第33話 Sクラスとの合同授業
本日より、第二章前期実力考査編の開始となります
六月の立川は、朝から空気が重い。
梅雨入りしたばかりの曇天が迷宮都市を覆い、湿気が制服の襟元にまとわりついてくる。神代蒼真は学院へ向かう多摩モノレールの車内で、窓の外に広がる灰色の空をぼんやりと見上げた。
――今日から水泳授業か。
先週のホームルームで担任の後藤喜一郎が読み上げた告知が、まだ耳の奥に残っている。Sクラスと1組の合同実施。ダンジョンの水場対策として必修だと説明されれば納得はできる。けれど、その告知を思い出すたび、胸の奥が妙にざわついた。
理由はある。分かっている。分かっているから厄介だ。
肩に和弓はない。矢筒もないし、鞄の中に弽もない。荷物が軽い分だけ、右手の親指が弦枕の感触を探すように落ち着かなかった。今日は泳ぐための日だ。それでも学院へ向かう以上、何かを掴んで帰りたい。
立川ダンジョン駅で降りると、駅前のロータリーにはすでに制服姿の学院生が散らばっていた。六月とはいえ朝の空気はまだ涼しく、蒼真は深く息を吸い込んだ。ダンジョンの方角から流れてくる、わずかに重い空気。二ヶ月前はそれに圧倒されたが、今はもう体が覚えている。肺の奥に入ってくる重さを、怖いものとしてではなく、これから向かう場所の匂いとして受け止められるようになっていた。
「そーま!」
背後から飛んできた声に振り返ると、橘悠斗が長い脚で駆け寄ってきた。ツーブロックの髪が朝の風に揺れている。その後ろから、宮瀬航が眠そうな顔でついてくる。
「おはよ。なんで朝から元気なんだよお前は」
「いやだって、今日水泳だぞ水泳。テンション上がらない方がおかしいだろ」
悠斗の顔が妙に輝いている。蒼真は嫌な予感がした。
「……お前、まさか」
「まさかも何も、Sクラスとの合同ってことはさ、Sクラスの女子も一緒ってことだろ? 水着ぞ水着」
「やっぱそっちか」
航が横から、湿った空気にうんざりしたような声で言う。
「お前に言われたくないけどな、悠斗」
「あ? なんだよ」
「昨日の夜、寮の部屋で『明日の水泳、Sクラスの女子って誰がいるっけ』ってブツブツ言いながらスマホ覗いてただろ。電気消しても画面の光で分かるんだよ」
「いや、調べてない」
「検索履歴」
「消した」
「消したってことは調べたんだろうが」
航のとどめの一撃に、蒼真は声を上げて笑った。
「あー、それは詰みだな悠斗。完全に詰み」
「なんだよ蒼真、お前まで航サイドかよ。裏切ったな」
「裏切るも何も、最初から真っ黒じゃねえか」
朝から騒がしい。いつも通りだ。
「つーかさ、蒼真は気にならないわけ? SクラスだぞSクラス。あの天城凛も来るんだぞ?」
悠斗が肘で突いてくる。
気にならないわけがない。
天城凛。金髪碧眼。Sクラスの火魔法使い。入学式の日に見かけてから、気がつけば目で追うようになっていた。先月の放課後、訓練場で矢を射っていたとき、ふと振り返ったら凛がこちらを見ていた――ような気がした。気のせいだったかもしれない。でも、あの一瞬が妙に頭に残っている。
「まあ、多少は」
「『多少』ねぇ……」
航が意味ありげに目を細める。蒼真は話題を変えるように歩く速度を上げた。
「なんだよその速度。逃げるな逃げるな」
「逃げてない。遅刻したくないだけだ」
「言い訳が下手すぎる」と航。「お前、嘘つく時に歩幅が広くなる癖があるな」
「だからそういうの観察すんな」
また悠斗が笑う。蒼真も降参して笑った。三人分の足音が、湿った石畳の上で跳ねるように重なっていった。
◇
学院の屋外プールは、校舎の東側に位置していた。
五十メートルの競泳用プールが一面。水面は曇り空を映してくすんだ銀色に光っている。塩素の匂いと、濡れたタイルの冷たさが鼻と足裏に届いた。プールサイドにはすでにSクラスの生徒が数名集まっていて、1組とは少し距離を置く形で準備運動をしている。
水の匂いは、ダンジョンの魔素とは違う。けれど足場を奪われるという意味では、どちらも甘く見ていい相手ではなかった。
更衣室で着替えを済ませ、蒼真たちがプールサイドに出ると、1組の面々もぞろぞろと揃い始めた。水着は各自の選択で、蒼真は動きやすさを重視した黒の競泳用。悠斗は丈の長いサーフパンツ、航は蒼真と同じ競泳用だが紺色だった。
「ダンジョンの水場対策って言ってたけどさ、一年は普通に泳ぐだけなんだろ?」
航が腕を回しながら言った。
「みたいだな。まずは泳げるようになること、って後藤先生が」
「『泳げるようになること』って、もう泳げる前提の生徒に何させる気なんだろうな」
「フォーム矯正じゃね? 俺は別件でフォーム矯正してほしいけど」
「お前のフォームは生まれつきだから諦めろ」
航が即座に切り返した。蒼真が吹き出すと、悠斗が「ひでえ」と肩を落としてみせる。
その悠斗が、ふと声のトーンを落とした。
「……あのさ、笑わずに聞いてくれよ」
「なんだよ急に」
「俺、クロール二十五メートルがギリなんだよな……」
蒼真は意外で目を瞬いた。陸では誰よりも速い男が、水になると急に弱気な声を出す。
「マジで? お前、運動神経の塊みたいな顔してるのに」
「陸と水じゃ全然違うっつーの! 《脚力強化》使えたら話は別だけどさ、絶対これ使うなって言われるじゃん?」
「そりゃそうだ。スキル使ったら水泳じゃなくて競技魔法になる」と航が冷静に返す。
「俺なんか実家の裏の用水路で散々泳いだけど、用水路は足つくからな」と蒼真。「足つかない五十メートルは初めてだから俺もちょっと緊張してる」
「足つかないのが本当にこえーんだって!」
悠斗が拝むように両手を合わせる。蒼真と航は顔を見合わせた。
「お前、溺れたら助けてやるから安心しろ」
「ガチで頼む。マジで頼む。命預ける」
「軽すぎる命だな」
航が即座に返し、蒼真がまた笑った。プールサイドの空気は朝より少し軽くなっている。
三人で笑い合っていると、プールの反対側に見覚えのある金色が揺れた。
天城凛。
ツインテールの髪を高く結い上げ、紺色のワンピースタイプの水着を着ている。隣には黒髪ロングの白瀬ほのかがいて、二人で何か話していた。凛が頷き、ほのかが何か言って笑う。凛の横顔は、教室の窓越しに見るのとはまた違って見えた。
「――おい、蒼真」
悠斗の声で我に返った。
「ん?」
「今、二秒くらい停止してたぞ」
「停止してない」
「停止してた」と航が同調する。「目線の角度と肩の傾きが変わったから、視線の先を辿ったら向こう側に天城がいた」
「いや、お前の観察精度マジでこえーよ」
「二対一はずるい」と蒼真。
「いつも俺らがお前にやられてるんだから、たまにはこっちのターンだ」
航がさらりと言ってのけた。蒼真は反論を諦めて、視線をプールの水面に戻した。心臓が少しだけ速い。自覚してしまった感情は、一度気づくと無視が難しい。
◇
授業が始まった。
担当は後藤ではなく、体育担当の女性教官だった。短髪で日焼けした肌、テキパキとした口調で全体に指示を出していく。
「今日は基本のフォーム確認と、二十五メートルのタイム計測をやります。Sクラスも1組も関係なく、泳力別にレーンを分けます。自信がある者は奥の三レーン、そうでない者は手前の三レーン。無理はしないこと。スキルの使用は禁止です。これは念のため言っておきますよ、橘」
「なんで俺だけピンポイントで」
「あなたが一番怪しいから」
悠斗ががっくりとうなだれ、周囲から笑いが漏れた。教官の指名はかなり当たっている。
蒼真は迷わず奥のレーンに向かった。実家の裏手に用水路があり、子供の頃から泳ぎ慣れている。弓を引く動作で鍛えた上半身と体幹は、水の中でも役に立つはずだった。
奥のレーンには、1組からは蒼真と航、それから数名。Sクラスからも何人かが来ていた。
その中に――凛がいた。
距離にして二メートルほど。プールサイドのタイルの上で、蒼真は背筋を伸ばし、視線を水面の一点に固定した。話しかける理由がない。話しかける口実もない。同じレーンにいるだけで、それは偶然以外の何ものでもない。
「では、二人ずつ。準備のできた者から」
蒼真はスタート台に立った。隣のレーンに立ったのは、Sクラスの男子生徒だった。凛ではない。当然だ。タイム計測は順番に回ってくる。
号令とともに水に飛び込む。
――水に入った瞬間、余計な思考が消えた。腕を回し、水を掻き、息継ぎのたびに曇り空が視界を横切る。水は空気より重く、腕に絡みつく。けれど、弓を引くときに背中で弦を受け止める感覚と、どこか似ていた。肩だけで押すと進まない。体幹で支え、背中で水を捉え、前へ運ぶ。
二十五メートルはあっという間だった。壁にタッチして顔を上げると、教官が時計を見て頷いた。
「神代、十六秒二。いいフォームだ。上半身の使い方がうまい。背中で水を捉えてる」
蒼真はプールから上がり、タオルを肩にかけた。悪くない。弓を引く筋肉は、水泳でも噛み合っている。そんな実感が、指先に微かな熱として残っていた。
その時。
手前のレーンの方から「うわあああ」という悲鳴が上がった。
「……出たな」と航。
「来ると思ってた」と蒼真。
悠斗だ。二十五メートルの途中で、見事に水を飲んでいる。
「悠斗! 立て! 足つくぞ立て!」
「だ、だい、じょうぶじゃ、ない……! 足、つかな……ガボッ」
「だから足つくっつってんだろ!」
百八十センチが水の中でもがいている光景は、なかなかにシュールだった。航が呆れ顔でプールサイドから見下ろす。
「だってさ。お前の《脚力強化》、見事に陸専用だな」
「うるせえ! 今笑うとこじゃねえだろ!」
「いや、笑うとこだろ」
周囲から笑いが起きた。1組もSクラスも関係なく、プールサイドの空気が一段ぬるくなる。教官が苦笑しながら「橘、手前の浅い側で練習しなさい」と指示を飛ばした。
◇
授業の後半は自由練習の時間になった。
蒼真はプールの端で、水の中での体の動かし方を確認していた。ダンジョンの水場で戦うことになったら、腕の動きが大きく制限される。弓は引けない。そもそも弦が水を含めばまともに扱えないし、矢を番える動作にも時間がかかる。ナイフか、あるいは別の手段が必要になる。腕を斜めに振り、軌道の感覚を確かめる。水の重さは思ったより腕に絡みついてくる。
「蒼真、何やってんの?」
航がプールの縁から覗き込んできた。
「水中で武器を振る感覚を確かめてた。弓は無理でも、ナイフなら使えるかなって」
「水中で? 投擲の弾道が水の抵抗で減衰する前提か」
「そう。ただ投げるより、近距離で突く方がまだ現実的かもしれない。水の中だと腕を振るだけで遅れる」
「お前、本気で考えてんのか」
「考えてる」
「……一年の水泳でそこまで考えてるやつ、お前くらいだぞ。教官の話聞いてた? 今日のテーマ、『泳げるようになること』だぞ?」
航が呆れたように肩をすくめる。蒼真は水の中でにやりと笑った。
「いいだろ別に。気になるんだから」
「お前、そういうとこだよ。歩幅が広くなって嘘つく癖もそうだし、水泳の時間にナイフの使い方考えてるとこも、全部そういうとこだ」
「褒められてんのか貶されてんのか分かんねえな」
「両方」
蒼真は声を立てて笑い、水から上がった。航もにやりと口の端を上げる。
タオルで顔を拭きながらプールサイドを見渡すと、凛がプールの反対側で黙々と泳いでいるのが見えた。クロールのフォームに無駄がない。腕が水面を切る角度、息継ぎの間隔、ターン前の減速の少なさ。すべてが計測されたように整っている。速い。
ほのかがプールサイドに座って凛を待っていた。凛がターンして戻ってくると、ほのかが何か声をかける。凛が水から顔を上げ、ほのかに何か返した。その横顔は、先ほどと変わらず涼しげだった。
――同じプールにいるのに、遠い。
蒼真はその距離を、今はただ認識するだけにとどめた。焦る必要はない。入学してから二ヶ月。あの頃は凛の名前すら知らなかった。今は名前を知っていて、Sクラスの火魔法使いだと知っていて、何千本もの矢を射ってきた自分の訓練をたぶん見ていたことも知っている。
名前も、適性も、たぶん見られていたことも、あの頃は何ひとつ知らなかった。
「おーい蒼真! 悠斗、また飲んでる!」
「二回目!?」
「三回目だ正確には」
航の冷静な訂正に、蒼真は吹き出しながらプールに飛び込んだ。
「悠斗、立てっつってんだろ立て!」
「だ、だっ……ガボッ……足、つく……の、忘れる……!」
「忘れるな!」
手前のレーンに辿り着いて悠斗の腕を掴むと、悠斗が拝むような目でこちらを見た。蒼真は思わず笑ってしまった。人助けでこんなに楽しい気分になるのは、なかなかない。
◇
授業が終わり、更衣室に戻る。
濡れた髪をタオルでがしがしと拭きながら、蒼真は今日の感触を反芻していた。水の中での腕の抵抗、体の浮力。弓を引く動きとは違う筋肉の使い方。来週も水泳があるなら、もう少し潜水の練習をしておきたい。
「あー疲れた……水泳ってこんなに体力使うんだな……」
「お前はほとんど溺れてただけだろ」
「溺れるのも体力使うんだよ! マジで! 肺も腹筋もパンパン!」
「それは確かに」
「蒼真までそっち側に行くな」
蒼真は笑いながら制服のボタンを留めた。窓の外を見ると、曇り空の合間から、わずかに光が差している。水に濡れた髪の先から雫が落ち、首筋を伝った。
「なあ」
航が不意に声のトーンを落とした。蒼真と悠斗が同時に顔を向ける。
「前期の実力試験の話、そろそろ出てくるだろ」
「お、それな」と悠斗が腰を上げる。
「後藤先生、先週の授業で『七月に予定している』って言ってたよな。日程調整が始まってるって」
「言ってた言ってた」と蒼真。「廊下でも上級生が『一年の前期は第2層まで』って話してた。たぶん間違いない」
「お前、廊下の会話まで聞いてんのか」と悠斗。
「耳に入っただけだよ」
「絶対意識して聞いてただろ」
航が淡々と切り込んでくる。蒼真は反論を諦めて笑った。確かに、意識して耳をそばだてていた。
脳裏に、五月のダンジョン実習の記憶がよぎる。第1層の灰褐色の岩肌。ゴブリンの咆哮。里奈の悲鳴。第2層の、あの角の生えたハイゴブリン。
――今度は、正面から第2層に挑めるかもしれない。
心臓が跳ねた。怖いんじゃない。あの暗い通路の先にもう一度立てる。今度は逃げ込むのではなく、試験として、班で準備して、全員で向かう。そう思うと、指先が熱を持った。弦を引くときと同じ熱だ。
ただ当てるだけでは足りない相手がいる。矢は有限で、外せば減る。刺さったまま魔物が粒子化すれば戻らない。蒼真は、その重さも少しだけ知っている。
「前期試験、楽しみだな」
蒼真の声に、悠斗と航が顔を見合わせた。
「……お前、ダンジョンの話になると急に目の色変わるよな」と悠斗。
「そうか?」
「そうだよ。今めっちゃギラギラしてる」
「ギラギラっていうか、瞳孔開いてる」と航が学術的な顔で付け足す。
「俺をなんだと思ってるんだよ」
「弓術士で熱血で、ダンジョン狂い」
「最後のいらないだろ」
蒼真は笑いながら言い返した。
悠斗が大きく伸びをして、がしゃっとロッカーを閉めた。
「まあでも、俺もちょっと楽しみだわ。今度こそ前衛で暴れたい」
「お前は今日、水で暴れただけで終わったけどな」
「水は不可抗力だ!」
「不可抗力じゃない、技量不足だ」
「ひでえ」
また三人分の笑い声が更衣室に響いた。
濡れた髪を掻き上げ、蒼真は更衣室を出る支度を整えた。
――今日得た手応えは小さい。水の中では弓が使えないこと。体幹は役に立つこと。Sクラスとの距離は、まだ遠いこと。そして、前期試験という次の目標が、もうすぐ目の前に来ること。
凛の泳ぎの速さ。悠斗の弱点。航の観察眼。笑って終わった一時間にも、持ち帰るものはあった。蒼真は更衣室を出る前に、メンテナンスノートへ書くべき項目を頭の中で一つ増やした。次に弦を引く時、水の中で感じた腕の重さを思い出せる気がした。
届かないものは、まだ多い。けれど、届かせたいものも増えている。
窓の外の曇り空は、少しだけ明るくなっていた。六月の水はまだ少し冷たかった。けれど夏は、すぐそこまで来ている。




