第32話 頂はまだ遠い
入学から二ヶ月が経とうとしていた。
五月の最終週、蒼真は放課後の訓練場で矢を放ち続けていた。
二十メートル先の的。中心の赤い円。呼吸を整え、弦を引き絞る。魔力が矢に流れ込み、鏃の先端が蒼く灯る。指を離す。蒼い軌跡が直線を描き、的の中心を射抜いた。
百射目。
肩に疲労が溜まっている。指先が僅かに痺れている。それでも弦を引く手は止まらない。
初ダンジョン実習から得たものは大きかった。弓道場では一度も考えなかったことばかりだった。味方の頭上を矢が通る瞬間の、あの肝の冷え方。
同時に、突きつけられたものも大きかった。
ハイゴブリンの硬い表皮。魔力を纏った矢が体表で止まった感触が、まだ右手に残っている。至近距離から全力の一矢を放ってようやく右目を射抜いた。あの距離まで詰められたのは悠斗と航が前衛で引きつけてくれたからで、里奈の《氷矢》が脚を鈍らせてくれたからだ。
――一人だったら、勝てなかった。
それは弱さの自覚ではない。仲間の力を知ったということだ。でも、弓術士としての自分の火力が足りなかったのも事実だった。
もう一射。蒼い軌跡。的の中心。
もう一射。蒼い軌跡。的の中心。
その繰り返しの中で、蒼真の思考は巡る。
授業で見たSクラスの訓練風景。窓越しに一瞬だけ覗いた演武場で、剣の使い手たちが対人模擬戦をしていた。その動きの速さ、判断の鋭さは一般クラスのそれとは明らかに違う。後藤の授業を真面目に聞いている蒼真たちの教室の隣で、Sクラスはもう一段上の実技に取り組んでいるのだ。
須藤はあの中にいる。凛もあの中にいる。
百三射目で、左の人差し指が攣った。弦が指を弾き、矢が的の中心から二センチ逸れた。
「……くそ」
声が出た。悔しさではない。もっと引きたいのに身体が追いつかない、という苛立ちだ。
弓を下ろし、左手を握ったり開いたりする。指の感覚が戻るのを待ちながら、訓練場の天井を見上げた。
Sクラス。
須藤大河。天城凛。
入学式の日、Sクラスの区画は遠かった。廊下の向こう、渡り廊下の先、客席の中段。常に距離があった。
須藤との模擬戦は勝った。でも、あの勝利は《小転移》という切り札と、須藤が自分を過小評価していたことの合わせ技だ。次に戦えば同じ手は通用しない。須藤は「次は負けない」と言った。あの目は本気だった。
凛とは言葉を交わしたことすらない。
Sクラスの生徒たちは入学時からエリート候補として特別カリキュラムを受けている。日々の授業も訓練も、一般クラスとは密度が違う。蒼真が連携訓練で手応えを感じている間に、Sクラスの面々はさらに先へ進んでいるはずだ。
距離は縮まっているのか。
拳を握った。
縮まっているかどうかは分からない。でも、立ち止まってはいない。
入学前、ゴミ箱に頭から突っ込んだ日。《小転移》の法則を見つけた日。「手札は揃った」と祖父に報告した夜。
入学式の日、正門の前で魔素を感じた瞬間。「怖いんじゃない。興奮だ」と鳥肌が立った朝。
須藤の剣が振り下ろされた瞬間、背後に転移して矢を放った。会場が騒然としたあの日。
第2層で、ハイゴブリンの右目を至近距離から射抜いた。六人で帰ってきた。後藤に叱られて、「悪くない」と言われた。
サンサンロードで担架に乗った探索者を見た。命を懸ける道だと知った。それでも「この道を選んだ」と思った。
二ヶ月で、これだけのことがあった。
二ヶ月前の自分と今の自分は、違う。確実に違う。
でも頂は、まだ遠い。
当たり前だ。二ヶ月で届くような場所なら、最初から目指す意味がない。
◇
訓練場を出ると、五月の夕風が頬を撫でた。
正門に向かう途中、ポケットの中のスマートフォンが鳴った。画面を見ると、叔父・誠二からだった。
「もしもし、誠二叔父さん」
『おう蒼真。元気にしてるか』
「元気にしてます。今日も訓練して帰るとこです」
『真面目だねえ。お前は本当に兄貴の息子だよ』
誠二の声は低いが温かい。週に一度は電話をくれる。叔父というよりもう一人の保護者のような存在だった。
「美咲と結衣は元気ですか」
『元気だよ。結衣が「そうまにいちゃんいつくるの?」って毎日聞いてくる。美咲は最近学校の図書室で探索者の図鑑を借りてきたらしい』
蒼真は足を止めて笑った。探索者の図鑑。美咲が「あぶないんでしょ」と心配していた顔が浮かぶ。心配しながら図鑑を借りてくるあたりが叔父の娘らしい。
「夏休みに行けたら行きます。前期実力試験が七月にあるんで、その後ですかね」
『そうか。まあ無理すんな。やっていけそうか?』
蒼真は少し黙った。
やっていけるかどうか。答えは決まっている。
「まだ始まったばかりです」
口にした瞬間、声に力が入った。
「Sクラスとの差は正直でかいです。でも追いついてやります。ていうか追い抜きます」
『ははっ。言うねえ、お前は』
「叔父さんが胸を張れって言ってくれたから。張ってます」
誠二が一瞬黙り、それから笑った。電話越しでも分かるぐらい嬉しそうな笑い声だった。
『そうか。張ってるか。なら、もう何も言うことはないな』
「心配かけてすみません」
『心配するのが叔父ってもんだからな。蒼真、お前のその声聞けてよかったよ。またな』
「はい。またです」
電話を切り、スマートフォンをポケットにしまった。
サンサンロードに出ると、夕暮れのカフェテラスに探索者たちが座っていた。ノートPCを開いて情報交換する者。パーティのメンバーとビールで乾杯する者。サポーターを巻いた腕でコーヒーを持つ者。
あの中に、いつか自分もいる。プロの探索者として、仲間と肩を並べてこの通りを歩く日が来る。
でもまだだ。まだ、この街では新入生だ。
六人のグループメッセージが鳴った。悠斗が「明日の連携訓練、前衛ローテ重点にしたい」と珍しく真面目な提案を送っている。航が「異論なし」と返し、紅葉が「あたしは索敵の切り替え速度詰めるね!」。里奈が「《氷矢》のタイミング、今日より0.5秒早く出せるように練習します」と。真帆が「私は光源の位置取り引き続きやります!」と元気なスタンプ付き。
蒼真は「了解。全員で詰めていこう」と返した。
この街の日常の中に、蒼真はいる。
まだ始まったばかりだ。
◇
マンションに戻り、シャワーを浴びた。
メンテナンスノートを開き、今日の訓練記録を書き込む。百三射。百一射目まで中心。百二射目も中心。百三射目で左人差し指が攣り、二センチ逸れた。
課題:持久力。百射を超えてからの精度維持。指先の筋疲労管理。
書き終えてページを繰ると、数日前に書いた一文が目に入った。
「探索者は命を懸ける。でも命を懸けるに値する何かが、この街にはある」
蒼真は右手で弦を引く形を作り、ぱちんと離す仕草をした。
六人で潜ったダンジョン。蒼い軌跡で射抜いたゴブリンの額。ハイゴブリンの右目。後藤の「六人で帰ってきた。それが一番大事だ」。悠斗の拳。航の「いい目してる」。紅葉の「まかせて!」。里奈の「次は逃げない」。真帆の「なら私は倒れない」。
全部が、この二ヶ月で手にしたものだ。
ノートを閉じ、ベッドに座って和弓を手に取った。弦に軽く触れる。乾いた弦音が部屋の中に一つだけ鳴った。
祖父の弓道場で、何千本と矢を放った。
東京に来て、この弓で須藤に勝った。ダンジョンで仲間を守った。まだ二ヶ月だ。ここから先の方がずっと長い。
でも。
蒼真は和弓を壁に立てかけ、布団に潜り込んだ。
――六月が来る。前期実力試験が来る。水泳授業が来る。Sクラスとの距離が測れる瞬間が来る。
天井に手を伸ばした。蒼い軌跡を描くように指先を走らせる。
目を閉じると、まぶたの裏に蒼い光が尾を引いた。
あの光が届く場所は、まだ遠い。
遠いから、走る。
弓術士は、まだ走り出したばかりだ。
翌朝。
五月最後の日の太陽が、立川の街を照らしていた。
蒼真はマンションの玄関で靴を履きながら、メンテナンスノートの表紙を叩いた。今日書くことは決まっている。六人での連携訓練、昨日の課題の振り返り、紅葉との合図の簡略化。
扉を開け、階段を降りる。
多摩モノレールの高架が朝陽を受けて白く光っていた。
サンサンロードへ抜ける道を歩きながら、蒼真は口角を上げた。
――まだ始まったばかりだ。
弦を引く仕草を右手で作り、ぱちんと離す。
蒼い軌跡は、いつかSクラスの頂に届く。
探索者学院唯一の弓術士は、今日も静かに頂を狙っている。
ここまでお読みくださり、誠にありがとうございます。
本話で第一章入学編の完結となります。いかがでしたでしょうか?
次回からは第二章前期実力考査編が開始しますのでお待ちください。
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