第1話 弓と剣、頂への一矢
四月十五日、放課後。
国立東京探索者学院・屋外スタジアム型演武場。
数百人を収容できるすり鉢状の観客席が、午後の日差しの中で白く光っていた。今そこに座っているのはせいぜい百人程度。放課後の模擬戦を噂で聞きつけた物好きたちだ。けれど、その百人が発する空気は妙に熱い。
Sクラスの須藤大河が、一般クラスの弓術士に模擬戦を申し込んだ。
その噂は入学からわずか二週間の学院に、小さな火種のように広がっていた。
――弓術士。
探索者学院全体を見渡しても、弓術の適性を持つ人間はたった一人。それが自分だ。
神代蒼真は演武場の中央に立ち、二十メートル先の須藤大河を見据えた。
和弓を左手に。矢筒を背負い、右太腿に固定したナイフホルダーにはスローイングナイフが五本。弓は自前のものだ。入学当初は学院の訓練用を使っていたが、引き味の違いが気になって担任の後藤に申請し、許可を得た。手に馴染む弦の感触が、心臓の鼓動を落ち着かせてくれる。
対する須藤は片手剣を右手にぶら下げ、肩の力が抜けた構えで佇んでいる。端正な顔立ちに浮かぶ表情は穏やかで、どこか心配そうにすら見えた。
Sクラスの実力者。両親ともに有名探索者のサラブレッド。須藤大河がなぜ、入学して二週間の一般クラスの弓術士に模擬戦を申し込んだのか。蒼真にはまだその真意が分からない。善意なのか、侮りなのか。
だが、どちらでもいい。
心臓が速い。手のひらが汗ばむ。けれどその鼓動の奥に、もう一つの感情がある。
――楽しい。めちゃくちゃ緊張してるけど、楽しい。
口角が、勝手に上がった。
演武場には特殊魔道具が展開されている。この場で受けるダメージは全て試合後に無効化される。ただし戦闘中のフィードバックは幻覚としてリアルに再現される。つまり、痛みも衝撃も本物同然だ。たとえ大ダメージを受けても、KOされれば精神フィードバックで気絶する程度。安全だが、手加減する理由もない。
「始め!」
審判を務める教員の声が演武場に響いた瞬間、蒼真は動いた。
片膝を落とし、膝射の姿勢。矢をつがえ、弦を引き絞る。呼吸半分。弦と頬骨が触れる――その感触だけが世界の全てになる一瞬。
放った。
蒼い光の軌跡が空気を裂く。魔力を纏った矢は射出の瞬間から蒼白い尾を引き、一直線に須藤の胸元へ――
逸れた。
須藤の片手剣がわずかに動いただけだった。刃が矢の側面を叩き、蒼白い残光を散らして軌道を弾く。矢は演武場の防壁に突き刺さり、そこで止まった。
観客席がどよめく。最初の一射がこうもあっさり処理されたことに、あるいは蒼い軌跡の美しさに。だが蒼真は驚かない。
《看破》。相手の動作を読むアクティブスキル。こっちが弦を引く動作から射角を割り出して、着弾点を予測してるんだ。直射は初手のみ有効。ここからが本番。
須藤が踏み込んだ。速い。剣士の適性を持つ者の加速は、蒼真とは比較にならない。二十メートルの距離が見る間に縮まる。十五。十二。十――
蒼真は後退しながら、右手で腰のスローイングナイフを抜いた。
一本目は須藤の足元へ。牽制。須藤がわずかに進路を変える。その分だけ距離が稼げる。
二本目は胸元へ。須藤の剣がそれを弾く。金属がぶつかる硬い音。
三本目を投げたと同時に、一本目のナイフに仕込んでおいた煙幕粉末が一気に弾けた。
灰白色の煙が須藤の視界を覆う。
蒼真は煙幕が広がった瞬間に矢をつがえ直していた。膝射ではなく、立ち姿勢。弦を限界まで引く。腕が震える。けれどこの引き味を体は知っている。何千回と繰り返した、あの弓道場での射と同じだ。
曲弦射。
矢は須藤からズレた方向へ向かった、ように見えた。
だが、煙幕の縁を抜けた瞬間、蒼い尾がわずかに横へ流れる。弓の軸をずらし、矢のしなりと復元で射線を横へ逃がす射。神代の道場ではそれを曲弦射と呼ぶその一射は、正面からではなく、須藤の左側面へ回り込むような軌道だった。
観客の何人かが息を呑んだ。蒼白い光の線が、空中で弧を描いていた。
だが――
煙幕を突き破って須藤が飛び出した。その目は矢の軌道を正確に捉えていた。片手剣が閃き、蒼白い残光を曳いて曲弦射を叩き落とす。乾いた音とともに矢が地面に転がった。
これがSクラスか。背中を冷たいものが伝った。
《看破》で軌道を読まれたからといって、この距離と速度なら本来は防げないはずだ。それを可能にしているのは、神経の隅々まで行き届いた超人的な制御。スキルというカンニングを、完璧な正解へと変える圧倒的な『器』の差だった。
残りのスローイングナイフは二本。
距離は八メートルまで詰められている。弓術士にとって、決して安全な距離じゃない。
蒼真はバックステップしつつ四本目のナイフを投げた。須藤の顔面を狙う直投。これも牽制だ。須藤が剣で弾く。その隙に蒼真は更に後ろへ跳び、距離を取る。
五本目――最後の一本。
失投してしまったのか、ナイフは須藤の足元に刺さった。
須藤は一瞬軌道を目で追っただけで意に介さなかった。当然だ。自分に向かって来ない投擲に意味はない。少なくとも、常識的にはそうだ。
須藤が剣を構え直す。距離六メートル。弓術士にとって致命的な近距離。ここから矢を番えて射るまでの時間で、須藤の剣は三度振れる。
それでも構わないとばかりに蒼真が手にした矢をつがえようとしたその時。
須藤が一気に踏み込んだ。
片手剣が振り下ろされる。蒼白い光を纏った一閃が蒼真の頭上に――
蒼真が消えた。
須藤の剣が空を切った。蒼白い残光だけが空間に尾を引いて消える。
次の瞬間、蒼真は須藤の背後にいた。五本目のナイフが刺さった地面のすぐ傍。いつの間にか和弓を構え、矢をつがえ、弦を引き絞っている。
須藤のうなじ。至近距離。外しようがない。
矢が放たれた。蒼い軌跡が短く鮮やかに閃き、須藤のうなじに突き立つ。
特殊魔道具の効果で実ダメージは発生しない。だが幻覚として再現されるフィードバックは本物と区別がつかないほどリアルだ。須藤の体がぐらりと揺れ、膝が折れた。
「勝者、神代蒼真!」
審判の声が響く。
演武場が、静まり返った。
それから、爆発するように騒めきが広がった。
「今の何だ?」
「消えた――消えたよな?」
「テレポート? 魔法使いでもないのに? いや、そんなスキル――」
「あのナイフ……いや、まさか」
蒼真は弓を下ろし、深く息を吐いた。指先が震えている。興奮なのか安堵なのか、自分でも見分けがつかない。ただ、泣きそうなのに口元は笑っていた。
膝をついた須藤が顔を上げた。目が合う。その瞳に浮かんでいたのは――驚愕と、そして。
「……やるな」
須藤が、笑った。
悔しさもあるだろう。敗北の痛みもあるだろう。だが、その笑みに嫌な色はなかった。悔しさの裏で、何かに見入っているような目だった。
「多彩な魔法を操る魔法職と違い、弓では距離を詰められたらそうはいかない。……悪かった。どうやら僕は、お前を見誤っていた。弓術士だから、というだけでな」
不思議と、見下したような響きはなかった。むしろ蒼真の身を案じているようだった。その理由までは、まだ分からなかった。
「でも、僕の認識不足だったよ。あんな至近距離で僕を仕留めたのは、他ならぬその『弓』だった。……返り討ちにあって、格好がつかないけれどね」
須藤はそう言って立ち上がり、降参だと言わんばかりに肩をすくめた。
須藤が右手を差し出す。蒼真はその手を握った。
「ありがとうございました」
蒼真の声は少し掠れていた。模擬戦を申し込まれなければ、自分の力を証明する場はなかったかもしれない。弓術士だと分かった上で、須藤は正面から向き合ってくれた。だから礼を言いたかった。
須藤は握手を返しながら、低い声で言った。
「次は、負けない」
その声に悪意はなかった。敗北を認めた上での宣言だった。
――ああ、この人は。
蒼真は、須藤大河という人間を一つだけ理解した。負けてもなお、前を向ける男だ。
「望むところです」
蒼真は笑って答えた。歯を見せて、遠慮なく。
◇◆◇
観客席の中段。天城凛は腕を組んだまま、演武場に立つ二人を見下ろしていた。
隣では白瀬ほのかが「すごかった! ね、凛ちゃん、今の見た? 消えたよね!? 弓もぐにょーんって曲がってたよね!?」と興奮気味に揺さぶってくるが、凛は視線を外さなかった。
「……油断しただけでしょ」
凛はそう言った。冷たい声だった。
けれど、あの一瞬。蒼真の姿が消え、次の瞬間に須藤の背後に現れたあの瞬間。凛の目は確かにそれを捉えようとして、捉えきれなかった。
何が起きたのか。
テレポート――いや、それにしては出現位置が近すぎる。弓使いがそんなスキルを使えるなど聞いたこともない。あのナイフを投げた場所に現れたのは偶然? いや、あの位置取り、あのタイミング。計算されていた。
引っかかる。何かが。
「凛ちゃん、帰ろう?」
「……ええ」
凛は立ち上がった。演武場を出る間際に一度だけ振り返る。
中央では蒼真が友人二人に囲まれていた。背の高い槍使いが肩を叩き、口数の少なそうな長剣使いがぼそりと何かを言い、蒼真が声を上げて笑っている。
――一般クラスの、弓術士。
そう思おうとして、足が一拍だけ遅れた。
凛は前を向いた。考えるだけ無駄だ。私にはやることがある。
けれどその足が、ほんの少しだけ遅くなったことに、凛自身は気づかなかった。
◇◆◇
「蒼真! やったなお前! すげえ! マジですげえ!」
橘悠斗が両肩を掴んで揺さぶってくる。百八十センチの長身から繰り出される揺さぶりは結構な破壊力で、蒼真は笑いながら「離せ、酔う」と手を払った。
「最後の、あれ、消えたやつ。あれ何だ? テレポートか? お前テレポートとか持ってたの!?」
「テレポートは大げさだよ。もっとちっちゃいやつ」
そう答えながら、蒼真は右手を握った。
五本目のナイフに括り付けた、小さな触媒の感触は、もうどこにも残っていなかった。
「いや説明になってねえ」
「お前、震えてるぞ」
宮瀬航は蒼真の手元から目を離さずに言った。百七十二センチの中肉中背。目つきがやや鋭い。その視線が蒼真の手元を捉えていた。
蒼真は自分の手を見た。確かに、指先がまだ微かに震えている。
「……ああ。まあ、そうだな」
蒼真は手を握り、開いた。
勝った。あの須藤大河に、弓一張りで。
その事実がようやく、全身に染み渡り始めていた。
弦を引いていた右手の指が、まだ勝手に開いたり閉じたりしている。頬の緩みだけはどうにもならなかった。
――手にしたカードで、戦えた。
蒼真は空を見上げた。四月の夕空は薄く茜色に染まり始めていた。
視界の端で、観客席を降りていく金髪の背中が見えた気がした。
けれど、それはすぐに人混みに紛れて消えた。
――その背中が、もう一度こちらを振り返っていたことに、蒼真は気づかなかった。
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