第25話 「……一本?」
職員室に戻ると、後藤喜一郎は机の上に置きっぱなしにしていた紙コップのコーヒーに口をつけた。もう冷めている。昼過ぎに淹れたものだから当然だ。舌の上で苦みだけが広がり、香りはとうの昔に死んでいた。
――六人全員が帰ってきた。
正門を出ていく神代の背中を見送ったのは、ほんの数分前のことだ。五月の風を吸い込むように一度立ち止まり、それから一歩を踏み出した。いい背中だった。叱られたばかりにしては、妙にまっすぐな歩き方をする。
後藤はネクタイの結び目に指を突っ込み、緩めた。元から曲がっていた結び目がさらに歪む。
「……ふう」
吐息とともに椅子の背もたれに体を預ける。隣のデスクの教官がちらりとこちらを見たが、何も言わなかった。探索実習の日はどの教官も消耗する。生徒を送り出し、後方で待機し、何かあれば即座にダンジョンに駆け込む。今日は駆け込んだ側だ。
引き出しから実習報告書の用紙を取り出し、机に広げる。明日の朝までに第5班の報告をまとめなければならない。神代には「翌日期限」と言ったが、教官側にも当然締め切りがある。後藤は左手でコーヒーを啜りながら、右手でペンを取った。
第5班。神代蒼真。橘悠斗。宮瀬航。鬼塚紅葉。中村里奈。小林真帆。
六名。帰還。負傷者一名。小林真帆、左肩打撲、自己回復済み。中村里奈、精神的動揺によりパニック逃走、身体的負傷なし。他四名、軽微な擦過傷程度。
ペンが紙の上を走る。
第1層東側区画にて魔物計六体を撃破。帰路にてゴブリン四体の奇襲を受け、戦闘中に中村里奈がパニック状態で逃走。班長・神代蒼真の判断で通信連絡の上、五名で追跡。中村の逃走経路は第2層降り口方向。
ペンが止まる。
第2層に突入。中村を確保した直後、ハイゴブリン一体およびゴブリン二体と遭遇。
後藤は紙の上に目を落としたまま、神代の報告を頭の中で反芻した。
第2層のハイゴブリン。初回探索で遭遇する相手ではない。本来は第2層の探索範囲にすら入っていないのだから当然だ。救出という例外的状況が、例外的な戦闘を生んだ。
――で、六人で倒した。
一年生の、それも初ダンジョン実習の班が、第2層のハイゴブリンを撃破した。事実として書けばそれだけのことだが、報告書を読む側が眉を上げるのは間違いない。
撃破の経緯は神代の報告で把握している。後衛の中村が《氷矢》で脚を鈍らせ、前衛の橘と宮瀬が時間を作り、神代が至近距離から右目を射抜いた。連携としては上出来どころの話ではない。初実習とは思えない判断力だ。
――だからこそ、だ。
後藤はペンを置き、指先で眉間を揉んだ。
神代の報告。第2層でのハイゴブリン遭遇。額に角があった。後藤が聞き返した。「何本だった」。神代は少し考えて答えた。「一本……だったと思います」。
一本。
ハイゴブリンの角は二本だ。
後藤は現役時代に立川ダンジョンの第2層を何度も歩いている。ハイゴブリンとも数え切れないほど戦った。額に二本の角を突き立てた、筋肉質の、ゴブリンの上位種。第2層の標準的な魔物。体高は大きくても一二〇センチ程度。
神代の報告では、体高は一五〇センチ。角は一本。
後藤は冷めたコーヒーをもう一口含み、天井を見上げた。
――一五〇センチは、でかいな。
ハイゴブリンの通常サイズからは明らかに逸脱している。角が二本ではなく一本というのも、聞いたことがない。もっとも、個体差という可能性はある。魔物にも成長の差や突然変異に近い揺らぎは報告されている。ダンジョン研究の論文を読めばその手の事例はいくらでも見つかる。
一本の角。大型の体躯。通常の第2層ハイゴブリンとは異なる外見。
――イレギュラー個体、か?
脳裏にちらりとその言葉が浮かび、後藤は自分で打ち消した。
探索者として二十年近く立川ダンジョンに関わってきた経験則がある。目の前の事実と、自分の知識と、それらが噛み合わないときに安易な結論へ飛びつくのは現役時代から戒めてきたことだ。情報が足りない。神代の報告だけでは断定材料にならない。一年生の記憶は興奮と恐怖で歪んでいる可能性もある。角が一本だったか二本だったか、戦闘の最中に正確に数える余裕があったかどうか。
しかし。
「……一本?」
声に出していた。
小さな声だった。自分の耳にすら届いたかどうか怪しい。
後藤は紙の上に視線を戻した。報告書のハイゴブリンに関する記述欄。ペンを取り直し、書く。
第2層にてハイゴブリン一体と交戦・撃破。体高は生徒の報告によると約一五〇センチ。額の角は一本。生徒の証言、戦闘中の観察であり確度は要検証。
確度は要検証。我ながら官僚的な逃げ口上だと思ったが、事実として確認できていない以上はこう書くしかない。
――確認するか。
そう思った。第2層のあの通路まで自分の足で行って、討伐の痕跡を調べる。魔物は粒子化して消えるが、戦闘痕は残る。壁の傷跡、血痕、氷魔法で凍った床面の残滓。角の本数までは分からなくとも、体格の推定くらいはできるかもしれない。
明日にでも行くか。
ペンを置きかけたとき、職員室のドアが開いた。
「後藤先生。教務主任がお呼びです。前期実力試験の日程調整で、至急と」
事務員の女性が、申し訳なさそうに告げた。
「今から?」
「はい。主任室に他の担任の先生方もお集まりで」
後藤は紙コップの残りを一息に飲み干し、立ち上がった。冷めたコーヒーの苦みが喉に残る。
「分かった。行く」
報告書を引き出しにしまい、ペンをペン立てに戻す。ネクタイの結び目を直す素振りをして、むしろさらに曲がった。
主任室に向かう廊下を歩きながら、後藤は頭の中で日程調整の算段を始めた。前期実力試験は七月。会場の確保、監督の割り振り、一年生はダンジョン探索の到達目標設定、二年生以上は上位層の探索限界の見直し。毎年のことだが、毎年面倒だ。
角のことは、頭の隅にしまわれた。
一本の角。一五〇センチの体躯。通常種とは異なる外見。
それらの断片は後藤の記憶の中で小さな引っかかりとして残ったが、前期実力試験の日程と教室の配分と監督の割り振りに押しやられ、主任室のドアを開ける頃には意識の表面から沈んでいた。
まあ、いい。報告書は明日仕上げればいい。第2層の確認もそのうち時間を作ればいい。
後藤喜一郎は主任室の椅子に腰を下ろし、配られた資料に目を通し始めた。
紙コップのコーヒーは、もう残っていなかった。
◇◆◇
同じ頃。
立川駅方面へ伸びる道を歩く蒼真は、五月の空を見上げていた。
西に傾きかけた日差しが、サンサンロードの並木を琥珀色に染めている。カフェのテラス席で探索者らしい男がノートPCを叩いている。少し先のベンチでは、ダンジョン素材製の頑丈そうなジャケットを着た女性が通話中だ。立川の日常だった。
背中にはまだ、後藤の声が残っている。
「お前の班員が死んでいたかもしれない」
――分かってます。
心の中で答える。答えになっていないことも分かっている。
歩きながら、右手で弦を引く仕草を無意識にしていた。指の腹に、弦の硬さの記憶がある。第2層の通路で、ハイゴブリンの右目を射抜いたときのあの一矢の感触が、まだ残っている。
第2層のハイゴブリンは、額に角が一本あった。
蒼真にとって、その情報は「ゴブリンに角はなく、ハイゴブリンには角がある」という認識を確認した程度のものだった。一本か二本かは気にしていなかった。初めて見る魔物だ。比較の対象がない。「ゴブリンより大きくて強かった」。それが蒼真の実感だった。
後藤が「何本だった」と聞いたときの一瞬の鋭い目は覚えている。でも、あの人はいつも急に鋭くなる。昼行灯のくせに。
「……ま、後藤先生がなんか気になったなら、先生がなんとかするだろ」
呟いて、蒼真は肩の力を抜いた。
メンテナンスノートに書くべきことが、頭の中にいくつも浮かんでいる。後方警戒の運用。紅葉の索敵範囲を前後に分ける案。矢の消費管理。折れた矢の数と残弾の関係。第2層の魔物の硬さに対する魔力の纏わせ方の工夫。里奈の《氷矢》との連携。
書きたいことが多すぎる。
自分でも可笑しくなって、ふっと笑った。
疲労は全身にある。第2層の魔素を吸い込んだ肺はまだ重い。真帆に治してもらった指は動くが、関節の奥に鈍い痛みが残っている。後藤に叱られた言葉が肩に乗っている。
それでも。
――悪くない一日だった。
自分でも変だと思う。里奈がパニックで逃げ、真帆が怪我をし、第2層に引きずり込まれ、一年生が倒すべき相手ではないハイゴブリンと死闘を演じた。後藤には山ほど減点された。どう考えてもいい一日ではない。
でも、六人で帰ってきた。
全員が、自分の足で歩いて、五月の空の下に戻ってきた。
それだけで。
「――よし」
声に出した。道行く探索者の何人かがちらりとこちらを見たが、気にならなかった。
蒼真は歩幅を広げた。錦町のマンションまでは、もう少しだ。帰ったらシャワーを浴びて、メンテナンスノートを開いて、今日のすべてを書き留める。
弓道場の弦音が、体の奥で鳴っている気がした。
今日放った矢は、全部覚えている。第1層の薄暗い通路で放った一射目も。ゴブリンの額を射抜いた一矢も。ハイゴブリンの右目を貫いた、あの一矢も。
蒼い軌跡が、まぶたの裏で尾を引いた。
――また、潜りたい。
口元に笑みが浮かんだまま、蒼真は五月の立川を歩いた。




