第139話 火力の隣
六月上旬の立川ダンジョン第5層は、三度目でも風の強さを変えなかった。
階段を下りた瞬間、草の匂いと一緒に、右から左へ抜ける横風が頬を叩く。高い草は前回より湿って見え、葉先が光を弾きながら波のように揺れていた。
蒼真は重藤弓の握りを確かめる。
前回、メンテナンスノートに書いた一行は、まだ指先に残っている。
止める盾。
置く矢。
倒すために必要な、倒さない一射。
「今日は前回よりさらに奥だ。ただし、戻る基準は前回より厳しくする」
真田が盾を前に置いたまま言った。
「進むのに厳しくするのか?」
「奥へ行くほど、戻る判断は早くする。久我、お前は楽しくなると前に出るから、今日は一回までだ」
「俺、そんなに分かりやすいか?」
「分かりやすいです」
綾瀬が即答し、久我が傷ついた顔をした。
ほのかは笑いを堪えるように口元へ手を当てる。
「久我くん、悪い意味だけじゃないと思うよ。たぶん」
「たぶんが一番刺さるんだけど」
「褒められたかったら、今日は下がる一歩を残しておきなさい」
凛が杖の先で草の揺れを示す。
その声には、いつもの硬さと、戦闘前の鋭さが混ざっていた。
「風は前回と同じ右から左。草は少し重いわね。火を入れたら煙が残るかもしれない」
「なら、広げるな」
「言われなくても分かってる。けど、奥の数が増えたら、小さく焼くだけじゃ足りない」
凛の視線は草原の奥へ向いていた。
蒼真は、その横顔を見てから矢筒へ指を触れた。
凛の火は強い。
第4層でも、第5層でも、直撃した敵を焼き落とし、群れの流れを押し返せるだけの火力がある。けれど、火が大きくなるほど魔力の消耗も重くなる。煙が出れば、綾瀬の音も蒼真の射線も乱れる。
火力があるから全部焼けばいい、ではない。
その前に、自分の矢で敵の足を崩せるなら。
「神代」
凛がこちらを見た。
「なに」
「私が焼く前に、撃てるなら撃って。無理なら無理って言いなさい。中途半端に迷われるのが一番困る」
「分かった。火を使わせない矢も考える」
「……そこまでは言ってない」
「でも、そういう話だろ」
「そういう話だけど、言い方が生意気」
久我が吹き出しそうになり、真田が盾の縁で軽く草を押した。
「始めるぞ。綾瀬」
「右前方、四。左奥に三。まだこちらへまっすぐではありません。風下に回ろうとしています」
「群れが分かれてるな。天城、右を狭められるか」
「小さくなら」
「神代、左奥を見ろ。足を止められるなら止める。倒し切る必要はない」
「了解」
草が揺れた。
最初に飛び出してきたのは、右前方の狼型二体だった。低い姿勢で草の中を泳ぐように走り、凛の火を嫌うように外へ散る。
「《火球》」
凛の火球は、範囲こそ小さかった。
けれど、威力まで小さいわけではない。先頭の狼型の肩口で赤い火が爆ぜ、低い体が横へ吹き飛ぶ。焼けた毛皮の匂いが一瞬だけ風に混じり、その一体は粒子へ変わった。
残った狼型は火を嫌って内側へ寄る。
真田の盾がそこへ入る。正面から受けるのではなく、進路を削るように角度を作る。久我が右側の一体へ大剣を合わせた。
蒼真は左奥を見る。
綾瀬が告げた三体はまだ見えない。だが、草の揺れが二つ、遅れて三つ目。風に流される波とは違う重さがある。
このまま待てば、凛は右を処理しながら左にも火を置くことになる。
それは強い。
けれど、重い。
「左、足止め」
蒼真は短く言って、矢を番えた。
重藤弓の弦は相変わらず重い。肩に沈み、背中に鈍い負荷が走る。
狙うのは姿を見せた瞬間ではない。
草が割れる一拍前。火を嫌って右から内へ寄った狼型の動きに釣られ、左奥のコボルトが加速する場所。
そこに矢を置く。
弦音が鳴った。
蒼い軌跡が草の波を低く裂き、まだ完全には姿を出していないコボルトの足元へ走る。矢は膝の下を貫き、コボルトの体が前のめりに倒れた。
後ろの二体がそれを避けようとして左右へ割れる。
凛の杖が動く前に、蒼真は声を出した。
「左、二つに割れた。火は奥じゃなくて手前でいい」
「分かってる」
凛の《火球》が、倒れたコボルトの手前で小さく弾ける。
炎は壁ではない。だが、敵の踏み込みを止める線ができた。後続の二体は一瞬だけ足を鈍らせる。
その一瞬で、真田が右の狼型を盾で流し、久我が大剣を振り抜いた。
「おい神代、今の助かる!」
「久我、前見ろ」
「見てるって!」
久我の声は軽いが、剣は軽くない。
草ごと払うような一撃で、狼型の肩が割れ、粒子が風に乗って流れる。
蒼真は二射目を取ろうとして、右肩が重く沈むのを感じた。
まだ引ける。
だが、今引けば次に遅れる。
「二射目、遅い」
「なら私が焼く」
凛の声が返った。
その声は焦っていない。けれど、杖の先に集まる魔力の量は、さっきより大きい。
炎が一段膨らむ。
草の先がざわつき、空気が揺れる。
「天城、奥を全部焼くと煙が出る」
「分かってる。でも、抜けられるよりはまし」
「なら、抜ける前を止める」
蒼真は矢を取らず、視線だけで左の二体を追った。
自分の二射目は間に合わない。
なら、声を置く。
「綾瀬、左奥の後続、草の重い方はどっちだ」
「……左です。右は軽い。囮です」
「天城、左だけ。右は久我が戻れる」
「久我、戻れる?」
「戻れる! たぶん!」
「たぶんで言うな!」
凛が言い返しながら、杖を左へ振った。
今度の《火球》は大きい。だが、範囲は絞られている。左の本命だけを押し返す火だ。
コボルトが火を避けて右へ跳ぶ。
そこに久我が戻った。
「任せろって言っただろ!」
「たぶんって言ったわよ」
「そこは忘れてくれ!」
大剣が落ちる。
コボルトが粒子化し、残った一体は真田の盾に進路を塞がれた。ほのかの《光盾》が真田の脇を補い、短剣の一撃を白い光で弾く。
「神代くん、肩、次で最後のつもりで」
「分かった」
ほのかの声は柔らかい。
けれど、判断は鋭い。
蒼真はその言葉に従い、最後の一射として矢を番えた。
凛はもう一度火を作ろうとしている。今度は、残ったコボルトと奥から増える足音の両方をまとめて押し返す火だ。
魔力が杖の先で膨らむ。
凛なら焼ける。
だが、それは凛が一人で押し返す形になる。
火力の後ろにいる弓ではない。
火力の隣に置く矢。
「天城」
「なに」
「奥を焼くな。俺が手前を崩す。火は、その横に置いて」
凛が一瞬だけ視線を鋭くした。
「外したら?」
「その時は焼け」
「分かった。外したら文句言う」
「当てたら?」
「次もそれで、って言う」
短いやり取りだった。
それだけで十分だった。
蒼真は息を吐き、重藤弓を引く。
狙いはコボルトの胸ではない。奥から来る足音の先頭でもない。凛の火が押すであろう線の、半歩手前。
そこを崩せば、火は広がらなくていい。
敵は勝手に火の横へ転ぶ。
弦音。
蒼い軌跡が風を裂いた。
矢は残ったコボルトの足首を貫き、体を横へ倒した。その倒れた体に、奥から出ようとした狼型が足を取られる。
凛の火が、その横を通った。
大きな爆発ではない。
けれど、倒れた二体の逃げ道だけを焼く、鋭い火だった。
「久我、右」
「おう!」
「真田くん、奥止まりました」
「前へ詰める。神代は撃つな。肩を残せ」
「了解」
真田の盾が前へ出る。
久我が右を割り、凛の火が左を狭める。ほのかの《光盾》が真田の一歩前に重なり、綾瀬が「奥、後退」と短く告げた。
戦闘は、すぐに終わった。
派手さはなかった。
だが、凛の最後の火は、最初に作ろうとしていたものより明らかに小さく、それでいて倒すべき敵だけは確実に焼いていた。
風が戻る。
焦げた草の匂いが残り、粒子の光が右から左へ流れていく。
凛は杖を下ろし、息を吐いた。
「今の、魔力は?」
ほのかが尋ねる。
「大丈夫。思ったより減ってない」
「神代くんのおかげ?」
「ほのか」
「ごめんね。聞き方が悪かったかな」
「悪いっていうか、分かってて聞いてるでしょ」
凛が視線を逸らした。
蒼真は弦から指を離し、肩を回さずに息だけで重さを逃がす。
「俺の矢だけじゃ止まらない。天城の火だけだと重い。なら、間に置いた方がいい」
「間じゃないわ」
「違うのか?」
「隣。私の火の前でも後ろでもなく、隣に置きなさい」
蒼真は一瞬、言葉を失った。
凛の声は素っ気ない。けれど、その言葉は、評価よりも深く入ってきた。
「分かった。火力の隣に置く」
「いちいち復唱しなくていい」
「ノートに書くから」
「書かなくていい」
「いや、書く」
久我が大剣を肩に担ぎながら笑った。
「いいじゃん。今日のタイトルっぽいし」
「何のタイトルよ」
「神代のノートの」
「ノートにタイトルを付けるな」
凛の声に、ほのかが小さく笑う。
真田はそのやり取りを聞きながらも、草原の奥へ視線を向けていた。
「律、奥は」
「……足音が引いています。ただ、完全に散ったわけではありません。遠くで、また重なっています」
「連結するか」
「可能性はあります。今は追わない方がいいと思います」
「同感だ。今日はここで戻る」
久我が不満そうに口を尖らせた。
「今、噛み合ってたのにな」
「噛み合ったから戻る。崩れるまで続ける必要はない」
「それ、正論すぎて言い返せないやつだ」
真田が盾を下ろし、全員が帰還の隊列へ戻る。
蒼真は歩き出す前に、もう一度だけ草原の奥を見た。
遠くの草が、不自然に一度だけ揺れて見えた。
風か、魔物か。
今の蒼真には、まだ見分けきれない。
けれど、今日分かったことはある。
凛の火は、強い。
敵を焼き落とす主火力だからこそ、その後ろで待つだけでは足りない。
前に出すぎれば火の邪魔になる。遅れれば凛の消耗が増える。
隣に置く。
火が押す線の横へ、敵の足を崩す矢を置く。
帰り道、右から左へ吹く風の中で、蒼真は次にノートへ書く一行を決めた。
火力の隣。
火を大きくするためではなく、火を大きくしなくて済むように。
重藤弓はまだ重い。
だが、その重さを置く場所は、また一つ増えていた。




