第138話 止める盾、置く矢
六月上旬の立川ダンジョン第5層は、二度目でもやはり風が強かった。
階段を下りた瞬間、草の匂いが肺に入る。高い草が腰の辺りで揺れ、右から左へ流れる風が草原全体を波立たせていた。晴れている。明るい。見晴らしも悪くない。
それなのに、見えているものを信じきれない。
蒼真は重藤弓の握りを左手で確かめた。前回のメンテナンスノートには、何度も同じ言葉を書いた。
急所だけを狙わない。
撃たない一本を伝える。
必要な場所へ矢を置く。
「今日は前回より十歩奥へ行く」
真田が盾を前に出したまま言った。
「十歩って、だいぶ慎重だな」
「久我の一歩なら五歩分あるからな」
「俺、そんなに足長く見えるか?」
「褒めてない」
久我が首を傾げ、ほのかが小さく笑う。真田の声に硬さはなかった。
凛は杖を持つ手を軽く上げ、風に流される髪を押さえる。
「前回より奥へ行くなら、火は選ぶわよ。焼き切る火と、絞る火」
「草ごと燃やすのは駄目だ。綾瀬の音も神代の射線も潰れる」
「分かってる。けど、焼ける敵まで残すつもりはないわ」
綾瀬は少し前に出て、膝を緩めた。
「右前方、草の下に二。左奥に一。距離は……前回より近いです。風の切れ間で、足音が大きくなりました」
「種類は分かるか」
「右は狼型。左は、たぶんコボルトです。金属音が混じっています」
「了解。全員、前回と同じ。だが、今日は止めて終わりじゃない」
真田が半歩だけ右へ動いた。
盾を正面に構えるのではなく、斜めに置く。敵を受けるための壁ではなく、流れを曲げる板のようだった。
「神代」
「見えてる」
「俺が向きを作る。撃つのは、俺が止めた位置じゃない」
「……止まる前か」
「そうだ」
短い返事だった。
だが、その一言で蒼真の内側に力が入る。
これまで蒼真は、前衛が敵を止めた瞬間を狙ってきた。
けれど重藤弓は遅い。止まってから引けば、間に合わないことがある。
「未来位置へ置く」
蒼真が呟くと、凛が横目で見る。
「急に詩みたいなこと言い出したわね」
「詩じゃない」
「なら、当てなさい」
「当てる」
草が割れた。
右前方から狼型が二体、低い姿勢で飛び出してくる。前回と同じ淡い灰緑の体毛。草の色に紛れ、横風に乗るように左右へ散る。
真田は真正面から受けなかった。
一体目の進路に盾を置き、ぶつかる直前に半歩左へずれる。狼型の爪が盾の表面を滑り、体の向きが外へ流れた。
「今じゃない」
蒼真は矢を番えたまま、引かない。
止まった瞬間では遅い。真田が盾の角度を変える。狼型の肩が外へ開き、首ではなく前脚の付け根がこちらを向く。
その一拍先。
そこへ矢を置く。
重藤弓の弦が重く沈む。
風は右から左。前回よりやや弱い。
狙いは、敵が今いる場所ではない。盾に流されて、次に踏み込む場所。
弦音が鳴った。
蒼い軌跡が草の波を斜めに裂く。
矢は狼型の前脚の付け根へ吸い込まれた。急所ではない。けれど、体重を乗せる直前の足を射抜かれた魔物は、踏み込みを失って横へ倒れる。
「久我」
「待ってた!」
久我が大剣を振り下ろす。
粒子が風に流れる前に、真田はもう二体目へ盾を向けていた。
「神代、次は急所じゃなくていい。右へ流す」
「了解」
今度は早く引こうとしない。
早く引こうとすると、肩に力が入る。肩に力が入ると、弦がさらに重くなる。
蒼真は息を吐き、真田の盾を見る。
大盾の縁が、狼型の顎を下から押し上げるように動いた。受け止めるのではなく、向きを作る。狼型の首が上がり、胸が開く。
そこが未来の場所だ。
「《火球》」
凛の火球が狼型の背後ではなく、横腹へ突き刺さるように弾けた。
範囲は小さい。だが、威力は絞っていない。毛皮を焼かれた狼型の身体が大きく傾く。逃げ道を一つ消すだけでなく、敵そのものを崩す火だった。
狼型は痛みを嫌って前へ出る。真田の盾が、その前進を蒼真の射線へ押し込む。
弦音。
今度の矢は胸の中心を外れた。だが、肋の間を深く裂き、狼型の動きを止める。真田がメイスを短く叩き込み、久我が横から割る。
粒子が舞った。
「今の、少し左」
「風?」
「半分。残り半分は、俺の置き場所が甘い」
蒼真が答えると、凛は短く頷いた。
「なら、次で直せばいい」
「天城にしては優しい」
「反省できる相手には言うだけ無駄じゃないもの」
「それ、優しいのか?」
久我が肩を震わせた。
けれど、綾瀬の耳はすぐに別の音を拾っていた。
「左奥、来ます。コボルト一……いえ、後ろに二。金属音が重なっています。前の一体が囮です」
「囮か。久我、出すぎるな」
「分かってる」
「天城、左の奥はまだ焼くな。神代、前の一体は撃つな」
「撃たない」
答えは自然に出た。
草の中からコボルトが一体だけ飛び出してくる。錆びた短剣を持ち、低い姿勢でこちらへ走る。単体なら射抜ける距離だ。
けれど、綾瀬の報告がある。
後ろに二。
前の一体は、撃たせるための囮。
前のコボルトが真田の盾へぶつかる。
真田は押し返さず、盾を沈めた。コボルトの体が盾の上に乗りかけ、視界が一瞬だけ遮られる。その陰から、後続の二体が左右に分かれて飛び出した。
「右、久我。左、天城」
「おう!」
「《火球》」
久我が右を割り、凛の火球が左の足元を焦がす。
左のコボルトが熱を嫌って跳ねた。その先に、真田の盾の縁が待っている。盾で叩くのではなく、進路を切る。コボルトの体が半回転し、短剣を持つ腕が外へ開いた。
「神代」
真田の声は、指示ではなく合図だった。
蒼真はすでに引いていた。
撃つ場所は、コボルトが跳ねた先ではない。盾に進路を切られ、着地を取りにいく場所。
そこへ矢を置く。
蒼い軌跡が低く走り、コボルトの足首を貫いた。
着地に失敗した魔物が草の中へ転がる。久我が戻り、大剣の腹で短剣を弾き、刃を落とす。
「よし。今のは合った」
「急所じゃないけどな」
「急所じゃないから、合ったんだ」
真田の言葉に、蒼真は一瞬だけ息を止めた。
急所ではないから、合った。
これまでなら引っかかったかもしれない。けれど、今は違う。足を止める矢がある。撃たないことで、班の流れを崩さない一本もある。
「神代くん、肩、大丈夫?」
「まだいける」
「まだいける、じゃなくて、今の感覚なら次も同じように引ける?」
「……一射なら」
「じゃあ、一射分として考えた方がいいと思う」
ほのかの声は柔らかい。
けれど、判断は甘くない。
蒼真は頷き、矢筒の残りを確認する。残矢は十分ある。問題は数ではなく、一射の重さだ。
「真田、次は一射分で組んでくれ」
「分かった。律、奥は」
「足音が増えています。たぶん五。群れがこちらに気づきました」
「撤退は」
「今なら安全に戻れます。進むなら一戦です」
真田は一瞬だけ草原の奥を見た。
前回なら、ここで戻っていたかもしれない。いや、戻る判断が正しかった。
だが今日は、前回より十歩奥へ行く日だ。
真田の盾が、静かに上がる。
「一戦だけ受ける。勝ってから戻る」
「やっと派手になるな」
「久我、派手にするな。丁寧に割れ」
久我が笑い、凛は杖の先を草原の右側へ向けた。
「私の火で右を狭める。神代は真田の盾で左に流れたやつを見る。ほのか、真田の前を厚めに」
「うん。真田くん、右腕に負担が来ると思うから、早めに《光盾》入れるね」
「助かる」
「綾瀬くんは、音が重なったら無理に全部言わなくて大丈夫。確定だけで」
「了解です」
真田はそれを受けて、最後に全体をまとめた。
「神代、一射で流れを止めろ。倒し切らなくていい」
「了解」
草の波が乱れた。
狼型が二体、コボルトが三体。前回と似た数だ。だが、今は見え方が違う。
真田の盾が正面の狼型を受ける。ほのかの《光盾》が盾の右脇に重なり、爪の軌道を浮かせる。凛の火球が右側の草を焦がし、久我がそこへ飛び込もうとするコボルトを斬り払う。
綾瀬の声が短く飛んだ。
「左、低い。二歩後に出ます」
二歩後。
蒼真はその言葉を頭の中で距離に変える。
左の草が揺れる。まだ姿は見えない。だが、真田はすでに盾を半歩左へ寄せている。狼型の体を受けながら角度を変える。敵の群れの流れが、左へ押される。
左奥から飛び出すコボルトの進路と、真田が流した狼型の体が一瞬重なる。
そこを止めれば、二体の流れが詰まる。
重藤弓を引く。
肩は重い。
けれど、内側は静かだった。
急所ではない。倒す矢でもない。
流れを止める矢。
弦音が鳴った。
蒼い軌跡が草原の風を裂き、狼型とコボルトの間の地面すれすれを走る。矢は狼型の後脚を貫き、その足が崩れた瞬間、飛び出したコボルトが狼型の体にぶつかった。
二体が絡む。
群れの左側が詰まる。
「そこ、燃やす」
凛の火球が詰まった手前を焼き、逃げ道を消す。さらに火の芯が絡んだコボルトの肩を焼き、体勢を戻す力を奪った。
久我が右を割り、真田が正面を押し返す。ほのかの《光盾》が爪を弾き、綾瀬が「奥、止まりました」と短く告げる。
蒼真は二射目を取らなかった。
取れないのではない。
今は取らない方が、班が速い。
「待つ。今は撃たない」
「久我、左を処理」
「任せろ!」
久我の大剣が落ち、詰まっていたコボルトが粒子化する。狼型は足を引きずりながら体勢を立て直そうとしたが、真田のメイスが頭部を叩き、凛の小さな火球が背後を塞いだ。
最後は久我の一撃で終わった。
戦闘後、風だけが残った。
粒子の光が右から左へ流れていく。蒼真は弦から指を離し、肩に残る重さをゆっくり息で逃がした。
「今の一射」
真田が盾を下ろさずに言う。
「必要だった」
「倒してない」
「倒すために必要だった。違うか」
「……違わない」
蒼真は、口元が緩むのを抑えられなかった。
ほのかがその顔を見て、安心したように笑う。
「神代くん、今の顔、ちょっと嬉しそう」
「そりゃ嬉しいだろ。必要だったって言われたんだから」
「自分で言うのね」
「天城も、今のは悪くないって言うかと思って」
「言おうと思ってたのに、先に言われると腹立つわね」
「じゃあ、違う感想で」
「……次もそれで」
凛はそれだけ言って、杖を下ろした。
短い言葉だった。
けれど、蒼真には十分だった。
「戻るぞ」
真田が言った。
「今日はここまでだ。前回より十歩奥へ進んだ」
「十歩どころじゃなく進んだ気がするけどな」
「久我の歩幅で数えるな」
「まだ言うか、それ」
久我が笑い、綾瀬が小さく息を吐く。ほのかは真田の右腕に視線を向け、必要な回復ではなく、帰還後のケアとして覚えておくように頷いていた。
蒼真は最後に草原の奥を見る。
まだ先は長い。分からないことばかりだ。
だが、一つだけ分かった。
真田の盾は、ただ止める盾ではない。
敵の向きを作り、未来の射線を作る盾だ。
そこへ、自分の矢を置く。
帰り道、横風は相変わらず右から左へ吹いていた。
蒼真はその風の中で、次にノートへ書く一行を決めていた。
止める盾。
置く矢。
倒すために必要な、倒さない一射。
重藤弓はまだ重い。
けれど、その重さを預けられる場所が、班の中に増えていた。




