第38話 逃げないと決めた日から
訓練場の魔法訓練エリアには、七月の夕方の熱がまだ残っていた。
床に引かれた白線の先に、魔法訓練用の的が並んでいる。剣や槍の打撃音が響くエリアとは違い、ここでは詠唱ではなく、魔力が形になる瞬間の低い震えと、着弾音だけが耳に残る。
中村里奈は的に向かって左手を掲げた。掌の先に冷気が凝縮し、氷の矢が形を成す。
「《氷矢》」
射出。
白い軌跡を引いて飛んだ氷の矢は、十メートル先の的の中心から拳一つ分だけ右にずれて突き刺さった。
里奈は眉を寄せた。
「……また右にブレた」
手首をさすりながら、手帳に記録をつける。今日の命中数は三十二発中二十五発。一ヶ月前は二十発を切っていた。数字は確実に良くなっている。でも、まだ足りない。
前期実力考査で狙うのは、止まっている的ではない。第2層のハイゴブリン。動いて、吠えて、棍棒を振り下ろしてくる相手だ。脚を止めると決めたなら、外すわけにはいかない。
五月のあの日のことを、里奈は忘れていない。
暗い通路。背後からの咆哮。足が勝手に動いた。頭は真っ白で、気がついたら走っていた。仲間の声も、蒼真の怒鳴り声も、何も聞こえなかった。
逃げた。
あの一瞬を、里奈は何度も夢に見た。目が覚めるたびに、自分の情けなさで胸が潰れそうになった。
「――次は逃げない」
あの夜、蒼真に言った言葉。泣きそうな声だったと思う。蒼真は笑って「全員の失敗だ」と言った。でも里奈は知っている。あの場で動けなかったのは、自分だけだ。
だから、走った。
走り込みは蒼真の真似ではない。パニックの引き金は恐怖で、恐怖の根っこは「自分には何もできない」という無力感だった。ならば、できることを増やせばいい。
氷矢の精度。射程。発動速度。
この二ヶ月、里奈は魔法訓練に費やす時間を倍にした。放課後の一時間を二時間に。休日は三時間。指先の魔力の流れを一射ごとに確認し、ブレの原因を手帳に書き出し、翌日の訓練で修正する。
右にブレる日は、左手首が固い。発動が遅れる日は、肩に余計な力が入っている。十発を超えたあたりから呼吸が浅くなる。そういう小さな癖を、一つずつ文字にしていく。
蒼真がメンテナンスノートに記録をつけているのを知ったのは六月の実習の後だった。それを真似したわけではない。
――少しだけ、真似した。
「里奈ちゃん」
声がして振り向くと、小林真帆がペットボトルを差し出していた。制服の上にジャージを羽織った姿。栗色のポニーテールが揺れている。
「ありがとう、真帆ちゃん」
「休憩しよ。もう一時間経ったよ」
「あと十発」
「五発にしなよ。手首、赤くなってる」
里奈は手首を見た。確かに、魔力を練り上げるときに負荷がかかる左手首が赤みを帯びている。真帆が「ちょっと見せて」と手を取り、淡い光が灯った。
「《小回復》」
温かい光が手首を包む。痛みが引いていく。里奈は真帆の手の中の光を見つめた。五月の実習で、背中を打った真帆がうずくまっていた光景が重なる。
「……真帆ちゃんは、怖くないの」
「怖いよ。当たり前じゃん」
真帆は手を離さなかった。回復の光が柔らかく脈打っている。
「五月、背中殴られたとき、もうダメかと思った。真っ暗になって、痛くて、里奈ちゃんの声が遠くなって」
「……ごめん」
「それは何回謝ってもらってるし、もういいよ。――私が言いたいのはね」
真帆は目を上げた。明るい目。でも、その奥にある覚悟の色は五月にはなかったものだ。
「あのとき、神代さんたちが来てくれた。里奈ちゃんも戻ってきてくれた。――だから、私はこう思ったの。倒れても、誰かが支えてくれる。なら私の仕事は、倒れないことじゃなくて、立ち直ることだって」
回復の光が消えた。手首の赤みは引いている。
「《小回復》の練度、上がったでしょ」
「……うん。前より全然早い」
「でしょ。発動から効果が出るまでのラグが二秒縮まった。実戦で二秒は大きいと思うんだ」
真帆はペットボトルを里奈に押しつけて、自分も一本開けた。ごくごく、と喉が鳴る。いつも穏やかな真帆が、こういう数字を自分から口にするようになったことに、里奈は少し驚いた。
「真帆ちゃんも、記録つけてるの?」
「つけてるよ。神代さんみたいに細かくはないけど。発動までの時間と、回復後にどれくらい痛みが残るか。あと、魔力をどれくらい使った感じがするか」
「すごい」
「すごくないよ。怖いから、数えてるだけ」
真帆はそう言って笑った。無理に強がっている笑顔ではなかった。
怖いから逃げるのではなく、怖いから準備する。
その言葉は、里奈の胸の奥に静かに落ちた。
「里奈ちゃんの《氷矢》も速くなったよね。六月の実習で神代さんと連携したとき、紅葉ちゃんが『ほぼ同時に着弾してた』って言ってた」
「……そうかな」
「そうだよ。自分じゃ分かりにくいだけ。――前期試験、いけると思う」
里奈はペットボトルの水を一口飲んだ。冷たい水が喉を通る。
逃げないと決めた日から、里奈は練習を休む理由を探さなくなった。苦しい日はある。第2層のことを思い出すと、杖を握る手にも力が入る。それでも、的の前から足を引く回数は減っていた。
でも――もう一つ、感じるものがある。
怖いと思う自分を、前より嫌いではなくなった。怖いなら、怖いまま手を上げればいい。足が震えるなら、震えたまま狙えばいい。逃げないとは、怖くなくなることではないのだと、少しずつ分かってきた。
「ねえ、真帆ちゃん」
「うん?」
「前期試験――私、足を止めないから」
真帆が笑った。眩しいくらいの笑顔で。
「知ってる。私も倒れないから」
二人の間に、七月の風が通り抜けた。
里奈はもう一度、的へ向き直る。真帆が少し後ろに下がり、ペットボトルを両手で抱えたまま見守っている。
あと五発。
今度は中心ではなく、的の下部。ハイゴブリンの脚を想定した高さに狙いを下げる。
左手を掲げる。肩の力を抜く。呼吸を吐き切る。
「《氷矢》」
白い軌跡が走った。
氷の矢は、狙った高さに突き刺さった。中心ではない。けれど、止めるための一射としては悪くない。
里奈は手帳に書いた。
脚狙い。高さ調整。右ブレ小。
その文字を見て、里奈は手帳を閉じる前にもう一度だけ矢の跡を見た。中心ではない。けれど、前より狙って外した跡だった。
◇◆◇
同じ頃、蒼真は弓術用レーンで黙々と矢を放っていた。
百射の七十八発目。右手の指が微かに震えている。射形が崩れかけているのが自分で分かった。ここからの二十二発が、前期試験の後半戦を左右する。
考えて撃て。
六月の実習で掴んだ感覚を反芻する。紅葉が見つけた敵の位置。急所の予測。初撃で眼か喉を狙い、二の矢で確殺する。一撃で仕留められない以上、二射の精度と速度が蒼真の火力に直結する。
七十九発目。的の中心を射抜いた。
八十発目。中心からほんの僅かにずれた。
「……まだだな」
メンテナンスノートに記録をつける。
七十八射で震え。
中心維持率は八十射時点で九十四%。
三ヶ月前は八十七%。
上がってはいる。けど、足りない。
汗を拭い、空を見上げた。七月の空は高い。
第2層には、角二本のハイゴブリンがいる。通常種。五月に戦った個体が後に普通とは違うものだったと分かったとしても、第1層のゴブリンとは格が違う。一撃で仕留められなければ、前衛が消耗する。蒼真の火力不足が、そのまま班の弱点になる。
矢は点の攻撃だ。外せば終わり。急所を逸れれば、削りにしかならない。魔法のように面で押し込むことはできない。
だからこそ、紅葉が見つけ、里奈が止め、悠斗と航が動きを縛り、真帆が支える。その一瞬に、蒼真が通すしかない。
――弓でもやれる。
やれるって証明する。
八十一発目。弦が鳴った。矢は的の中心に吸い込まれた。
残り十九発。
全部、真ん中に入れる。
今日得た手応えは、震えの中でも中心を射抜けたこと。まだ届かない課題は、疲労が来た後でも一射目と同じ精度を保つこと。
蒼真は次の矢を取り、弦に番えた。
弽の革が親指の付け根に馴染む。指先に汗が滲む。呼吸を一つ、落とす。
前期試験まで、時間は多くない。
それでも、積めるだけ積む。
八十二発目。
蒼い軌跡が、夕方の訓練場をまっすぐ貫いた。




