第15話 後藤先生の話
初ダンジョン実習当日。朝のホームルーム。
教室に入った後藤は、いつもと変わらなかった。くたびれたスーツ、曲がったネクタイ、紙コップのコーヒー。教壇の前に立っても、威厳のある姿勢にはならない。猫背のまま出席簿を開き、名前を読み上げていく。
蒼真は窓際最後列の席から、後藤の背中を見ていた。心臓は朝からずっと速い。隣の列では悠斗が珍しく居眠りしていない。前の席の航は、長剣の柄に手を添えている。
出席確認が終わった。後藤が紙コップのコーヒーを一口飲み、出席簿を閉じた。
「――さて」
後藤の声が、教室の空気を変えた。
いつもの飄々とした口調だった。だが、その一語に含まれた重さを、蒼真は感じ取った。教室がしんと静まる。三十人の一年生が、全員後藤を見ている。
「今日は初めてのダンジョン実習だ。お前たちにとっちゃ初めての実戦で、初めての魔物との遭遇になる。俺が担当する以上、全員無事に帰すつもりでいる。――が、保証はしない」
教室の空気が、一段階重くなった。
「ダンジョンの中は、訓練場じゃない。魔物は的じゃないし、床は特殊素材じゃない。暗いし、臭い。空気が重い。足元が悪い。そういう場所に、これからお前たちは入る」
後藤は紙コップをもう一口飲んだ。ネクタイの曲がりを直す気配もない。
「だから――」
一呼吸。
「死ぬな」
短い言葉だった。教室の隅まで届く、しかし声を張ったわけではない静かな声だった。
蒼真の背筋が伸びた。
「死ぬな。怪我をするな。仲間を死なせるな。怪我をさせるな。この順番で頭に入れておけ。まず自分が生きろ。自分が生きてなきゃ、仲間も助けられない」
後藤の目が、教室全体をゆっくりと舐めた。一人ひとりの顔を確認するように。その目は――蒼真が何度か目にした、あの一瞬の鋭さを湛えていた。昼行灯の皮を被った切れ者の目だ。
「具体的な注意事項を言う。四つだ」
後藤は指を一本立てた。
「一つ。班行動を絶対に崩すな。トイレだろうが何だろうが、一人で動くな。ダンジョンの中で一人になった人間は、だいたい死ぬ」
二本目の指。
「二つ。班長の指示に従え。指示が間違ってると思ったら、その場で声を出して意見しろ。黙って従って死ぬのも、黙って離脱して死ぬのも、どっちも馬鹿のやることだ」
三本目。
「三つ。無理をするな。退くのは恥じゃない。退けなくなってから後悔するのが恥だ。帰る道を常に確認しておけ」
四本目。
「四つ」
後藤は一瞬だけ間を置いた。視線が、教室を横切り、蒼真の目と合った。
「独断専行は絶対にするな」
蒼真は、その目を受け止めた。後藤は蒼真だけを見ているわけではなかった。教室全体に向けた言葉だった。だが、あの目の鋭さは、確かに蒼真の胸に刺さった。
「いいか。仲間を助けたいと思う気持ちは分かる。目の前で誰かがやられそうになったら、身体が勝手に動く。そういう奴はこのクラスにいるだろう。だが、それで死んだら元も子もない」
後藤は紙コップを教壇に置いた。
「一人の判断で全体を崩すな。まず声を出せ。仲間に伝えろ。一緒に動け。それが班だ。それがパーティだ」
教室は静まり返っていた。蒼真は拳を膝の上で握っていた。
――独断専行は絶対にするな。
その言葉を、頭に刻んだ。
後藤はふっと息を抜いた。肩の力が抜け、いつもの昼行灯の姿勢に戻る。
「……まあ、そう固くなるなよ。第1層のゴブリンは、お前たちなら問題なく倒せる。授業で習ったことを、ちゃんとやれば帰ってこられる」
紙コップを手に取り、コーヒーを飲み干す。
「あと」
後藤は教壇の下から、紙の束を取り出した。
「各班のエリアマップだ。第1層の簡易地図。班ごとに探索範囲が違う。班長、取りに来い」
蒼真は席を立った。教壇に歩いていくと、後藤が第5班のマップを差し出した。
受け取る瞬間、後藤が小さな声で言った。
「お前の班、構成は悪くない。斥候がいて弓がいるってのは、浅層じゃ贅沢だ」
蒼真は顔を上げた。後藤はもう視線をマップの束に戻していた。
「鬼塚を上手く使え。それと」
「それと?」
「中村を見ておけ。あの子は、まだ覚悟が固まってない」
蒼真の背中に、冷たいものが走った。後藤も気づいていたのか。
「……はい」
「まあ、心配しすぎるな。俺も後方にいる。何かあったら連絡しろ」
後藤はそう言って、次の班長を呼んだ。
◇
蒼真は席に戻り、マップを広げた。悠斗と航が前後から覗き込む。
「うちの探索範囲、結構奥だな」
悠斗が指で地図を辿った。第1層の東側区画。入口から歩いて十五分ほど。
「ゴブリンの生息密度が高いエリアだ」
航が地図の凡例を読む。蒼真はマップの端に記された「プレート設置地点」を確認した。探索実習の到達目標。指定地点に学院の印章を回収して帰還すること。それが今回の実習課題だ。
「紅葉に先行してもらって索敵。俺が後方から射抜く。悠斗と航は前衛で抑え。里奈と真帆は後衛」
「昨日の打ち合わせ通りだな」
航が頷いた。蒼真はマップを丁寧に折り畳み、腰のポーチに収めた。
「後藤先生、なんか言ってたか?」
悠斗が聞いてきた。蒼真は少し考えて、正直に答えた。
「里奈を見ておけ、って」
悠斗の表情が引き締まった。航は何も言わず、前を向いた。
三人の間に、言葉にならない共通認識が流れた。
――六人で帰る。
◇
ホームルームが終わり、各班がダンジョン区域へ移動を開始した。
蒼真は第5班のメンバーを集めた。悠斗、航、紅葉、里奈、真帆。六人が廊下に並ぶ。
「マップは確認した。探索範囲は第1層の東側区画。到達目標はしるしの設置。紅葉が先行して索敵、俺が後方支援。前衛は悠斗と航。里奈と真帆は後衛。質問あるか」
紅葉が一つ早く気づけば、悠斗と航が構えられる。里奈と真帆が下がれる。蒼真は先に矢を置ける。
紅葉が小さく首を振った。悠斗が「ないっす班長」と軽口を叩く。航は黙って頷いた。
真帆が「はい!」と元気よく手を挙げた。
「《光球》、いつ出せばいいですか?」
「入口を通ったらすぐ頼む。暗くなる前に出しておいたほうがいい」
「了解です!」
里奈は、何も言わなかった。目を伏せ、指先を軽く握っている。蒼真はそれを視界の端で捉えたが、声はかけなかった。
代わりに、全員に向けて言った。
「後藤先生が言った通りだ。死ぬな。怪我するな。仲間を死なせるな。――六人で行って、六人で帰る。それだけだ」
蒼真はそう言って、和弓を背負い直した。
「行こう」
六人が、ダンジョン区域へ向けて歩き出した。




