第30話 探索者の光と影
週末の立川は、平日とは違う顔を見せる。
五月の陽射しが降り注ぐサンサンロードを、蒼真は一人で歩いていた。制服ではなく私服、実家から持ってきたTシャツとジーンズ。背中に弓袋は背負っていない。今日は訓練のない、久しぶりの完全オフだ。
昨日、六人での初めての連携訓練を終えた。後藤に申請を通し、訓練場を二時間確保。紅葉の索敵と蒼真の射線確認を連動させる練習、悠斗と航の前衛ローテーション、里奈の《氷矢》のタイミング調整、真帆の《小回復》の位置取り。全てが手探りだったが、六人で動く感覚が少しだけ掴めた気がする。
悠斗は「筋肉痛だから寝る」と寮に引っ込み、航は「本屋に行く」と一人で消えた。蒼真は何となく外の空気を吸いたくなって、サンサンロードを南に歩いていた。
週末のサンサンロードは賑やかだった。探索者がカフェのテラスで装備のメンテナンスをしている。パーティ募集の張り紙がカフェの掲示板にびっしりと並び、その前で腕を組んで吟味する若い女性の探索者がいる。ダンジョン素材製と思しき革のジャケットを着た男が、通話しながら早足で通り過ぎていく。
迷宮都市、立川。
蒼真は入学から一ヶ月半が経って、ようやくこの街の空気に馴染み始めていた。地方の実家の周辺には探索者の姿はほとんどなかった。祖父の道場があり、田んぼがあり、山がある。探索者協会の支部も車で三十分の距離だった。
ここは違う。探索者が「日常」に溶け込んでいる。
グリーンスプリングスの広場に足を向けた。複合施設の前の芝生には家族連れがシートを広げ、子どもたちが走り回っている。蒼真はベンチに腰を下ろし、その光景を眺めた。
結衣と美咲の顔が浮かぶ。世田谷の叔父の家で見た「普通の休日」。あれとそう変わらない風景が、ダンジョンから数キロの場所に広がっている。
「……不思議なもんだな」
呟いた瞬間、広場の南側から救急車のサイレンが聞こえた。
蒼真は腰を浮かせた。
サイレンの音は近い。グリーンスプリングスの東側を通る大通りを救急車が走り抜けていく。その後ろに、ダンジョン管理区画の方角から探索者協会のロゴが入ったバンが一台、続いていた。
広場にいた家族連れの何人かが、視線だけを救急車に向けてすぐに戻した。慣れている、という空気だった。子どもたちは走り回るのをやめない。
蒼真はベンチに座ったまま、救急車が消えた方角を見つめた。
「…………」
立ち上がり、大通りの方へ歩いた。
◇
大通りに出ると、探索者協会の管理区画に近い交差点に人だかりができていた。
蒼真は人垣の後ろから覗き込んだ。
担架が一台、協会のバンから降ろされるところだった。担架の上には、探索者と思しき男性が横たわっている。右腕が不自然な角度に曲がり、胸元から腹にかけて裂けた装備の隙間から血が滲んでいた。傍らで女性の探索者が男性の手を握りながら早口で何かを叫んでいる。
「変異種が出たらしい」
人垣の中から声が聞こえた。
「パーティで入ったのに間に合わなかったのか……」
「ヒーラーが追いつかなかったんだろ。中層でも油断したら死ぬぞ」
蒼真の手が、無意識にポケットの中で拳を握った。
担架の男性が搬入口に運ばれていく。女性の探索者が駆け足でついていき、扉が閉まった。人だかりが少しずつ散り始める。
蒼真は動けずにいた。
――ダンジョン。
自分たちが三日前に潜った場所だ。ハイゴブリンと戦い、里奈の《氷矢》と自分の一矢でどうにか倒した場所。あの時は六人全員で帰ってこれた。後藤先生に叱られもしたが、全員無事だった。
でも今、目の前で担架に乗せられた探索者は。
「ぼうっとしてるな、学院生」
背後から声がかかった。振り返ると、ダンジョン素材製のジャケットを着た中年の男性探索者が立っていた。首から提げた探索者カードにクラン名が刻まれている。
「……すみません」
「謝ることはない。ただ、ここで立ち止まっても何も変わらん」
男は蒼真の鞄に付けた学院のストラップを一瞥して、煙草に火を点けた。
「初めて見たか、ああいうの」
「……はい」
「立川に住んでりゃ、月に一度は見る。ダンジョンがある限り怪我人は出る。たまに死人も出る。それが探索者だ」
煙を吐き出し、男は交差点の向こうに目を向けた。
「だからと言って、びびって辞めるような奴はそもそもこの街に来ない。お前もそうだろう」
蒼真は、男の横顔を見た。四十代半ばだろうか。目の下に隈があり、右手の甲に古い傷痕がある。戦闘で負った傷だと、すぐに分かった。
「はい」
蒼真は頷いた。声が小さくなっていたことに気づき、もう一度言い直した。
「はい。辞めません」
男は煙草を咥えたまま、僅かに口角を上げた。
「なら前を見ろ。後ろを見てる暇はない」
そう言って、男は歩き去った。蒼真はその背中を見送りながら、右手を広げて閉じた。拳を握り、開く。何度か繰り返して、ようやく指先の感覚が戻った。
◇
サンサンロードを歩いて戻る途中、蒼真は立ち止まった。
カフェのテラスで、若い探索者の男女が笑い合っていた。テーブルには広げたダンジョンの地図と、ドロップ品と思しき素材が並んでいる。女性の方が素材を掲げ、「見て見て、レアだよこれ!」とはしゃいでいる。男性の方は「もう少しで13層だな」と目を輝かせている。
その隣のテーブルでは、壮年の探索者が一人、静かにコーヒーを飲んでいた。左腕にサポーターを巻き、目を閉じている。休息か、あるいは怪我の治りを待っているのか。
光と影。
その言葉が頭をよぎった。
叔父の誠二は「世田谷あたりだとダンジョンも探索者も遠い世界だ」と言っていた。結衣は「まもってね」と無邪気に笑った。
ここでは違う。ダンジョンは日常の隣にあり、探索者は命を懸けて潜り、怪我をし、たまに帰ってこない。それでも翌日にはカフェでレアドロップを自慢し、次の階層を目指して笑い合う。
――それが探索者だ。
さっきの男の言葉が蘇る。
びびって辞めるような奴はこの街に来ない。
蒼真は空を見上げた。五月の青が、まぶしいほど澄んでいる。
――怖いか?
自分に問いかけた。担架の上の探索者。不自然に曲がった右腕。血が滲んだ装備。あれが自分の未来にもありうるということ。
怖くないと言えば嘘になる。
蒼真は目を閉じ、息を吸った。
――でも。
胸の奥で、弓道場の弦音が鳴った。
――俺は、この道を選んだ。
目を開ける。蒼真の目に、迷宮都市の街並みが映っていた。探索者たちの笑い声。救急車のサイレンが遠くで微かに響いている。子どもたちがグリーンスプリングスの広場を走り回る歓声。
光と影が、この街には両方ある。
蒼真はポケットからスマートフォンを取り出し、写真を一枚撮った。サンサンロードの街並み。探索者たちがカフェで笑い合い、モノレールの高架が夕陽に照らされている。
叔父の言葉を思い出した。「兄貴と父さんにたまには写真でも送ってやれ」。
写真を実家の父に送信した。メッセージは添えなかった。この街にいること。この街で生きていくこと。それだけが伝われば十分だった。
父さんは、きっと何も言わない。爺ちゃんも、きっと「そうか」と返す。
蒼真は歩き出した。
◇
マンションに戻ると、スマートフォンに通知が一件。
父・恒一からの返信だった。
写真はなく、文字だけ。
『いい街だな』
蒼真は画面を見つめ、声を出して笑った。
「……父さんも爺ちゃんと同じだな」
ベッドに腰を下ろし、メンテナンスノートを開いた。今日は訓練をしていない。書くことはないはずだった。
ペンを取り、ノートの余白に短く書いた。
『探索者は命を懸ける。でも命を懸けるに値する何かが、この街にはある』
書き終えて、ペンを置いた。
天井に手を伸ばし、弦を引く形を作る。
「明後日は、六人で訓練だ」
担架の光景は忘れられない。だからこそ、次に同じ場面を見たとき、自分が何をするかを決めておきたかった。
蒼真は目を閉じた。
弦音が、身体の奥で鳴り続けている。
五月の夕陽が窓から差し込み、メンテナンスノートの文字を照らしていた。




