第29話 弓術士の背中
放課後の屋内訓練場は、いつもより空気が澄んでいた。
五月も中旬を過ぎ、初ダンジョン実習を終えた一年生たちの間では自主訓練の熱が目に見えて上がっている。訓練場の各区画には、それぞれの武器を手に汗を流す同期の姿があった。剣を振る者、槍を突く者、魔法の制御に集中する者。
そして、弓を引く者が一人。
訓練場の最奥、弓術用の的射レーンに神代蒼真はいた。
二十メートル先に設置された的に向き合い、和弓を構える。左手で弓を押し、右手で弦を引き絞る。魔力を矢に纏わせる。蒼い光が矢尻を包み、薄暗い訓練場の空気を淡く染めた。
吐息とともに、弦を放つ。
ぱんっ、と乾いた弦音が訓練場に響き渡った。蒼い軌跡が一閃し、的の中心に突き立つ。矢は微動だにしない。
蒼真は矢筒から次の矢を取り出しながら、視線を的に固定したまま口角を上げた。
「――よし」
実習から三日。メンテナンスノートに書き連ねた改善点が、的を射るたびに身体に刻まれていく。後方警戒。矢の消費管理。射線の組み立て。第5班の連携訓練は明日から後藤に申請するとして、今日は自分の精度を磨く。
二射目。魔力を纏わせた矢が的の中心から一指分右に刺さる。
「……半指、右」
三射目の調整。左手の押しを微調節し、弦を引く。蒼い軌跡が真っ直ぐ飛び、的の中心に吸い込まれた。
「よしっ」
声が大きくなっていた。口元が綻ぶのを止められない。実戦を経て、的に向かう感覚が明らかに変わっている。弓道場の的射とは違う。あの薄暗い通路で、動く的に向かって射線を通したときの手応えが、今も右手に残っている。
四射目。五射目。六射目。
どの矢も的の中心付近に収まる。蒼真は矢を回収しに歩きながら、的に刺さった矢の集弾を確認した。親指の腹ひとつに収まる範囲。実習前なら満足していた精度だ。
「もっと、寄せられる」
的から矢を抜きながら、第2層のハイゴブリンの硬さを思い出す。あの個体は正面からの矢を弾いた。至近距離から目を射抜いてようやく通った。もし次にあの硬さの魔物と対峙したら、もっと正確に、もっと深く、急所を一射で射抜く必要がある。
レーンに戻り、再び和弓を構えた。
「ここ」
的の中心ではなく、中心から二指分上の一点を見据える。ハイゴブリンの目があった位置。そこだけを意識して、弦を引き絞った。
蒼い光が灯る。
放つ。
ぱんっ。
矢は狙った一点に突き刺さった。
「っしゃあ!」
拳を握り、小さくガッツポーズ。声が訓練場の壁に反響して跳ね返ってくる。周囲に人がいないことを確認して、蒼真は照れくさそうに頭を掻いた。
「……誰もいないよな」
矢筒から次の矢を取る。まだまだ引ける。まだまだ引きたい。
二十射。三十射。四十射。
腕が熱を持ち始め、指先の皮膚が硬くなっていく感覚がある。弓道場で何千本もの矢を放った右手は、この痛みを知っている。知った上で、もう一本。もう一本。
五十射を超えたあたりで、蒼真は矢を番えたまま一度弦から手を離し、息を整えた。額の汗を袖で拭い、的に刺さった矢の集弾を遠目に確認する。
「……いいペースだ。あと三十は引ける」
呟いて、再び弦を引き絞る。
◇◆◇
天城凛がその光景を目にしたのは、偶然だった。
Sクラスの放課後訓練を終え、火魔法の制御で消耗した身体を引きずるように訓練場の出口へ向かっていた。碧い目は疲労で重く、金髪のツインテールが肩にかかっている。
ほのかとは訓練場の入口で別れたばかりだ。「凛ちゃんお疲れ様~」と穏やかに手を振る友人の笑顔がまだ脳裏に残っている。
帰り支度を済ませようと壁沿いの通路を歩いていたとき、弓術用レーンの方角から乾いた音が聞こえた。
ぱんっ。
弦音。
訓練場の中で弓を使う人間は一人しかいない。
――あの弓術士。
凛は足を止めた。
通路の角から、弓術用レーンが斜めに見える位置。わざわざ見に行ったのではない。帰り道の動線上にたまたまあっただけだ。
ただの通りすがり。そう、通りすがり。
碧い目が、レーンの奥を捉えた。
神代蒼真が和弓を構えていた。
矢に蒼い光を纏わせ、的に向かって弦を引き絞る横顔。制服の袖を肘までまくり上げ、汗で髪が額に張り付いている。目は的の一点だけを見つめ、呼吸すら止めているように見えた。
弦を放つ。
蒼い軌跡が薄暗い訓練場の空気を裂き、的の中心に突き刺さった。
凛の足が、動かなくなった。
――速い。
それが最初の感想だった。矢を番えてから放つまでの動作に、無駄が一切ない。弓を構え、弦を引き、魔力を纏わせ、狙い、放つ。一連の所作が流れるように繋がり、どこにも力みがなかった。
次の矢。
矢筒から矢を取る動作すら滑らかだった。視線は的から外れず、右手が矢筒に伸び、左手は弓を持ったまま微動だにしない。矢を番え、弦を引く。蒼い光が灯り、放つ。
ぱんっ。
的の中心。さっきの矢のすぐ隣に、新しい矢が突き立った。
――ぶれない。
凛は壁に背を預けたまま、腕を組んだ。
Sクラスの訓練で見る剣士たちの素振りには、まだどこかにぎこちなさがある。筋力で補える段階の者が多い。魔法使い系の同期も、魔力の制御に集中すれば身体が強張る者がほとんどだ。凛自身、火球の収束に全神経を使えば、足元の意識が抜ける癖がまだ抜けきらない。
この弓術士の所作には、そういったぎこちなさがなかった。
何千本。
凛の碧い目が、蒼真の右手を見た。弦を離す指先の動き。引き絞った弦を解放する瞬間の、指が弦から離れる角度。あの精度は、ここ数週間の訓練で身につくものではない。
何千本もの矢が、あの身体に刻まれている。
三射目。四射目。五射目。
どれも的の中心に収まった。蒼真が矢を回収に歩き、戻り、再び構える。その間の足運びにも迷いがなかった。
凛は無意識に唇を噛んだ。
入学式の日、講堂で蒼真の視線を感じた。一般クラスの子。それが凛の認識だった。Sクラスの外にいる者に割く時間はない。そう思っていた。
須藤との模擬戦。弓の握りに迷いがないことには気づいていた。「負けると思ってる人間の歩き方じゃない」と分析したのは事実だ。小転移で須藤の背後を取ったあの瞬間、一瞬で消えた現象に確かに引っかかった。
けれど、それは一回の試合で見せた結果だ。
今、目の前にあるのは違う。
勝ち負けじゃない。どう射ったか、だ。
あの精度を支えている、途方もない反復の蓄積。
――これは、才能じゃない。
凛は無意識に足を止めた。矢を放つまでの手順に、迷いがなかったからだ。
弓術。飛び道具の主流は魔法であり、弓使いは極めてレア。社会的には非効率とされ、学院で弓術適性を持つのはこの男一人。
Sクラスの外。不遇と呼ばれる適性。
――それでも、ここまで精度を磨いている。
蒼真が的に向かって弦を引き絞った。汗が顎から落ちるのを拭いもせず、目だけが的の一点に注がれている。その横顔に、凛は見覚えのある表情を見つけた。
須藤との模擬戦の前、フィールドに入った瞬間の蒼真の顔。負けると思っていない人間の顔。
いや、違う。
今のこの顔は、あの時より。
蒼真が弦を放った。ぱんっ。蒼い軌跡が的の中心に吸い込まれ、直後に蒼真が「よしっ」と声を上げた。小さく拳を握る。次の矢を取る手に、自然と力がこもった。
――楽しそう。
凛は目を瞬いた。
汗だくで、腕の筋肉が疲労で震え始めているのが遠目にも分かる。それでも次の矢を番え、弦を引き、蒼い光を纏わせる。
楽しそうに。
凛は壁から背を離した。
帰ろう。
自分に言い聞かせるように踵を返す。通路を数歩進んだところで、背後からまた弦音が響いた。
ぱんっ。
足が止まる。
止まるな。
碧い目を閉じ、息を一つ吐いた。
Sクラスの外にいる弓術士。不遇適性。一般クラス。
でも。
凛は目を開けた。
あの精度は、私が火球の制御に費やした時間と同じか、それ以上のものだ。
通路を歩き出す。今度は振り返らなかった。訓練場の出口に向かいながら、凛は自分の右手を見下ろした。火球を練り上げるとき、まだ指先が震える。収束の精度にムラがある。
――私にはやることがある。
入学式の日に自分に言い聞かせた言葉。それは変わらない。
ただ、帰り道の頭の中に、蒼い軌跡が一筋だけ残っていた。
◇◆◇
蒼真が訓練を終えたのは、日が傾き始めた頃だった。
八十射。腕がじんじんと痺れ、指先の皮膚がひりついている。それでも顔は晴れやかだった。
弓を弓袋にしまい、汗を拭いてから訓練場を出る。五月の夕風が火照った身体に気持ちいい。
「明日、後藤先生に連携訓練の申請しないとな」
サンサンロードに出ると、探索者たちがカフェのテラスでPCを開いている夕方の風景が広がっていた。蒼真はその光景を横目に、マンションへ向かって歩き出す。
右手で弦を引く仕草を無意識にしていることに気づき、苦笑した。
「……クセになってるな、これ」
ポケットからスマートフォンを取り出すと、六人のグループメッセージが更新されていた。
悠斗:【明日の訓練、何時から?】
航:【放課後すぐ。先に訓練場押さえておく】
紅葉:【あたし索敵のレーン確保しとくね!】
真帆:【楽しみです!】
里奈:【……よろしくお願いします】
蒼真は立ち止まり、メッセージを見つめた。六人分の名前が並んでいる。
「――いい班だ」
声に出して笑った。返信を打つ。
蒼真:【よし、全員集合だな。俺もメニュー考えてきた。明日やろう】
送信。ポケットにスマートフォンをしまい、夕焼けに染まるサンサンロードを歩く。
右手で弦を引く仕草。今度は止めなかった。
まだまだ遠い。Sクラスの背中は見えない。でも。
蒼真は空を見上げた。茜色に染まった五月の空が広がっている。
――引いた矢の分だけ、近づいている。
マンションのドアを開け、靴を脱ぎ、ベッドに倒れ込んだ。メンテナンスノートを開き、今日の訓練の記録をつける。八十射。集弾。改善点。第2層の魔物の硬さへの対策として、魔力の纏わせ方をもう一段引き上げる必要がある、と書き加えた。
天井に手を伸ばし、弦を引く形を作る。
「――明日から六人だ。楽しみだな」
呟いて、目を閉じた。
蒼い軌跡が、まぶたの裏で尾を引いていた。




