第2話 手にしたカード
演武場を出て、学院の廊下を歩く。
悠斗はまだ興奮が冷めないらしく「あのナイフからの消えるやつ、もっかいやれよ」「いや練習で気軽にやるもんじゃないんだって」「けち!」とやかましい。航はその横を黙って歩いていたが、ふと口を開いた。
「須藤、最後に笑ってたな」
「……ああ」
「悪い奴じゃないのかもな」
蒼真は頷いた。握手の感触がまだ手に残っている。須藤の手は大きくて、握力が強くて、けれど握手そのものは柔らかかった。
悠斗が「ま、お前が勝ったのは変わらないけどな!」と蒼真の背中をバンバン叩く。航が「うるさいし痛そうだからやめろ」と注意して、蒼真は二人の間で笑った。三人揃うとうるさい。入学からまだ二週間だが、もうこのうるささが心地いい。
渡り廊下に差しかかった時、蒼真の足が止まった。
夕日が差し込む廊下の先に、金色の髪が揺れていた。ツインテールの長い髪が夕陽を受けて光り、歩くたびにふわりと揺れる。
綺麗な髪だ、と思った。その一語だけが頭を占めて、ほかが入ってこなかった。
呼吸が一つ止まった。演武場で須藤の剣を前にした時とは違う種類の緊張が、胸の辺りを締めつける。
相手はこちらに気づかない。背中だけを見せて、すたすたと歩いていく。凛とした足取りだった。その背中に、近いようで遠い距離を感じた。
「おーい、蒼真。どうした」
悠斗の声で我に返った。
「……いや。何でもない」
「何でもなくねえ顔してたぞ。耳赤いし」
「赤くない」
「航海灯みたいに赤い」
「例えが意味不明だわ」
航が「航海灯は確かに赤いけど、使い方は合ってないな」と冷静にツッコミを入れ、悠斗が「うるせえ! 雰囲気だよ雰囲気!」と返す。三人の笑い声が渡り廊下に響いた。
金色の背中は、もう見えなくなっていた。
◇
校門を出て、三人で並んで歩いた。多摩モノレールの立川ダンジョン駅から立川南駅へ。そこから悠斗と航は寮のある柴崎町方面へ、蒼真は錦町のマンションへ。改札前で「また明日な」と手を振って別れた。
マンションに戻り、靴を脱ぎ、リビングの床にそのまま座り込んだ。
制服のまま、壁にもたれる。
ダンジョン素材製の制服は見た目こそスマートなブレザースタイルだが、防御力も魔法防御力も優秀らしい。初めて袖を通した時は「かっこいいな」と素直に思ったものだ。今はその制服が汗でわずかに湿っている。
手を天井に向けて伸ばす。
震えは、もう止まっていた。
勝利の実感が、遅れて足元から這い上がってきた。Sクラスの須藤大河に、弓一張りと五本のナイフだけで勝った。
――すげえな、俺。
誰もいない部屋で思って、少し照れた。だが照れている場合じゃない。嬉しいものは嬉しいのだ。
「…………」
目を閉じる。
瞼の裏に浮かんだのは、演武場ではなかった。
木の香り。弦の音。的に突き立つ矢。畳の冷たさ。
――遠い場所の、近い記憶。
◇
あれは中学二年の冬だった。
目が覚めた時、体の芯が燃えるように熱かった。
熱は三十八度を超えていたが、意識ははっきりしていた。むしろ冴えていた。体の内側で何かがうねり、形を変えようとしている――そんな不思議な感覚があった。
「蒼真、大丈夫か」
父、神代恒一が部屋に入ってきた時、蒼真は布団の中で天井を見上げていた。
「うん。なんか、身体が熱いだけで、頭はすっきりしてる」
「……こりゃあ天恵熱かもしれんな」
父の声がわずかに震えた。母が慌てて体温計を持ってくる。隣の部屋から祖父、神代玄蔵が現れ、蒼真の額に手を当てた。ごつごつした大きな手だった。
「行くぞ」
祖父の一言で家族が動いた。父が車を出し、母が保険証と上着を用意し、三十分後には最寄りの探索者協会支部の前に立っていた。
天恵熱。十三歳から十五歳の間に発症する、適性発現の前兆。その俗称は天からの恵みを与えられる熱から。これが来れば、探索者になれる可能性がある。来なければ――適性なし。探索者の道は閉ざされる。
地方にも、ダンジョンの近くには必ず探索者協会の支部がある。蒼真の住む町から車で三十分の距離に、小さなダンジョンとその支部があった。
支部の中は思ったより質素だった。古い建物を改修したような、役所に近い雰囲気。受付の係員が蒼真の症状を聞き、「たしかに天恵熱の可能性がありますね」と頷いた。
「それではダンジョンの入口へ向かいます。入口を通過した時点で適性が発現し熱も引きます。もちろん戦闘は必要ありません。すぐ出ますからご安心ください」
係員に伴われ、支部の裏手からダンジョンの入口へ向かう。公園の一角にぽかりと開いた洞窟のような穴。フェンスと警備員に囲まれたその入口は、蒼真が想像していたものよりずっと地味で――しかし、近づくほどに肌が粟立った。
見えない粒子が全身を撫でるような感覚。空気が重く、濃い。肉眼では何も見えないのに、体が「何かある」と叫んでいる。
――魔素。
ダンジョン内に充満する目に見えない粒子。それがダンジョンの空気を作っているのだと、教科書で読んだ知識が体感に変わった。
入口を一歩踏み越えた瞬間。
体の奥で、何かが弾けた。
心臓ではない。もっと深い場所。魂の手前、あるいはその奥。力の奔流が全身を駆け巡り、頭の先から足の先まで、血管の一本一本を熱い何かが通り抜けていく。やがて波が引くように落ち着き――何かが、体に定着した感覚があった。
蒼真は係員に促されすぐにダンジョンを出た。息が荒い。けれど恐怖はなかった。むしろ体が軽かった。
支部に戻り、適性測定装置、縦長のカプセル型の装置に入った。中は薄暗く、壁面に淡い光の走査線が走る。魔力のパターンを読み取る装置だと係員が説明してくれた。
数分後、カプセルの外に出ると、係員がモニターを見ながら蒼真の顔を見た。
「適性は――弓術士です」
一瞬、意味が分からなかった。
「……弓?」
「はい。弓の適性です。それと、スキルが一つ。《小転移》……ですが、これは協会にもデータがありませんね。使い方が分かりますか?」
「いえ――何も浮かびません」
通常、スキル獲得時にはトリガーワードと使い方が自動的に頭に浮かぶ。火魔法なら「火球」という言葉と、魔力を練り上げて杖先に収束させ発動する手順が、まるで最初から知っていたかのように浮かぶらしい。
だが蒼真には何も浮かばなかった。それが異例であることは、係員の困惑した表情から明らかだった。
だが蒼真にとって、スキルのことは二の次だった。
弓術士。
剣士じゃない。
幼い頃から冒険物語が好きだった。剣を振るう英雄に憧れた。
祖父の道場で弓を引く時間も、嫌いではなかった。的に向かう間だけは、体の奥が静かになる。
それでも、物語の中で目で追ったのは、弓を構える誰かではなく、剣を抜いて前へ出る英雄だった。
「剣士として探索者になる」――それが物心ついた時からの夢だった。
祖父の道場、神代流古武術は剣術・槍術・弓術の総合武術だ。蒼真は幼い頃から全てを習い、どちらも好きだった。だが弓術が手に馴染む感覚は、剣術のそれとはどこか質が違うと薄々感じてはいた。弓を引くと、呼吸が自然と整う。的が近く見える。体と弓が一つになる。そんな感覚。
けれど夢は剣士で、弓はあくまで――もう一つの稽古だった。
適性は選べない。手にしたカードで勝負するしかない。それは分かっていた。頭では。
車の中で、蒼真は黙っていた。母が何度か声をかけたが、上手く返事ができなかった。助手席で祖父が前を向いている。その横顔は何も読み取れない。
帰宅後、自室に籠もった。
一日目。布団の中で天井を見ていた。剣士になれない。その事実が何度反芻しても飲み込めなかった。
二日目。何も食べなかった。母がドアの前にお盆を置いていった。味噌汁の匂いがした。
三日目の夜。窓の外が暗くなった頃、遠くから音が聞こえた。
弦の音。
弓道場の方角からだった。
蒼真は布団から出て、サンダルを引っかけて外に出た。冬の夜気が頬を打つ。庭を横切り、離れにある弓道場の引き戸を開けた。
祖父の代で道場は閉業している。けれど弓道場は今もメンテナンスされており、祖父と父と蒼真のライフワークとして使われ続けていた。
祖父がいた。
道着を着て、弓を構え、的に向かっている。いつも通りの、静かな射。背筋が真っ直ぐで、呼吸の音すら聞こえない。
弦音が響く。矢が的の中心に吸い込まれる。
祖父は蒼真に目もくれず、次の矢をつがえた。
蒼真はその場に立ち尽くしていた。足元は冷たく、指先はかじかんでいる。それでも祖父の射を見ている間だけ、剣士になれなかった悔しさが息を潜めた。
何分経ったか分からない。祖父が弓を下ろし、初めて蒼真の方を見た。
「来たか」
「……爺ちゃん」
「そうか」
それだけだった。
蒼真の目から涙がこぼれた。声を上げて泣いた。弓道場の板張りの床に座り込んで、子どものように泣いた。悔しかった。剣士になれないことが。夢が閉ざされたことが。でもそれだけじゃなかった。祖父の弦音が、何千回と聞いてきたあの音が、体の奥のどこかを叩いていた。
涙が止まった時、蒼真は顔を上げた。目が腫れている。鼻水も出ている。格好悪い。でも構わない。
「――弓で、トップになる」
自分の声が、静かな弓道場に響いた。
「手にしたカードが弓なら、弓で頂を目指す。剣士じゃなくていい。弓術士として、誰よりも強くなる」
祖父は弓を片手に持ったまま、蒼真を見下ろしていた。
僅かに、ほんの僅かに、口の端が動いた。
「そうか」
その一言に、全部が詰まっていた。
◇
蒼真は目を開けた。
天井が見える。マンションの白い天井。四月の夜の静けさの中に、遠くで電車の音がする。
右手を伸ばす。弦を引く形を作る。
あの夜から、何千本の矢を放っただろう。来る日も来る日も弓道場に通い、的と向き合い、弦音と呼吸を重ねた。「弓術士として頂を」。そう決めた日から、一日も休まなかった。
今日、その矢が――Sクラスの実力者を射止めた。
蒼真は笑った。天井に向かって、声を出して笑った。止まらなかった。
「やったよ、爺ちゃん」
スマートフォンを取り出し、祖父にメッセージを送った。
「勝ったよ」
返信は、すぐに来た。
「そうか」
蒼真は吹き出した。
「……もうちょっと、こう、あるだろ」
そう独り言を言いながら、笑いが止まらなかった。けれどその「そうか」の裏に「よくやった」が入っていることを、蒼真は知っている。
制服のまま、布団にも入らず、蒼真はしばらくそうして笑っていた。天井に伸ばした手が、まだ弦を引く形をしていた。




