第35話 六月の教室
水泳授業が終わり、六月の日常が戻ってきた。
蒼真の毎日は、入学してからの二ヶ月で型ができ始めていた。朝、歩きか多摩モノレールで通学。午前中は座学。午後は適性武器の訓練か、基礎体力の鍛錬。放課後は弓道場――学院内の訓練場に設置された弓術用レーンで、自主訓練。百射を超えるメニューを自分に課し、メンテナンスノートに一射ごとの感覚を記録する。
帰り道にサンサンロードを歩き、たまに悠斗と航と「めしや鷹丸」で夕食。マンションに帰って風呂に入り、天井に手を伸ばして弦を引く形をつくる。それが一日の締めくくりだった。
繰り返しのようで、少しずつ変わっている。矢の精度が上がっている。紅葉との連携の感覚が体に残っている。悠斗と航の前衛の動きも、以前より先に読めるようになった。二ヶ月前には知らなかったことを、今は知っている。
それでもまだ足りない。
水泳の五十メートルで後半に腕が重くなった感覚は、まだ体に残っていた。弓を百射した後の右腕の重さと似ている。使う筋肉は違っても、最後に問われるのは呼吸と体幹と集中力だ。蒼真はそのことを、少し苦々しく、同時に面白く思っていた。
蒼真は窓際最後列の席で、午前中の座学を聞きながらノートを取っていた。今日の科目は「探索概論」。ダンジョン内で遭遇する環境ハザードの分類。毒霧、落盤、水没区域、高温帯。将来的に遭遇する可能性のある事象を、一年のうちに座学で叩き込まれる。
「水没区域か……」
蒼真は呟いた。先週の水泳授業で考えた、水中での武器運用の問題が頭をよぎる。弓は使えない。ナイフの突きなら可能。だが水中で魔物と正面切ってやり合うのは現実的ではない。教科書には「水没区域は可能な限り回避し、やむを得ない場合は最小限の通過に留めること」と書かれている。
回避ルートの選定。事前の偵察。紅葉の《視力強化》で水場を発見して迂回する。それが最善だ。
ノートの端に、ルート選定のメモを走り書きした。座学の内容と実践を結びつけて考える癖は、入学前から変わらない。教科書の文章をただ写すだけでは、頭に残らない。どう動くか、誰に何を頼むか、どこで射線を取るか。そこまで考えて、ようやく自分の中の知識になる。
教壇では後藤がいつものくたびれたスーツ姿で、紙コップのコーヒーを片手に教科書を読み上げている。普段は昼行灯のような雰囲気だが、ダンジョン内の危険について話すときだけ、声のトーンが変わる。元探索者としての経験が、言葉の端々に滲む。
「以上がダンジョン内の環境ハザードの基本分類だ。実際に遭遇するのは二年以降だろうが、頭に入れておけ。知っているのと知らないのとでは、最初の一秒の判断が変わる。その一秒が命を分けることもある」
教室が静まった。後藤の言葉には、教科書にはない重さがある。
蒼真はシャープペンの先を止めた。最初の一秒。その一秒で、紅葉が敵影を拾う。悠斗と航が前に出る。里奈が足止めを選ぶ。真帆が負傷の有無を確認する。蒼真は射線を探す。
その一秒を間違えれば、五月の第2層のように、班の誰かが傷つくかもしれない。
「まあ、今は試験のことで頭がいっぱいだろうけどな」
後藤がぼそりと付け加えると、教室にざわめきが戻った。前期実力試験。その六文字が、六月に入ってから教室の空気を少しずつ変えていた。廊下ですれ違う上級生が「一年の前期は第2層までだから」と話しているのを聞いたことがある。先輩たちにとっては通過儀礼のようなものらしい。
でも俺たちにとっては、初めての「試験」としてのダンジョンだ。
蒼真はノートの端に、小さく「一秒」と書き足した。丸で囲む。これも、忘れないように。
◇
昼休み。
蒼真は悠斗・航と教室の席で弁当を広げていた。蒼真の弁当は自作で、卵焼き・鶏胸肉のソテー・ブロッコリーという高たんぱく質の布陣。悠斗は学食の特盛カレー、航はコンビニのおにぎりとサンドイッチ。
窓の外では、梅雨の晴れ間がまた少し曇り始めている。湿った風が教室に入り、誰かの弁当の揚げ物の匂いと混ざった。試験の話題があちこちの席で上がっていて、教室全体がいつもより少しだけ落ち着かない。
「蒼真、それ毎日同じじゃね?」
悠斗がカレーを大きくすくいながら、蒼真の弁当を覗き込んだ。
「同じじゃない。今日は鶏胸肉に塩胡椒じゃなくて醤油を使ってる」
「誤差だろ」
「体を作るには大事なんだよ」
「その台詞、高校生の昼飯で出るのすげえな」
悠斗が呆れたように笑う。航はサンドイッチの包装を剥がしながら、淡々と付け加えた。
「タンパク質、炭水化物、野菜。構成としては悪くない」
「航まで分析するな」
「お前の弁当、分析しやすいからな」
「もっと褒めろよ」
軽口を交わしながら食べる昼飯は、訓練とは違う形で体を緩めてくれる。こういう時間があるから、放課後にまた弓を引けるのだと蒼真は思う。
「先月のダンジョン実習の成績、掲示されてたの見た?」
航が箸を動かしながら言った。蒼真は頷いた。
「見た。第5班、結構上だったな」
五月の初実習から数えて二回目のダンジョン潜入だった。今回は第1層の奥まで到達し、ゴブリン三体を撃破。プレートの回収もスムーズだった。五月の初実習であれだけ苦労した第1層が、二回目では驚くほどスムーズに感じられた。紅葉の偵察と蒼真の射線確保の連携は、合図を出す前に動けるレベルにまで馴染んでいた。
「里奈の《氷矢》も安定してきたよな。先月は一発目をゴブリンの足元に叩き込んで動き止めてた」
「うん。あれは助かった。足が止まった瞬間に俺が頭を狙えたから」
悠斗がカレーのスプーンを止めた。
「やっぱ蒼真と里奈の遠距離組の連携、エグいよな。俺と航が前で受けてる間にバンバン飛んでくるの、敵からしたらたまらんだろ」
「お前らが前で止めてくれるから撃てるんだよ。前衛がいなかったら俺は一発も射てない」
「お、珍しく素直に褒めた」
「事実だろ」
蒼真は笑って卵焼きを口に運んだ。第5班の六人は、確実にパーティとして噛み合い始めている。五月に泣きながら「次は逃げない」と言った里奈が、六月には冷静に足止めを決めている。真帆の《小回復》も手際がよくなった。紅葉は相変わらず速い。悠斗と航の前衛ローテーションも安定した。
前期試験では、もっとやれる。
そう思えることが、単純に嬉しかった。
「そういえば、前期試験の日程そろそろ出るかな」
蒼真がそう言うと、航が即座に答えた。
「七月の第二週か第三週だろ。去年の先輩の話だと、期末試験が終わった直後にぶち込まれるらしい」
「期末のすぐ後って、勉強と並行しなきゃいけないのか」
悠斗が顔を曇らせた。
「一般学力試験はそこまで重要視されてないから、実力考査に全力投入でいいと思うけどな」
「お前はそうだろうけどさ。俺、座学で変な点取ったら母さんに普通に怒られるんだよ」
「探索者学院に入ってもそこは普通なんだな」
「普通だよ。赤点取ったら普通に終わる」
悠斗が真顔で言うので、蒼真は笑いそうになった。航はおにぎりを一口食べてから、いつもの調子で淡々と続ける。
「座学で落ちるような内容じゃない。範囲は広いけど、授業を聞いていれば取れる」
「出た、航の『授業聞いてれば取れる』」
「事実だ」
「その事実が人を傷つけることもあるんだぞ」
「勉強しろ」
悠斗が机に突っ伏し、蒼真は声を抑えて笑った。こういうやりとりをしていると、試験前の重さも少しだけ軽くなる。
ただ、実力考査の話になると、笑ってばかりはいられなかった。
「問題は実力考査の中身だよ。第2層まで行くって話だろ?」
航の声がわずかに硬くなった。蒼真は頷いた。
「五月の初実習で第2層には足を踏み入れてる。あのときはイレギュラーだったけど、今度は正面から挑む」
あの日のことを思い出す。里奈を追って駆け込んだ第2層。魔素の密度が段違いに感じられた。角の生えたハイゴブリン。蒼真の矢が表層で止まった、あの硬さ。
だが恐怖より先に、期待が来る。
「楽しみだな」
「……出たよ、この顔」
悠斗が航を見た。航が肩をすくめた。
「ダンジョンの話になるとギラギラするやつ、先週も見た」
「先週も言ったけど、いいだろ別に」
「いいけどさ。たまには怖がれよ」
「怖いよ。怖いけど、楽しみの方がでかい」
蒼真は拳を握った。指の腹に弦ダコの感触がある。この手で矢を射って、六人で帰ってくる。それだけだ。
ただ、その「それだけ」が簡単ではないことも、今は分かっている。矢は当てなければ意味がない。急所を外せば、魔物の足を止めるだけで終わる。刺さった矢は戻らない。外した矢も、折れれば終わりだ。
有限の矢で、有限の体力で、六人全員を帰す。
昼休みのざわめきの中で、蒼真はその言葉を胸の奥に置いた。
◇
放課後。
蒼真は訓練場の弓術用レーンにいた。
的までの距離は三十メートル。基準の距離だ。矢筒から矢を取り、弦にかける。呼吸を整え、引き絞り、放つ。矢は的の中心から僅かにずれた位置に突き刺さった。
――二時の方向にずれた。風はない。引き手の力みが原因だ。
メンテナンスノートに記録し、次の一射に移る。修正。放つ。今度は中心を射抜いた。乾いた音が訓練場に響く。
五月から続けている百射のメニュー。今月からはそれに加えて、射撃後に移動して再度射撃する、いわゆる「走射」の練習も取り入れ始めていた。前期試験では第2層のハイゴブリンと戦うことになる。一箇所に留まって射ち続けるだけでは、前衛が崩れたときに対応できない。
十射目。二十射目。三十射目。腕が少しずつ重くなるが、射形は崩さない。弦音が訓練場に規則的に刻まれていく。
足を動かしてから射つと、わずかに呼吸が乱れる。止まった状態なら中心に入る矢が、移動後は半歩遅れる。足裏の重心、膝の向き、弓を構えるまでの一拍。どれか一つが乱れれば、矢は簡単にずれる。
五十射目を越えたあたりで、蒼真はふと手を止めた。
右手の指先が微かに震えている。疲労だ。百射をこなすには、まだ筋力が足りない。先週の水泳でも後半に腕が重くなった。持久力の課題は弓でもプールでも同じ形で顔を出す。
走り込みだけじゃ足りないのか。体幹をもっと鍛えるか、それとも射形を見直して力の使い方自体を効率化するか。
メンテナンスノートに「五十射以降の射形維持が課題。体幹トレーニング追加を検討」と書き込んだ。蒼真にとってこのノートは、自分自身との対話帳のようなものだ。書くことで頭が整理される。
呼吸を整え、再び矢を手に取った。五十一射目。引き絞る。体の軸を意識する。ぶれるな。
放つ。的の中心にわずかに届かなかったが、許容範囲だ。疲労の中でこの精度を維持できるなら、実戦でも使える。
もう一射。今度は足を一歩横へ移してから構える。右足が床を捉える。左手が和弓の握りを押す。右手の弽が弦を受け止める。親指の弦枕に重さが乗る。
放つ。
矢は中心のすぐ下に刺さった。悪くない。だが、まだ甘い。
訓練場の入口に人影が見えた。制服姿の女子生徒が二人、訓練場を横切っていく。Sクラスの訓練帰りだろう。そのうちの一人の金色の髪が、夕陽に照らされて光った。
凛だ。
隣にいるのはほのか。二人は弓術用レーンの前を通り過ぎながら、何か話している。凛の視線がこちらに向くことはなかった。蒼真の弓の音は聞こえているはずだが、足を止めることもない。
まあ、そうだよな。
蒼真は小さく息を吐いて、矢筒から次の矢を取った。弦にかける。引き絞る。
的を見る。的だけを見る。
放つ。
矢は中心を射抜いた。
凛が振り返ることはなかった。でも、蒼真の矢は真っ直ぐ飛んだ。それで十分だ。今は。
誰かに見られるために射っているわけではない。けれど、いつか見られたときに、胸を張れる射でありたいとは思う。そのために、今は百射目まで積み重ねるしかない。
蒼真はノートを開き、今日の欄の下に短く書いた。
「五十射以降、精度低下。走射後は呼吸一拍遅れ。改善必要」
その下に、少し迷ってからもう一行を足す。
「第2層では、止まって撃てるとは限らない」
文字にすると、課題ははっきりした。足りないものは多い。体力、射形、移動後の呼吸、ハイゴブリンを貫くだけの一射。
それでも、得たものもある。水泳で気づいた持久力の不足。座学で聞いた最初の一秒。昼休みに確認した班の連携。どれも、前期実力試験へ持っていける。
六月が終わる。七月が来る。前期実力試験が始まる。
蒼真は弦を引く手に力を込めた。百射目まで、まだ遠い。
遠いなら、届くまで引けばいい。




