置に、自分で立っている。
「いいな」
蒼真は小さく呟いた。気づけば、口元がほころんでいた。
「何がいいんだよ」
航が前を向いたまま返す。
「全部」
「お前、ほんとダンジョンに入ると顔変わるよな」
「言うな」
「事実だ」
後方で里奈が小さく息を漏らした気配がした。蒼真はちらりと振り返る。里奈の顔色は硬い。唇がわずかに白い。杖を握る手に力が入りすぎている。でも、五月の彼女とは違う。目が前を向いていた。
今朝ダンジョン入口で目が合ったとき、里奈は一度だけ頷いた。あのときの覚悟は嘘じゃなかったと、蒼真は思った。
後藤の助言が頭を過ぎる。
追い詰めるな。腫れ物にするな。
見守れ。班長として。
――大丈夫だ。里奈は、ここにいる。
蒼真は前を向き直した。
弦ダコのある右手で矢筒を軽く叩く。矢、二十四本。全弾ある。ナイフ四本、右太腿のナイフケースに収まっている。和弓は左手に。今日の弦は昨夜張り替えたばかりで、張力が手に馴染んでいた。
通路の奥から、苔の匂いとは別の獣のような臭いが微かに漂ってきた。
「紅葉」
「うん。来てる。前方二十五メートル。ゴブリン二体。こっちには気づいてない」
蒼真の心臓が一拍、強く打った。
五月の初戦を思い出す。あのときは全身が震えるような興奮だった。今は違う。高鳴りはある。でもその奥に、冷静に次の手を考えている自分がいる。
「悠斗、前衛一枚のまま。航、後方維持。広間じゃなくて通路だ。俺が壁沿いから射線通す」
「了解」
「おう」
蒼真は右壁に背を寄せ、弓に矢を番えた。通路幅三メートル。正面からでは悠斗の背中が射線を塞ぐ。だから右壁沿いに半身になり、悠斗の右肩の向こうに射線を通す。
紅葉との連携で確立した、斥候と弓術士の基本形。
里奈と真帆が後ろで止まる気配がある。橋本教官の足音はさらに後ろ。評価されているという意識はある。けれど今は、それより前方の二体だ。
「距離二十。見えた」
暗がりの奥に、緑色の肌が二つ蠢いていた。体高一メートル。粗雑な棍棒。角はない。第1層のゴブリン。蒼真たちが最初に戦った相手だ。
弦を引く。魔力を矢に込める。掌の中で蒼い光が灯り、鏃が淡く脈動した。
呼吸を一つ落とす。
敵の胸。動きの揺れ。悠斗の肩。壁との距離。
全部を重ねて、一点に収束させる。
「――射つ」
声と同時に、蒼い軌跡が通路の闇を裂いた。
矢は先頭のゴブリンの胸を貫き、緑の肌が弾けるように粒子化した。光の粒が六人の全身に吸い込まれていく。
残りの一体が甲高い叫びを上げて突進してくる。
「前方一、来る!」
紅葉の声掛けに合わせ、悠斗が槍を構えて一歩踏み込んだ。《脚力強化》の蒼白い光が足元に走り、槍の穂先がゴブリンの胴を一突き。
粒子化。
経験値の光が身体に沁みる。
それだけだった。
五月のときは、この一戦で全員の息が荒かった。里奈が撃てなかった。真帆が震えていた。蒼真自身も、弓道場で放った何千本もの矢が報われたと胸が一杯になっていた。
今、六人の呼吸は乱れていない。悠斗は槍を引き、航は後方を見たまま周囲を確認している。紅葉はすでに次の通路へ視線を飛ばしていた。里奈は杖を握ったまま、逃げずに前を見ている。真帆の光球も、揺れずに通路を照らしていた。
橋本教官のペンが、バインダーの上を短く走る音がした。
評価されている。
それでも、蒼真の胸に浮かんだのは不安ではなかった。
――手応えだ。
第1層のゴブリン二体。以前なら、それだけで大きな一歩だった。今は、試験の始まりに過ぎない。
まだ第2層には届いていない。ハイゴブリンには、まだ一矢も撃っていない。けれど、六人の隊形は崩れなかった。
「紅葉、先へ」
「了解!」
第1層の探索が始まった。




