第39話 第2層へ
七月第三週。前期実力考査前日。
蒼真のマンションの一室。八畳の1Kは、探索者学院の一年生が住むには十分で、しかし装備を広げるには少し狭い。窓の外では、夏の夜の湿った風が網戸を小さく揺らしていた。冷房はつけているのに、床に広げた装備を前にすると、額に薄く汗が滲む。
テーブルの上に和弓が横たわっている。弦は昨日張り替えた。弓把は二十五センチ。引き味は蒼真の筋力にぴったりと合わせてある。幼い頃から手入れを欠かさなかった弓は、薄暗い部屋の中でも渋い艶を放っていた。蒼真は左手で弓の握りを確かめ、右手の親指で弦枕に触れた。弽の革は、汗を吸って手の形に馴染んでいる。明日はこの感覚を、緊張の中でも失わないようにしなければならない。
その隣にスローイングナイフ四本。刃渡り十五センチ。柄の溝に触媒――自分の爪を括り付けた小袋が結ばれている。五月の実習で一本を喪い、残りは四本。《小転移》は四回。
蒼真は触媒を一つずつ確認した。括り付けの緩みがないか。小袋の結び目が解けかけていないか。一本ずつ手に取り、重さを確かめ、右太腿のナイフケースに戻す。
四回。
多いようで、実戦では少ない。逃げるため、距離を詰めるため、仲間のもとへ戻るため。どこで切るかを間違えれば、五回目はない。
矢筒には矢が二十四本。これまでの実習では二十本で足りたが、試験だ。四本の追加を入れた。矢羽根の歪みがないか、鏃の欠けがないか、一本ずつ指で撫でて検分する。
矢は有限だ。外せば減る。刺さったまま魔物が粒子化すれば戻らない。前期実力考査で第2層へ行く以上、その一本一本の重さは第1層の実習よりずっと大きくなる。
全ての装備を確認し終えて、ようやく息を吐いた。
スマートフォンが震えた。悠斗からのメッセージ。
『装備OK。めっちゃ眠い』
続いて航から。
『同じく準備完了。悠斗、寝ろ』
蒼真は笑って返信を打った。
『全員準備できたか。明日は朝七時にダンジョン入口前集合。遅刻するなよ』
『了解。蒼真こそ寝ろよ。興奮して眠れないタイプだろ』
『図星だろうな』
蒼真は「うるせえ」と声に出してから、スマートフォンを置いた。図星だった。
その後も通知は続いた。紅葉からは「索敵メモ再確認中。眠いけど勝つ」と短く届き、真帆からは「医療キット確認しました。包帯も消毒液も大丈夫です」と丁寧な報告が来る。里奈からは少し遅れて、「氷矢の確認、終わりました。明日、よろしくお願いします」と届いた。
蒼真は全員に「明日、よろしく」と返した。その短い文字を打つだけで、指の先まで熱がのぼってくる。
――六人で行く。
五月とは違う。今度は追いかけるのではなく、挑むために降りる。
◇
窓の外は暗い。七月の夜風が網戸を揺らしている。蒼真は布団に仰向けになり、天井に向かって右手を伸ばした。人差し指と中指で弦を引く形を作る。いつもの癖。天井は弓道場の天井ではないけれど、この形を作ると呼吸が落ち着く。
明日のことを考えた。
午前七時にダンジョン入口前に集合。随行教官と顔合わせ。突入時刻の最終確認。そして――ダンジョンへ。
第1層は二時間半で抜ける計画。戦闘は回避せず、遭遇した魔物は手早く片付ける。無駄に消耗しないこと。かといって避けて通れば到達度と戦闘貢献度が下がる。
第2層に入ったら、ハイゴブリンとの戦闘を二、三回。紅葉の索敵で先手を取り、蒼真の先制射で崩し、前衛が詰めて、里奈が足止めして、真帆が後方で回復待機。
――六人で回す。
一人で何とかしようとしない。班長の仕事は「全員でやれることを最大化すること」だ。後藤の「独断専行するな」が、今は違う意味で響く。
目を閉じた。
五月の第2層の空気を思い出す。重い。濃い。魔素の密度が第1層とは別物で、息を吸うだけで体の内側が反応した。あの空気の中で弓を引く。指が震えないか。射形が崩れないか。
――崩さない。崩すわけにはいかない。
七十八射目まで射形を保てるようになった。二ヶ月前は六十射で限界だった。走射も、百メートルのダッシュ後に射撃して的に当てる訓練を繰り返した。
足りないかもしれない。でも、今の自分にできる全てはやった。
弦を引く形のまま、右手を下ろした。枕元に置いたメンテナンスノートの表紙が見えた。四月からの記録が詰まっている。一ページ目は「和弓の使用許可を後藤先生に確認」。あの頃は、何もかもが手探りだった。
今も、手探りではある。
けれど、手探りのまま進むための仲間がいる。
スマートフォンがもう一度震えた。
紅葉からだった。
『索敵パターン、もう一回確認しときたいんだけど。明日の集合前に五分もらえる?』
蒼真は即座に返した。
『いいぞ。六時五十分に入口前で。五分あれば十分だ』
『了解。おやすみ、班長』
班長。
その二文字が、四月よりもずっしりと胸に落ちた。
蒼真はスマートフォンを伏せ、目を閉じた。眠れるかどうかは分からない。それでも、目を閉じて体を休めることも準備の一つだ。
明日は、六人で第2層へ行く。
◇
翌朝。
七月の朝は早い。五時半に目が覚めた蒼真は、装備を最終確認してマンションを出た。錦町の住宅街を抜け、立川駅方面へ。駅前のコンビニでおにぎりを二つ買い、一つはその場で食べた。もう一つは非常食としてポーチに入れる。
朝の立川は、まだ人通りが少ない。けれどダンジョン方面へ向かう道だけは、早い時間から探索者らしき人影があった。背負った武器、防具の音、魔導通信機の確認をする手つき。普段の通学路が、今日は試験会場へ向かう道に変わっている。
多摩モノレールに乗り、立川ダンジョン駅で降りた。
駅を出た瞬間、空気が違った。
いつもの通学路と同じ道なのに、今日はダンジョンの入口が見える方角から漂ってくる魔素が僅かに肌を刺す。気のせいかもしれない。でも蒼真の体が、ダンジョンの存在を感じ取っている。
入口前の広場には、すでに何組かの生徒が集まっていた。1年の各クラスから複数の班が今日の試験に割り振られている。見慣れない教官の姿もある。随行教官だ。
六時五十分。紅葉が来た。
「おはよ、班長」
「おはよう。索敵パターンの確認だな」
「うん。第2層入ってからの話なんだけど」
紅葉は小走りで蒼真の横に並んだ。黒髪ショートカットが朝風に揺れる。探索用の軽装に着替え済みで、スカウト用の装備が体に馴染んでいる。
「第2層は第1層より薄暗いって教科書にあったじゃない。《視力強化》で補えるけど、全方位を常時カバーするのは魔力的にキツい。だから、進行方向と左右をメインにして、後方は航に任せる形でいい?」
「いい。後方は航に振ってある。紅葉は前方集中でいい」
「あと、広間に出たら一旦止まって全方位スキャンする。通路と広間で切り替える」
「完璧だ」
「でしょ」
紅葉が笑った。いつもの軽さはあるが、目はすでに斥候のものだった。
蒼真は少し声を落とした。
「無理はするな。見えないものは見えないでいい」
「分かってる。見えないのに見えたって言うのが一番怖いし」
「頼む」
「任された」
七時。
悠斗と航が走ってきた。二人とも寮から来たのだろう、息が上がっている。
「ギリギリセーフ!」
「ギリギリだ。あと三十秒遅かったら遅刻」
蒼真が呆れた顔で言うと、航が「こいつが朝飯に三杯食った」と親指で悠斗を指した。
「腹が減っては戦はできぬっていうだろ!」
「三杯は戦の前じゃなくてただの大食い」
「でも途中で腹鳴ったら嫌だろ」
「ダンジョン内で気にするのはそこじゃない」
航が淡々と切り返し、紅葉が笑う。
里奈と真帆が小走りでやってきた。里奈はいつもより顔色が硬かったが、蒼真と目が合うと、こくりと頷いた。真帆が「おはよう!」と明るく声をかけ、六人が揃った。
真帆は背負った医療キットを一度持ち上げる。
「包帯、消毒液、痛み止め、確認済みです。あと、水も多めに持ってきました」
「助かる」
「里奈ちゃんの分もあります」
「真帆ちゃん、私も持ってきてるよ」
「知ってる。でも予備はあって困らないから」
里奈が少しだけ笑った。その小さな笑みに、蒼真は胸の奥で息を吐く。
六人いる。
全員いる。
その当たり前が、今日は何より心強かった。
「――全員いるな」
蒼真が声を出した。六つの顔が蒼真を見る。
その瞬間、後方から声がかかった。
「第5班の諸君」
振り返ると、長身の男性教官が立っていた。黒縁眼鏡に、きっちりと整えた短髪。体格は細身だが、背筋が真っ直ぐに伸びている。
「随行教官の橋本だ。今日は君たちの試験に同行する」
橋本教官。名前は聞いたことがある。2年生の座学を担当している教官だ。教壇に立つ姿は何度か見かけたが、話したことはない。
「よろしくお願いします」
蒼真が代表して頭を下げると、橋本教官は軽く頷いた。
「緊急時以外、私は戦闘に参加しない。ただし全行程を評価する。準備の様子も含めてだ」
――つまり、もう評価は始まっている。
蒼真は背筋を伸ばした。横で悠斗が「ゲッ」と小さく呻いたのを、航の肘が黙らせた。
「突入時刻は〇七三〇。帰還予定時刻は?」
「一四〇〇です。六時間半を申告しています」
「了解した。では、準備を」
橋本教官が一歩退いた。試験の空気が、ぴんと張り詰める。
蒼真は五人に向き直った。
悠斗が槍の位置を直す。航が剣の固定を確認する。紅葉が周囲の班と入口の動線を一度見渡す。里奈が杖を握り直す。真帆が医療キットの肩紐を短く調整する。
それぞれが、それぞれの準備をしている。
蒼真は和弓を左手に持ち替えた。弦ダコの感触が掌に馴染む。四ヶ月分の矢が刻んだ証。
怖さはある。
でも、足は止まらない。
「――行くぞ」
朝の光の中で、ダンジョンの入口が口を開けていた。高さ十メートル、幅十五メートルの岩の裂け目。その奥から、重く湿った空気がゆっくりと這い出してくる。
五人の足音が、蒼真の後ろについた。
「第5班、突入する」
七月の太陽を背にして、六人はダンジョンの闇へと歩を進めた。
今日得た手応えは、全員が準備をしてここに立てたこと。
まだ届かない課題は、これから第2層の中で確かめるしかない。
蒼真は一歩目を踏み出した。
六人分の足音が、重い魔素の中へ溶けていった。




