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蒼弓の軌跡 ~探索者学院唯一の弓術士は静かに頂を狙う~  作者: 七夜灯
第六章 Sクラスの弓術士編

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第137話 第5層の風

 六月上旬の立川ダンジョンは、入口に立った時点で空気が違っていた。

 朝の学院棟は湿気を含んだ初夏の匂いがしていたのに、入口を潜った瞬間、肌に触れる魔素は乾いている。第1層の岩場を最短で抜け、第2層、第3層も必要最低限の戦闘だけで通過する。その速さには、もう驚かない。

 けれど、第4層の草原を越え、さらに奥の階段を前にした時、蒼真の指先は弽の革を強く押さえていた。


「神代、肩は」


 真田が振り返らずに聞いた。


「問題ない。昨日は軽めにした」

「軽め、の基準が信用できないな」

「百射はしてない」

「それを軽めと言うのが、すでに信用できない」


 久我が大剣の柄を肩に担ぎ直し、低く笑う。


「弓術士の軽めって怖いな」

「久我の筋トレの軽めも、たぶん人のこと言えないと思う」

「俺はちゃんと軽いぞ。重りが少し軽いだけだ」

「それ、重いままじゃない?」


 ほのかが小さく首を傾げると、久我は一瞬だけ言葉に詰まった。


「……白瀬さんに言われると、反論しづらい」

「ほのか、たまに一番痛いところを突くわね」

「えっ、今の痛かった?」


 凛の呟きに、ほのかが目を丸くする。

 緊張はある。けれど、声は硬くなりすぎていない。蒼真はそのことに安心した。

 真田が全員の顔を一度ずつ確認し、盾を構え直す。


「第5層に入る。初見階層だ。今日は踏破距離より、情報を持ち帰ることを優先する」

「了解」


 六人の声が重なった。


 階段を下りた先は、やはり草原だった。

 ただし、第4層とは違う。

 草が高い。膝下ではなく、場所によっては腰の辺りまで伸びている。空は同じように高く、太陽らしき光も柔らかく降っている。けれど、風が強かった。草の穂が一斉に倒れ、波のように流れ、足元の土の匂いと青い草の匂いを混ぜて運んでくる。

 見晴らしはいい。なのに、見えているものが信用しきれない。

 草の揺れが、敵の動きにも、ただの風にも見えた。


「……音、多いです」


 綾瀬が片膝を軽く曲げ、耳に意識を寄せるように目を伏せた。


「風で草が擦れる音がかなり混じっています。足音は拾えますが、距離がぶれます」

「方向は」

「右前方に二、左奥に一。……たぶん、です」

「たぶん、か」

「はい。断定すると危ないです」


 真田は頷いた。


「断定できない報告でいい。曖昧なまま共有しろ。神代、撃てるか」

「見えたら。ただ、横風がある」


 蒼真は矢を一本抜き、風の向きを見る。

 草が右から左へ倒れている。頬に当たる風も同じ方向だ。けれど、一定ではない。強く吹いた次の瞬間には弱まり、弱まったと思えば、草の中を別の流れが走る。

 重藤弓を引くには、ただでさえ時間がかかる。そこへ風の読みが重なると、一射の準備がさらに重くなる。


「天城、火は」

「燃やし広げるのは駄目ね。草が邪魔になるし、煙が出たら綾瀬の音も神代の視界も潰す」

「焼き切れる場面は」

「焼くわよ。進路を狭めるだけなら、私じゃなくてもいいもの」

「了解。倒す火と、狭める火を分ける」


 凛は短く返し、右手に魔力を集めた。

 その瞬間、草の奥で何かが跳ねた。


「右、来ます。三……いえ、四!」

「構えろ」


 真田が前へ出る。

 高い草を割って飛び出してきたのは、狼型の魔物だった。第4層で見た個体よりひと回り大きく、体毛の色が草に紛れる淡い灰緑を帯びている。低い姿勢のまま左右へ散り、正面からではなく半円を描くように迫ってくる。


「《火球(ファイアボール)》」


 凛の火球が右側の一体へ直撃した。

 炎そのものは大きくない。けれど、芯は濃い。草原へ広がる前に魔物の肩口で爆ぜ、低く走っていた狼型の身体を横から焼き抜く。

 狼型が悲鳴を上げる間もなく粒子へ変わった。

 残った一体が、その火を嫌って半歩外へ逃げる。その逃げた先へ、久我が踏み込んだ。


「そこ、もらう」


 大剣が低く振られ、狼型の肩を砕く。

 蒼真は左側へ回る一体を狙った。矢を番え、重藤弓を引く。弦が重い。肩から背中へ、昨日の訓練で残った負荷が沈む。

 狙いは首。

 風は右から左。

 右へ寄せる。


 弦音が鳴った。

 蒼い軌跡が草原を裂く。

 矢は狼型の首筋を捉えた。だが、急所の中心ではない。首の皮膚と筋を深く裂き、魔物の体勢を崩すには十分だったが、粒子化には届かなかった。

 中心を抜けていれば、この一射で終わっていた。外したのは威力ではなく、風と重さに遅れた狙いだった。


「浅い」


 蒼真が呟くより早く、真田の盾がその魔物の突進を受けた。


「久我、左」

「分かってる!」


 久我が戻る。真田の盾で止まった狼型を、大剣が上から割る。

 粒子が舞い、消えていく。

 蒼真は二射目を取ろうとして、手が半拍遅れた。右側の一体が草の陰から飛び込んでくる。


「《光盾(ライトシールド)》」


 ほのかの白い盾が、真田の右脇に差し込まれた。

 爪が光の面に弾かれ、甲高い音を立てる。ほのかは杖を握る手に力を込めたまま、視線を真田ではなく、全員の足元へ巡らせていた。


「神代くん、肩に力入ってる。次、無理に急所じゃなくて足でも大丈夫」

「分かった」


 短く返したつもりだった。

 それでも、身体の内側が小さく揺れた。

 旧第5班が進んでいる。自分も進まなければならない。そう思った焦りが、矢を急所へ運ぼうとしていた。

 けれど、今必要なのは、格好のいい一撃ではない。


「律、次」

「左奥、草の下。低いです。足音が二つ重なっています」

「真田、左から二体」

「聞こえた。天城、左の退路を焼け。久我、俺の外に出すぎるな。神代、足止めでいい」


 真田の指示が落ちる。

 蒼真は頷き、二本目を番えた。

 左奥の草が揺れる。姿はまだ見えない。だが、綾瀬が言った位置に音がある。風が草を撫でる音の下で、土を蹴る重い音が二つ。

 急所ではなく、足。

 止める矢。


 重藤弓の弦を引く。

 風が横から押す。

 蒼真は狙いをずらし、草の揺れの先へ矢を置いた。


 蒼い軌跡が低く走る。

 草の中で、短い悲鳴が上がった。飛び出しかけた狼型の前脚に矢が突き刺さり、体が前のめりに崩れる。その後ろにいたもう一体が勢いを殺しきれず、横へ逸れた。


「そこ」


 凛の《火球(ファイアボール)》が逸れた先を塞ぐ。

 久我が一歩で詰め、真田が盾で角度を固定し、大剣が落ちる。

 今度は、班の動きが繋がった。

 蒼真の矢は仕留めていない。けれど、流れを止めた。


「今のは悪くない」


 凛が前を見たまま言う。


「急所じゃないけど」

「必要な場所に当たったなら、十分でしょ」

「……そうだな」


 その言葉は、思っていたより深く入ってきた。


 戦闘は終わらなかった。

 狼型を処理し終えるより早く、遠くで草がまた揺れる。今度はコボルトが三体、低い姿勢で草の中を走っていた。第4層より数が多い。個体ごとの強さが極端に上がったわけではない。だが、風と草と数が合わさるだけで、難度が一段上がる。

 綾瀬の報告は遅くなったわけではない。ただ、音の取捨選択に迷いが混じる。

 凛の火力は落ちていない。直撃すれば第5層の狼型でも一撃で焼き落とせる。ただ、火を広げすぎれば草と煙が邪魔になる。

 真田の盾は崩れない。ただ、受ける角度が増える。

 久我の一撃は重い。ただ、足場が隠れると踏み込みが乱れる。

 蒼真の重藤弓は強い。ただ、風を読んで引くには遅い。


「真田くん」


 ほのかが、戦闘の合間に声を上げた。

 いつもの柔らかい声だ。けれど、届く位置を選んだ声だった。


「このまま進むなら、次の戦闘後に一度戻る判断をした方がいいと思う。回復魔力はまだあるけど、真田くんの右腕と神代くんの肩、それから綾瀬くんの集中が削れてる」

「僕の集中も見えるんですか」


 綾瀬が驚いたように聞く。


「報告の前に、息を吸う回数が増えてるから」

「……白瀬さん、斥候より細かいですね」

「回復役だから、味方を見るのは仕事だよ」


 ほのかは困ったように笑った。

 真田はその言葉を流さなかった。盾を構えたまま、短く判断する。


「採用する。次の群れを処理したら、今日は第5層入口まで戻る」

「まだ進めるわよ」


 凛が言った。反発ではなく、確認に近い声だった。


「進める。だが、初見階層で進めるだけ進む理由はない」

「真田らしいわね」

「褒め言葉として受け取る」

「半分くらいは褒めてる」

「残り半分も、できれば褒めてくれ」


 久我が短く吹き出した。


「班長、今の返しちょっと面白かったぞ」

「戦闘中に採点するな」

「緊張ほぐれるだろ」

「お前はほぐれすぎるな」


 その軽口の間にも、真田の盾は下がらない。

 蒼真は矢を一本、指先で確かめる。

 焦りは消えていない。旧第5班の掲示を見た時から、身体の内側に残っている。早く進みたい。自分も結果を出したい。第5層で一射を決めたい。

 けれど、真田は止まれる。

 ほのかは止まる理由を見つけられる。

 それも、Sクラスの強さなのだと思った。


 次の群れは、コボルト三体と狼型二体だった。

 真田が正面を受け、凛が右側を焼きすぎない炎で絞る。綾瀬は「確定」と「不確定」を分けて報告し、久我は草の低い場所だけを選んで踏み込む。

 蒼真は一射目で狼型の足を止め、二射目は撃たなかった。

 撃てるように見えた。

 だが、横風が強く、急所へ届く確信がなかった。外せば、次に構えるまでの隙が大きい。


「撃たない」


 声に出す。

 真田が即座に頷く。


「久我、前」

「おう!」


 撃たない一本が、班の動きを遅らせない。

 その感覚は、新しかった。


 最後の一体が粒子化した時、草原を渡る風が六人の間を抜けた。

 誰も膝をついていない。大きな負傷もない。けれど、全員の呼吸は第4層より確実に深かった。


「戻る」


 真田が言った。


「異論は」

「ない」


 蒼真はすぐに答えた。

 凛がちらりとこちらを見る。


「珍しく早いわね」

「今日は、撃たない判断も課題だから」

「そう。なら、今のは悪くない」

「二回目だな、それ」

「文句ある?」

「ない」


 ほのかが小さく笑い、綾瀬が肩の力を抜く。久我は大剣を担ぎ直しながら、遠くの草原を名残惜しそうに見た。


「次はもう少し奥まで行けるな」

「次に行くために、今日は戻る」


 真田の言葉に、久我は素直に頷いた。


「了解、班長」


 蒼真も、重藤弓を握る左手を一度だけ開いて、また閉じた。

 風に負けた一射がある。急所を外した一射がある。撃たなかった一射もある。

 それでも、班は崩れなかった。


 第5層の入口へ戻る途中、草原の風はずっと横から吹いていた。

 蒼真はその風の向こうに、まだ見えていない奥の景色を思い浮かべる。

 今日は勝ち進んだ日ではない。

 踏み込みすぎず、引き返した日だ。

 けれど、メンテナンスノートに書くべき言葉は決まっていた。

 

 『第5層の風。

  急所だけを狙わない。

  撃たない一本を、班に伝える。

  そして、次はもう少し早く、必要な場所へ矢を置く。』


 草の波が、右から左へ流れていく。

 蒼真はその揺れを目で追いながら、重藤弓の重さを肩ではなく、班の中で受け止め直していた。

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