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蒼弓の軌跡 ~探索者学院唯一の弓術士は静かに頂を狙う~  作者: 七夜灯
第二章 前期実力考査編

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第34話 水面の距離

 二回目の水泳授業は、先週よりも蒸し暑い日に巡ってきた。

 六月の半ば。梅雨の晴れ間が覗いた午後、学院の屋外プールには強い陽射しが注いでいた。水面がぎらぎらと光を弾き返し、蒼真は目を細めた。濡れたタイルから立ち上る熱と塩素の匂いが、息を吸うたびに胸の奥へ入ってくる。


 先週の授業の後、蒼真は自主訓練のメニューに走り込みを追加していた。弓の百射に加えて、学院の外周を三周。前期試験で第2層に挑むなら、まず体力の底上げが必要だと感じたからだ。おかげで今朝は少しだけ脚が重い。ふくらはぎに残る鈍い張りは、怠さというより、次へ向かうための手応えに近かった。


「いやー、先週より蒸すなあ。これくらい暑いと、水ってありがたく見えるよな」

「お前は気楽でいいよなあ……俺は水面見ただけでもう胃が痛いんだけど」


 悠斗がプールサイドで大げさに腹を押さえている。先週三度も溺れかけたトラウマが早くも根を張っているらしい。百八十センチの長身が前屈みになっているせいで余計に芝居がかって見える。航は無言で準備体操をしているが、口元はわずかに緩んでいる。


「大丈夫だって。今日は無理しないで足つくとこで練習すりゃいいだろ」

「それ、先週も言われたやつだぞ蒼真」

「先週は自分から深い方に行ったろ。誰のせいだ」

「……男には引けない戦いがあるんだよ」

「悠斗、溺れる戦いに勝ったやつ、人類史にいないからな」


 航のツッコミに、蒼真は声を上げて笑った。悠斗が「お前らひでえな!」と肩を叩いてくる。朝の訓練後とは違う、少し弛んだ空気がある。プールサイドの空気は先週よりも軽い。二回目ともなれば、Sクラスと1組の合同にも慣れてきたのだろう。先週はSクラス側と1組側で自然に分かれていた立ち位置が、今日は水筒やタオルの置き場を境にゆるく混ざっていた。近づいたわけではない。それでも、同じ場所に立つことを誰も気にしていない。蒼真はその変化だけを確かめて、準備運動に戻った。


       ◇


 体育担当の女性教官が、先週と同じくテキパキと全体を仕切る。


「先週のタイム計測の結果をもとに、今日からフォーム矯正に入ります。泳力の高い者はペアを組んで互いのフォームを確認すること。苦手な者は基礎の反復。レーン分けは先週と同じ」


 蒼真は奥のレーンへ向かった。先週と同じ、上級者向けのレーン。

 水に入る前にプールサイドを見渡すと、凛がすでにレーンの端に立っていた。金髪をまとめ上げたうなじに水滴が光っている。蒼真はそこから視線を引き剥がすのに一瞬の努力を要した。


 ――見るな。今日は前期試験の体作りだ。

 言い聞かせるように息を吐き、蒼真は肩を回した。弓を持たない手は軽い。けれど、右手の親指は弦枕の感覚を覚えている。水泳の授業であっても、体の使い方を掴むことは弓に繋がる。そう思えば、浮ついた視線を水面へ戻せた。


「ペアを組んでください。近くにいる者同士で構いません」


 教官の声が響く。蒼真は隣にいた航と目を合わせた。


「組むか」

「ああ。お前と組んだ方が、無駄口たたかずに済む」

「悠斗の方を見るな、今のは」

「あいつは今、足つく方のレーンで自分の命と戦ってる」


 蒼真は吹き出しそうになるのをこらえて水に滑り込んだ。

 航とペアを組み、交互に泳いでフォームを確認し合う。蒼真が泳ぎ、航がプールサイドから見て、気づいた点を伝える。


「蒼真、息継ぎのとき首が上がりすぎてる。もう少し横に回すだけでいい。今のままだと水を上から押す形になってるから、抵抗が増える」

「了解。こうか?」

「もう少し顎を引いて。耳の位置と肩のラインがほぼ平行になるくらい」


 修正して泳ぐ。確かに抵抗が減った気がする。水が肩の上を滑り、腕の重さが少しだけ軽くなる。航の指示は具体的だ。戦闘でもそうだが、抽象的な指摘で済ませず、相手が次に何をすればいいかまで言葉にして渡してくる。


「お前さあ、観察力どうなってんの。前衛の仕事だってのは分かるけどさ」

「相手の動きを見るのが仕事だからな。陸でも水中でも、見るとこは大して変わらん」

「澄ました顔して言うなって」


 次は航が泳ぎ、蒼真が見る番だった。航のフォームは堅実で、派手さはないが崩れない。長剣使いらしい安定感だ、と蒼真は思った。腕を回したときの肩の入り方が、剣を構えたときの動きと地続きに見える。


「航、左腕の入水がちょっと外側に入ってる。真っ直ぐ前に伸ばした方が進むぞ」

「……お前も結構見てるな」

「弓は的を見る仕事だからな。お互い様だろ」

「言うじゃないか」


 航が口角だけで笑った。蒼真も水面に浮かんで、息を吐いた。先週よりは、明らかに距離感が違う。練習という名目があると、こんなに会話が転がる。

 同時に、泳ぎにも戦闘にも共通するものがあると分かった。力任せでは進まない。水を掴む位置、息を吸うタイミング、体の軸。弓で言えば、狙いだけでなく射形そのものだ。見直すべき場所は、まだいくらでもある。


       ◇


 フォーム矯正が一段落し、教官が五十メートルのタイム計測を告知した。先週の二十五メートルからの延長だ。


「先週二十五メートルが厳しかった者は、無理せず途中で上がって構いません。安全第一でお願いします」


 悠斗が手前のレーンで「……五十、行けっかなあ」と呟いているのが聞こえた。蒼真は小さく拳を握って「行けるって、悠斗!」と声を飛ばした。悠斗が「おうっ」と親指を立てたが、顔は青い。

 蒼真はスタート台に立った。今日は五十メートル。折り返しがある。体力配分を意識しろ、と自分に言い聞かせた。隣のレーンにはSクラスの男子が立っている。体格は蒼真より一回り大きい。剣士か、あるいは槍術士か。どちらにせよ、前衛職の体つきだ。


 号令。水に飛び込む。

 二十五メートルまでは先週と同じ感覚だった。壁にタッチし、ターン。ここからだ。後半、腕が重くなる。息継ぎのリズムを崩さないように意識する。体幹で水を捉え、肩甲骨から腕を回す。弓を引くときの筋肉の使い方と、どこか似ている。

 隣のレーンのSクラスの男子が視界の端で水を掻いている。速い。だが追わない。自分のペースを崩すな。弓と同じだ。的は逃げない。焦って射形を崩せば、矢はまっすぐ飛ばない。

 五十メートル。壁にタッチ。顔を上げた。


「神代、三十四秒八。安定してるな」


 教官の声に蒼真は息を整えながら頷いた。タイムは悪くない。だがそれよりも、後半に腕が重くなる感覚が気になった。持久力の課題はここにも出る。弓を百射以上引いたときの消耗と似ている。

 ――鍛え方が足りない。もっと根本的な体力をつけないと。

 プールから上がり、タオルで顔を拭いていると、奥のレーンで凛が泳ぎ終えるところだった。教官が凛のタイムを読み上げる。


「天城、三十二秒一。文句なしだな」


 蒼真より二秒以上速い。水泳でもこの差か、と蒼真は内心で唸った。凛はプールから上がると、髪を片手で軽く絞るその所作にも無駄がない。一動作ごとに完結している。

 その凛のもとに、ほのかが小走りで近づいた。


「凛ちゃーん、速いねえ! ほんと毎回さらっと出すんだから」

「普通でしょ」

「えー、普通じゃないと思うけど。これで普通って言われたら、私の二十五メートルどうなっちゃうの」


 凛は短く息を吐いただけで、それには応じなかった。ほのかは気にした様子もなく凛の隣に並び、なにげなくプールの方を見た。蒼真が立っている方向だ。


「ねえ凛。あの人、1組の弓の人でしょ? タイム速かったよね、三十四秒だっけ? うちのクラスの男子でも、あれくらい出る人そんなにいないよ」


 蒼真の鼓動が一つ跳ねた。聞こえた。距離があるのに、ほのかの声はよく通る。

 凛がちらりとこちらを見た。気がした、では済ませられないくらい、一瞬だけ視線が合った。蒼真はとっさにタオルで顔を拭く動作に戻った。


「ふうん」


 凛の声はそれだけだった。興味があるのかないのか分からない、平坦な一音。

 ほのかが小さく笑う。


「もうちょっと反応してよ凛ちゃん」

「何に」

「今の。ほら、1組の弓の人」

「普通に速かった。それだけでしょ」

「その『普通に』が、けっこう褒めてるやつだと思うんだけどなあ」

「知らない」


 遠くで揺れる会話に、蒼真はタオルの下で息を止めかけた。褒められた、と思うのは危険だ。ほのかの解釈が入っている。凛自身は、ただ事実を言っただけかもしれない。

 それでも、ほのかの口から「1組の弓の人」という言葉が出た。少なくともほのかは、蒼真を認識している。凛の、すぐ隣にいるほのかが。

 気のせいかもしれない。けれど蒼真は、その小さな手応えを一つずつ拾った。


「おい蒼真、顔拭きすぎだぞ。もう乾いてるだろ」


 航の声で我に返った。


「……拭いてない」

「拭いてた。しかも同じところを三回。何があった、と聞きたいけど、聞かない方がいい類いの顔をしてる」

「察しが良すぎるんだよお前は」

「前衛の仕事だからな」


 航がそれだけ言って、タオルを首にかけ直した。深掘りはしない。こういうとき、航は線の引き方が上手い。蒼真は黙ってタオルを畳んだ。


       ◇


 授業の後半。自由練習の時間が再び巡ってきた。

 蒼真はプールの端に沈み、先週に引き続き水中での動きを試していた。腕を伸ばし、ナイフを振る動作を再現する。水の抵抗。陸上の三倍は力がいる。突きなら抵抗が減るが、薙ぎ払いは非現実的だ。


「お前、まだそれやってんのか」


 航がプールの縁にしゃがんで覗き込んでくる。


「うん。突きなら抵抗が少ないって、はっきり分かった。でも水中で相手に近づくまでが問題なんだよな。距離詰める間に、こっちの方が先に呼吸が切れる」

「弓が使えないのは、確かに痛いな」

「だからさ、水場に入る前に仕留めるか、そもそも水場に追い込まれないルート取りが大事って話になる。後衛から、どっちのルートを通るか提案するのも班長の仕事だろ」

「……一年の水泳授業で、班のルート選定の話まで考えてんの、マジでお前だけだぞ。教官が聞いたら泣くか褒めるかどっちかだ」

「いいんだろ別に。将来使うかもしれないんだから」


 蒼真はにやりと笑って水面に浮かんだ。天を仰ぐ。六月の空は高い。雲の切れ間から陽が差し込み、水面に光の模様を落としている。

 水場で弓が使えないなら、そもそも弓が使える場所を選ぶ。単純な結論だが、それを戦闘中に徹底するのは簡単ではない。前衛の足場、里奈(りな)と真帆(まほ)の位置、紅葉(もみじ)の索敵範囲、航と悠斗の退路。考えることはいくらでも増える。班長として見なければならないものは、目の前の的だけではなかった。


 プールの向こう側では、悠斗がようやく二十五メートルを泳ぎ切って歓声を上げていた。


「やったー! ついた! 足! ついたぞ蒼真ーっ!」

「橘、声がでかい。落ち着け」

「すみません先生っ、でも俺いま人生で一番嬉しいんで!」

「お前のスケールはどうなってんだ」


 教官の冷静な突っ込みに、周囲のSクラスの生徒が何人か振り返って笑っている。先週三度水を飲んだ男が、今日は一度も溺れなかった。蒼真は水の中から「ナイス悠斗ー!」と声を張った。航もプールサイドから「次は折り返してこい」と短く投げる。


「鬼だなお前ら!」


 悠斗が叫び返す。クラスの垣根を超えた空気が、この水泳授業にはあった。水着で並ぶと、Sクラスも1組も適性も、少しだけ薄まる。

 でも、あの距離はまだ縮まらない。

 プールの反対側で、凛がターンして戻っていく。水飛沫が陽光に煌めいた。

 蒼真はそれを見つめてから、静かに水に潜った。水の中は静かだ。自分の心臓の音だけが聞こえる。

 浮上する。息を吐く。

 ――焦るな。まずは、前期試験だ。

 蒼真はプールの縁に手をかけ、体を引き上げた。水滴を拭って、プールサイドを後にする。

 今日得た手応えは、派手なものではない。五十メートルを泳ぎ切れたこと。後半の腕の重さを知ったこと。航の観察が戦闘以外でも頼りになること。悠斗が、苦手な水の中でも一歩進めたこと。そして、凛との距離がまだ遠いままでも、ほのかの言葉を通じて、ほんの少しだけ自分が視界に入ったかもしれないこと。

 足りないものも見えた。体力、呼吸、ルート取り、水場で弓術士がどう戦うかの答え。どれもすぐには埋まらない。

 けれど、埋めるべき穴が見えたなら、あとは練習するだけだ。

 次は、前期試験だ。

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