第14話 前日の準備
五月中旬。初ダンジョン実習の前日。
放課後の屋内訓練場は、実習を控えた一年生たちの熱気で普段より騒がしかった。各班に分かれて最終確認を行う班もあれば、個人で素振りや魔法の練習を繰り返す者もいる。
蒼真は訓練場の隅に設けられた弓術用のレーンで、黙々と矢を引いていた。
自前の和弓。後藤に使用許可を得てからは、ずっとこの弓を使っている。手に馴染む引き味。訓練用の弓では得られない、弦と体が一体になる感覚。
矢を番え、引き絞り、放つ。的の中心に吸い込まれるように刺さる。
矢を番え、引き絞り、放つ。また中心。
矢を番えたところで。
「蒼真」
悠斗の声で引き手を止めた。振り返ると、悠斗と航が並んで立っていた。悠斗は槍を肩に担ぎ、航は長剣を腰に佩いている。二人とも汗をかいていた。
「そろそろ切り上げねえか。打ち合わせしよう」
「ああ。もう少しだけ」
蒼真は最後の一本を引き絞り、放った。的の中心に三本目が重なるように刺さる。
「……毎回思うけど、よくあんなとこ当たるな」
悠斗が感心したように言った。航は無言だったが、僅かに目を見開いている。
「数千本の積み重ねだよ。爺ちゃんの道場で」
蒼真は弓の弦を緩め、矢を回収しながら答えた。
◇
訓練場の隅のベンチに三人で腰を下ろした。蒼真がメンテナンスノートを開く。
「明日の実習、改めて確認しておこう」
「班長っぽいな」
「紅葉に推されたからな。やるからにはちゃんとやる」
蒼真はノートのページを指で叩いた。第5班の構成が書き込まれている。
「俺が遠距離火力と班の指揮。悠斗が前衛のメインアタッカー。航も前衛で、悠斗との連携が軸。紅葉が斥候で先行偵察と索敵。里奈が後衛の魔法火力。真帆が後衛のヒーラー兼光源」
「ヒーラーと光源を兼ねられるのはでかいな」
航が言った。蒼真は頷く。
「ダンジョンの中は薄暗いそうだ。真帆の《光球》がなきゃ、まともに動けない場面も出てくるかもしれない。あと」
蒼真はペンでノートの余白に矢印を描いた。
「俺の弓は射線の確保が命だ。前衛の悠斗と航が魔物を抑えてる間に、横か斜め後ろから射抜く。紅葉の《視力強化》で索敵してもらって、先に敵の位置が分かれば、射線を事前に作れる」
「紅葉と蒼真の連携か」
「ああ。斥候と弓術士は、たぶん相性がいい。斥候は火力だけ見れば前衛職に劣る。でも、気配や魔力の揺れを拾う感覚に補正がある。魔物を見つける、奇襲を避ける、戦う場所を選ぶ。そこを任せられるなら、俺の弓はかなり動きやすくなる」
蒼真の脳裏に、班分けのときの紅葉の言葉が浮かんだ。目が動いてたから分かる。あの冷静な観察力は、ダンジョンの中でこそ活きるはずだ。
「問題は」
蒼真はペンを止めた。
「里奈だ」
悠斗が少し顔を曇らせた。航は何も言わず、蒼真の次の言葉を待っている。
「《氷矢》は火力がある。後衛としてのポテンシャルは高い。でも」
「不安そうだったよな、自己紹介のとき」
悠斗が低い声で言った。
「指先をずっといじってた。目も泳いでた」
蒼真は頷いた。悠斗もちゃんと見ていた。ふざけているように見えて、こういうところをしっかり拾ってくる。
「実戦経験はゼロだ。全員そうだけど、里奈は特にプレッシャーを感じてるように見える。追い詰めるつもりはないけど、頭に入れておいたほうがいい」
「俺と蒼真で前と後ろを固めるしかないな」
航がそう言って、長剣の柄に手を置いた。
「里奈が後衛で撃てる状況を作る。それが前衛の仕事だ」
「そうだな。前衛が崩れなきゃ、後衛は撃てる。守るってのはそういうことだ」
蒼真はノートを閉じた。
「あと装備の最終確認。俺は和弓、矢筒に矢、スローイングナイフ五本。煙幕粉末も持っていく」
「俺は槍一本。シンプル」
悠斗が肩をすくめた。
「長剣。以上」
航も短い。蒼真は二人を見て、少し笑った。
「潔いな」
「弓術士は荷物多くて大変だな」
「うるさいわ」
三人の笑い声が、訓練場に響いた。周囲の一年生が何事かとこちらを見る。気にしない。三人揃うとうるさいのは、もはやデフォルトだ。
◇
マンションに戻ると、蒼真は装備を一つずつ確認した。
和弓の弦。張りは申し分ない。握りの感触を確かめる。何千回と握った、この手に一番馴染む道具。
矢筒。大きめの矢筒に矢を十本。魔力を纏わせれば十分な攻撃力となるだろう。
スローイングナイフ五本。右太腿のナイフケースに収め、抜き打ちの動作を数回繰り返す。柄の溝に嵌めた爪の触媒を指で確認。糸の巻きは緩んでいない。
煙幕粉末。腰のポーチに一回分。須藤戦では使い切ったから、新しく購入したものだ。
蒼真は装備をベッドの上に並べ、一歩下がって眺めた。
――これが俺の手札だ。
弓と、十本の矢と、五本のナイフと、煙幕。それから《小転移》。
第5班の誰にも、まだ《小転移》のことは話していない。悠斗と航にも。切り札は、切り札であり続ける限り最大の威力を持つ。今はまだ、その時じゃない。
でも、いつかは見せることになる。
仲間に隠し事をしている後ろめたさが、胸の隅にある。それでも、今は伏せておくのが正しい判断だと蒼真は考えていた。
実家に電話をかけた。
三コールで母が出た。
「蒼真? どうしたの、珍しい」
「明日、初めてダンジョンに入る」
母の息を呑む音が、受話器越しに聞こえた。
「――気をつけてね」
「大丈夫だよ。学院の管理下だし、先生もついてくる」
「それでも、心配するのが母親ってもんでしょ」
その声が少しだけ震えていることに、蒼真は気づいていた。
「……母さん」
「なに」
「帰ってきたら電話する。だから、心配しないで」
母が少し笑った。泣き笑いに近い声だった。
「お父さんにも伝えるわね。爺ちゃんにも」
「ああ。頼む」
「蒼真」
「うん」
「――頑張ってね」
電話を切った後、蒼真は携帯を握ったまま少しだけ動けなかった。
母の声が、胸に残っている。叔父の家で見た結衣の顔が浮かぶ。悠斗の「母親が震えてた」という言葉が蘇る。
――守る側に立つってのは、こういうことだ。
誰かが心配して、誰かが待っていて、それでも行く。
蒼真はベッドの上の装備に手を伸ばし、和弓を握った。弦を軽く弾く。澄んだ音が部屋に響いた。
明日だ。
初めてのダンジョン。初めての実戦。ゴブリン。緑色の肌、角なし、体高一メートル。第1層の基本的な雑魚魔物。授業で習った情報を頭の中で反芻する。
だが蒼真の胸にあるのは恐怖ではなかった。
心臓が速い。手のひらは汗ばんでいる。それでも蒼真は、矢筒の紐をもう一度締め直した。怖いより先に、早く潜りたかった。
武者震いだ、と自分に言い聞かせる必要すらなかった。脚が勝手に前へ出ていた。
ずっと待っていた。弓道場で矢を放ち続けた日々、ゴミ箱に頭から突っ込んだ間抜けな事故、須藤との模擬戦。全部が、明日のためにあった。
蒼真は和弓を装備一式の隣に置き、布団に潜り込んだ。
目を閉じる。まぶたの裏に蒼い軌跡が尾を引いた。
――行ってくる。
誰にともなく呟いて、蒼真は眠りに落ちた。




