第3話 小転移の正体
適性が判明したあの日から、蒼真の生活は二つの軸で回り始めた。
弓の稽古と、《小転移》の研究。
弓については迷いがなかった。祖父の道場で毎日百本。腕が上がらなくなるまで引いて、翌日も同じことを繰り返す。的との対話。呼吸と弦音の一致。蒼真にとって弓は幼い頃からの延長で、体の一部のようなものだった。弓術が適性と判明してから、弓を引く感覚がさらに研ぎ澄まされた気がする。的が前より近く見える。風の流れが読める。体の奥に定着した何かが、弓を引くたびに共鳴している。
問題は《小転移》だった。
探索者協会の測定装置は確かに「スキル:小転移」と表示した。だが協会のデータベースにその名前はなく、係員も「聞いたことがない」と首を傾げた。
スキルは適性保持者のみが獲得できるが、全員が獲得できるわけではない。適性とスキルを両方持つ者はエリートへの切符を手にしたも同然だ。しかし、使い方が分からないスキルに切符の価値はない。しかもスキルは探索者協会の特殊装置でのみ確認可能で、「ステータスオープン」と呟いてもゲームのように情報を呼び出すことはできない。装置は「ある」と言っている。だが体は何も教えてくれない。
半年間、蒼真は手探りの実験を続けた。
「転移」という名前から連想されるあらゆることを試した。念じてみる。叫んでみる。走りながら念じる。特定のポーズを取ってみる。「転移しろ」「移動しろ」「飛べ」――思いつく限りのトリガーワードを口にした。弓道場で、自室で、庭で、風呂場で。メンテナンスノート――蒼真が自主的につけている研究記録――は失敗の報告で埋まっていった。
百を超える失敗。何一つ手がかりが掴めない日々。
それでもやめなかったのは、性格としか言いようがない。「やっても無駄かもしれない」と頭の片隅で思う自分を、「やらなきゃ分からないだろ」ともう一人の自分が蹴飛ばす。その繰り返しだった。
◇
中三の春。入学試験を控えた時期のことだった。
自室で爪を切っていた。パチン、パチン、と小気味良い音を立てながら、切った爪をビニール袋に集めていく。
いっぱいになったビニール袋を、部屋の隅のゴミ箱に向かって雑に投げた。
放物線を描いてゴミ箱に――入らず、縁に当たって跳ね返る。
「あ」
床に落ちたビニール袋を拾い何となく戻り、改めてゴミ箱へと投じながら、蒼真はぼんやり思った。
――転移で入れられないかな。
何の根拠もない思いつきだった。半年間の失敗で感覚が麻痺していたのかもしれない。「転移」と名のつくことなら何でも試す癖がついていた。もはや反射に近い。
だがその瞬間。
体の内側で何かが動いた。弦を離した瞬間に似た、何かが解き放たれる感覚。適性が発現した時にも似た――体の奥で弾ける、あの。
気づいた時、蒼真は頭からゴミ箱に突っ込んでいた。
「――っ!?」
ゴミ箱が倒れ、中身が散乱する。顔面にティッシュが張り付く。背中を壁にぶつけた衝撃で目に涙が浮かぶ。
蒼真は床に転がり、天井を見上げた。
「……今の、なんだ」
起き上がる。手が震えている――けれどこれは恐怖じゃない。半年間空振りし続けたバットが、今初めてボールに当たった。その感触。
――動いた。《小転移》が、動いた!
頭がフル回転を始めた。
何が違った? 今まで何百回も念じて、走って、叫んで、何も起きなかった。今回だけ何が違った?
蒼真は床に座り込み、メンテナンスノートを引き寄せた。ペンを掴む手がまだ震えている。
「条件を整理する。今回だけ違ったこと……」
ペンを走らせる。
――爪。ビニール袋に入った自分の爪。それをゴミ箱に投げた。「転移で入れられないか」と思った。
そして自分がゴミ箱の位置に転移した。
「……爪?」
蒼真は散乱したゴミの中からビニール袋を拾い上げた。中を見る。爪は――なかった。消えている。さっきまで確かに入っていた爪の欠片が、跡形もなく。
背中がぞくりとした。それでも頭の芯は、氷みたいに冷えている。
「燃料……いや、触媒だ。自分の体の一部が――触媒になる」
◇
ここからの蒼真は早かった。
弓道場に籠もり、実験を繰り返した。半年間の空振りが嘘のように、一つずつパズルのピースが嵌まっていく。
まず爪の欠片を幾つか小さな布に包み、弓道場の的の前に置いた。五メートルの距離。的を見ながら「あそこに行く」と念じる。
体が引っ張られる感覚。次の瞬間、的の前にいた。
足元を見ると、爪を包んだ布はあるが、中の爪が消えていた。
「やっぱり消える――触媒は消費される」
ノートに書き込む。手が震える。でも嬉しくて仕方がない。
次に、距離を伸ばした。五メートル、七メートル、十メートル。十メートルでは問題なく転移できた。十二メートルを試すと――何も起きなかった。十一メートル。何も起きない。
「十メートルが限界か」
ノートに大きく「10m」と書き込み、二重丸で囲んだ。
次に、壁の向こうに触媒を置いて試す。道場の奥の用具室に爪を置き、壁を隔てて念じる。目をつぶっても、開けても。何も起きない。
壁を回り込んで触媒が見える位置に立ち、念じる。転移した。
「視界に入っていないと駄目だ」
さらに、母の髪の毛を「落ちてたから」ともらって試す。触媒として置き、念じる。何も起きない。
「他人のものじゃ駄目。自分の体の一部に限る」
最後に、自分の髪を一本抜いて試す。――失敗。
追加で数本抜き同様に念じる。――成功。相応の分量が必要そうだ。
触媒として機能した。爪でも髪でも――自分の体の一部であれば触媒になる。
ノートの新しいページに、五つの確定事項を大きな字で書き込んだ。
一、触媒は自身の体の一部でなければならない(爪、髪など)。
二、他人のものは使用不可。自分のものに限る。
三、最大転移距離は十メートル。
四、転移先を視界に収めている必要がある。
五、触媒は一度使用すると消費・消滅する。相応の分量が必要で、欠片一片では不可。
蒼真はノートを見下ろし、ペンの先で頬を掻いた。実験のたびに爪を使い、足りなくなって髪も抜いたので、指先がひりひりして頭皮がちくちくする。
「……つまり、事前に触媒を仕込んだ物体をどこかに置いておけば――あるいは投げておけば――そこに飛べる」
脳裏に、スローイングナイフの形が浮かんだ。
投げることを前提としたナイフ。刃渡り十五センチ程度。柄には細い溝が彫られており柄尻には通し穴も開いている。触媒を仕込むのにぴったりだ。
爪の欠片を溝に嵌め込んで、糸で巻き留めれば――重心を崩さずに触媒を仕込める。
投げる。刺さる。刺さった場所に転移する。
五本のナイフに触媒を仕込めば、最大五回の転移が可能。使い切っても、自分の髪を切ってナイフに括り付ければ臨時で補充できる。
蒼真は立ち上がった。弓道場の壁にかかった的を見る。
「弓で撃って、ナイフで飛ぶ」
気づけば笑っていた。指先の震えは、もう恐怖の震えじゃない。
「――手札は揃った」
声に出して言った。弓道場に自分の声が反響する。
蒼真はスローイングナイフを取り出した。刃渡り十五センチ。柄の溝は、もともと指がかりのためのものだ。だが溝は、まるで誂えたように爪の欠片を呑み込んだ。
爪の欠片を溝に嵌め、細い糸で丁寧に巻き留める。重心を確かめ、手首のスナップで投げる。
ナイフが的の横の壁に突き刺さった。
蒼真は刺さった場所を見据え、念じた。
体が引っ張られ――次の瞬間、壁の前にいた。
足元を見る。ナイフは刺さったまま。だが柄の溝にあった爪の欠片は消えている。
「成功」
蒼真は拳を握った。強く握り込んで、開いた。指先が白くなるほど握っていた。
――これで戦える。弓術士として、これで戦える。
弓だけじゃ、距離を詰められたら終わりだった。魔法使いのような火力もない。飛び道具の主流は魔法で、弓使いは極めてレア。不遇と言われても仕方ない。
だが《小転移》がある。距離を詰められても、飛べる。ナイフを投げて、飛べる。死角を取れる。弓で撃って、ナイフで飛ぶ。弓術士だけの、自分だけの戦い方。
「……待ってろ東京」
声に出して言った。遠い街に向かって、決意を投げた。拳が熱い。体の芯が燃えている。天恵熱の時とは違う――自分自身の熱だ。
◇
夜になって弓道場を出ると、縁側に祖父が座っていた。冬の夜空を見上げている。茶を飲んでいるらしく、湯呑みから白い湯気が昇っていた。
「爺ちゃん」
「おう」
「使い方が分かった。スキルの」
「……」
祖父は蒼真を見上げた。その目は暗くてよく見えなかったが、視線の重さは感じた。
「随分遅かったな」
蒼真は目を瞬いた。
「――遅い? 半年以上かかってるんだけど」
「そうか」
僅かに――ほんの僅かに、祖父の口元が緩んだ。
それが笑みだと分かるのは身内だけだろう。蒼真は鼻の奥がつんとした。この人は最初から、蒼真が諦めないことを知っていたのだ。だから「遅い」と言った。来ないとは、思っていなかった。
「……うん」
深く息を吸って、吐いた。冬の夜空に白い息が昇る。星が出ていた。田舎の空は星が多い。東京の空は、きっとこうはいかない。
「待ってろ東京」
さっきも言った言葉を、もう一度。今度は祖父に聞こえるように。
祖父は何も言わなかった。湯呑みの湯気だけが、二人の間でゆっくり昇っていた。




