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蒼弓の軌跡 ~探索者学院唯一の弓術士は静かに頂を狙う~  作者: 七夜灯
入学編

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23/29

第23話 それぞれの重さ

 医務室は白い壁と消毒液の匂いに包まれていた。


 窓から差し込む五月の日差しが、六つ並んだベッドのうち二つを照らしている。真帆が左肩の打撲を診てもらい、里奈はその隣のベッドに腰かけて目を伏せていた。


 蒼真は入口近くの壁にもたれ、和弓を左手に抱えたまま天井を見上げていた。背中に染みついた汗が冷えて、制服が重い。


「神代くん、あなたも座りなさい」


 養護教官の女性が呆れたように言う。蒼真は「大丈夫です」と首を振ったが、悠斗に肩を押されてベッドの端に座らされた。


「大丈夫じゃねえだろ。矢も減ってるし、お前の右手の指まだ赤いぞ」

「《小回復(ライトヒール)》かけてもらっただろ」

「かけたから赤いだけで済んでんだよ」


 航が水のペットボトルを差し出す。蒼真は受け取って一口飲み、喉を通る冷たさに身体が緩むのを感じた。


 ――六人で帰ってきた。


 その事実が、遅れて全身に沁みてくる。


 紅葉はベッドに座った真帆の傍で腕を組み、養護教官の手元を黙って見ていた。真帆の左肩は打撲で赤くなっており、養護教官が《小回復(ライトヒール)》の上から更に処置を重ねている。


「《小回復(ライトヒール)》を追加で重ねていたおかげで、もう腫れはほとんど残っていませんね。赤みも安静にしていれば数日で引くでしょう」

「はい。ありがとうございます」


 真帆が笑顔で答える。あの状況でも笑えるのだから大したものだと蒼真は思った。

 視線が自然と、真帆の隣に座る里奈に向かう。

 里奈は膝に両手を置いたまま動かない。ボブカットの髪が顔の横に垂れて、表情は見えなかった。


 しばらく養護教官の処置が続き、真帆が「もう大丈夫です」と起き上がる。悠斗と航は蒼真の隣で黙って座っていた。紅葉が真帆にペットボトルを渡す。


 その静けさの中で、里奈が顔を上げた。


「――皆さんに、謝らないといけないことがあります」


 声は小さかったが、震えてはいなかった。

 蒼真は壁から背中を離し、里奈を見た。


「第1層の帰り道で、真帆さんが殴られた時――私は逃げました。班長の指示も聞かないで、一人で走って、第2層まで降りて」


 言葉が途切れる。里奈の両手が膝の上で握り締められている。


「皆さんを危険に巻き込みました。特に、真帆さん。私が逃げなかったら、みんなが第2層まで追いかけてくることもなかった。ハイゴブリンと戦うことも」

「里奈ちゃん」


 真帆が口を開きかけたが、里奈は首を横に振った。


「最後まで言わせてください」


 里奈が顔を上げる。目の縁が赤いが、涙は流れていない。


「――ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」


 深く頭を下げた里奈の栗毛色のボブカットが揺れた。

 医務室に沈黙が落ちる。


 蒼真は口を開こうとして、一度噛み締めた。里奈が「最後まで言わせてください」と言った。だから最後まで聞いた。


 ――班長として、何を言うべきか。


 答えはもう決まっていた。


「里奈」


 蒼真は立ち上がり、里奈の前に来た。


「謝ってくれてありがとう。ちゃんと聞いた」


 里奈がゆっくり顔を上げる。


「でも、里奈だけの失敗じゃない」

「え」

「後方警戒が抜けてた。あの奇襲はそもそも俺の判断ミスだ。紅葉は前方の索敵に集中してた。後ろを見るのは俺たち後衛の仕事だった。俺がそれを怠った」


 蒼真は自分の胸に手を当てた。


「真帆が殴られたのも、里奈がパニックになったのも、全部あの奇襲が起点だ。あの奇襲を許したのは班長の俺の責任だよ」


 紅葉がぐっと唇を噛む。


「あたしだって、前方ばっかり見てた。後ろから来るなんて頭になかった」

「俺もだ」と航が短く言った。「帰路だからって気が緩んでた」

「おれだって前のゴブリンに集中して後ろ見てなかった」悠斗が頭を掻く。


 蒼真は里奈の目を見た。


「全員の失敗だ。里奈一人で背負うことじゃない」


 里奈の唇が震えた。


「でも、私は逃げた」

「ああ。逃げた」


 蒼真はそこを否定しなかった。


「でも戻ってきたろ」


 里奈の目が見開かれる。


「第2層で、ハイゴブリンの足を撃ったのは里奈だ。あの《氷矢(アイスボルト)》がなかったら、俺の矢は右目に届いてない。逃げて、戻って、撃った。それが全部だ」


 真帆が里奈の手を取った。


「私、里奈ちゃんが戻ってきてくれた時すごく嬉しかったよ。肩なんて全然平気だから」

「全然じゃないだろ」航が淡々と突っ込む。

「もー、空気読んでよ宮瀬くん」

「事実だろ」


 悠斗が噴き出し、紅葉が「航らしいね」と笑った。


 里奈の肩から、ほんの僅かだが力が抜けた。


「――次は」


 里奈の声が、ほんの少しだけ強くなる。


「次は、六人で、最初から最後まで」


 蒼真は頷いた。


「ああ。次は六人でハイゴブリンを倒しに行こう。今度は第2層に正面から挑んでな」


 里奈が目を瞬かせた。


「……正面から?」


「当たり前だろ。今日は逃げながら戦ったんだ。次はちゃんと準備して、正面から叩く」


 その言葉に、里奈の目の奥にほんの微かな光が灯った。涙が一筋だけ頬を伝い、里奈はすぐにそれを手の甲で拭った。


「――はい」


 小さな、しかし確かな声だった。


       ◇


 医務室を出ると、廊下の窓から午後の光が差し込んでいた。


 紅葉と真帆が里奈を挟んで歩いていく。紅葉が里奈の肩に手を回し、何か小声で話しかけている。真帆は左肩を庇いながらも里奈のペースに合わせて歩いていた。


 蒼真はその三人の背中を見送ってから、悠斗と航を振り返った。


「後藤先生に呼ばれてる」

「叱られるだろうな」航が言った。

「だろうな」蒼真は苦笑した。

「応援行こうか?」悠斗が真顔で聞く。

「いい。班長として受ける」

「かっこつけてんな」

「うるさいわ」


 悠斗が拳を突き出す。蒼真はそれに自分の拳を合わせた。航が「先に寮に戻ってる」と歩き出しかけ、振り返って一言だけ付け足した。


「さっきの、里奈への話。良かったと思う」


 蒼真は少し目を丸くして、それから「ありがとう」と笑った。


       ◇


 一人になった廊下を歩きながら、蒼真はポケットからスマートフォンを取り出した。


 ――帰ってきたら電話する。


 母に約束した言葉を思い出す。泣かせるな。無事に帰れ。だから今、退けない。

 蒼真は廊下の窓際に寄り、画面を開いた。通話ボタンを押す。三回のコールで繋がった。


「蒼真?」


 母の声は、明るく取り繕おうとしてわずかに裏返っていた。


「うん。帰ってきたよ。ダンジョンから」

「そう……」


 数秒の沈黙。蒼真には分かった。母は泣くのを堪えている。


「怪我は?」

「ちょっと指を擦りむいたくらい。もう治った」


 嘘ではない。《小回復(ライトヒール)》で塞がっている。


「そう。よかった」


 母の声が少し震えた。蒼真は窓の外を見た。五月の空が、どこまでも青い。


「母さん」

「なに?」

「ちゃんとやれたよ。班長として、六人全員で帰ってきた」


 また沈黙。鼻をすする音が小さく聞こえた。


「――心配するのが母親ってもんだから。でも、よかった。本当に、よかった」


 蒼真の喉が熱くなった。飲み込む。


「ありがとう。また電話する」

「うん。いつでもね」


 通話を切った後、しばらく窓の外を見ていた。


 結衣の「まもってね」が頭を過ぎった。悠斗の「母親が震えてた」が重なった。


 ――守る側に立つというのは、帰ってくるということだ。


 帰ってきたから、電話ができる。声を聞かせることができる。

 蒼真は深く息を吐き、スマートフォンをポケットに戻した。

 後藤先生が待っている。


 廊下を歩き出す。足取りは重くない。叱られることは分かっている。後方警戒の甘さも、第2層に突入した判断も、全部まとめて受ける。


 ――班長なんだから。


 肩をすくめて、蒼真は職員室へ足を向けた。

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