第136話 旧班の掲示
五月下旬の学院廊下は、昼休みになると一気に声の量が増えた。
訓練場へ向かう生徒、購買へ走る生徒、教室前で弁当を広げる生徒。白い壁に反射した初夏の光の中を、制服の袖を捲った生徒たちが行き交っている。
蒼真は職員室へ提出していた第4層探索記録の控えを受け取り、Sクラス棟へ戻る途中だった。
右肩には、まだ午前の風想定訓練の重さが残っている。昨日ほどではない。けれど、重藤弓を引くたびに、身体のどこが足りていないのかを細かく教えられているような感覚があった。
指先で控えの紙を持ち直した時、廊下の先に人だかりが見えた。
成績掲示板の前だった。
「お、今日更新か」
近くを通った一般クラスの男子が、友人の肩を叩いて足を止める。
「探索評価? この前の第4層のやつ?」
「たぶん。二年の月例分って書いてある」
「Sクラスはどうせ上だろ。見たいのは一組だって」
その言葉に、蒼真の足が止まった。
一組。
自分が去年までいた教室。今は悠斗たちがいる場所。
右肩とは違う重さが、身体の内側で小さく鳴った。
掲示板の前には、すでに何人もの生徒が集まっていた。到達階層、消耗管理、連携評価。細かい項目が並ぶ紙面の前で、誰もが自分の班の番号を探している。
Sクラスの欄を目で追いかけかけて、蒼真は一度瞬きをした。
今見るべき場所は、そこではない。
視線を下げる。
2年1組第5班。
橘班。
総合評価、Aマイナス。
前回より、二段階上がっていた。
「……上がってる」
声は思ったより小さかった。
けれど、掲示板の前にいた生徒たちの声は大きく、蒼真の呟きは誰にも拾われなかった。
「一組の第5班、上がってない?」
「ほんとだ。あそこ、神代が抜けたとこだろ?」
「ああ。弓術士がSに上がって、代わりに地魔法の子が入ったって聞いた」
「普通、戦力落ちると思うじゃん」
「でも評価上がってるな。連携評価、結構高い」
「土と氷で止めるらしいよ。《泥沼》と《氷床》を重ねて、前衛が割るって」
「何それ、めちゃくちゃ動きづらそう」
「敵がな」
周囲の笑い声が軽く弾ける。
蒼真は掲示の文字から目を離せなかった。
川崎麻衣。
地魔法使い。
Sクラスから一般クラスへ移った生徒。
最初に会った時の、硬い表情を思い出す。自分がいた場所へ彼女が入り、彼女がいた場所へ自分が入った。入れ替わりという言葉で片づけるには、それぞれの足元にあったものが違いすぎた。
けれど、掲示板の評価は淡々と結果を示している。
旧第5班は、蒼真抜きでも前へ進んでいた。
「蒼真?」
後ろから呼ばれた。
振り向くと、悠斗が片手を上げて立っていた。隣に航、その後ろに紅葉、里奈、真帆、川崎がいる。
六人揃っているのを見た瞬間、蒼真は思わず笑った。
「ちょうど見てた。評価、上がってるな」
「見たか! 見ちゃったかー!」
悠斗が胸を張る。
「どうだ、蒼真。橘班、結構やるだろ」
「橘班って自分で言うんだ」
「掲示にそう書いてあるからな。俺が言っても合法だろ」
「合法かどうかは知らないけど、すごいと思う」
蒼真が素直に言うと、悠斗は一瞬だけ言葉を失った。
その隙を、航が見逃さない。
「照れるくらいなら最初から胸を張るな」
「うるせえ。褒められる準備はしてたけど、真っ直ぐ来るとちょっと違うんだよ」
「準備不足だな」
「班長の評価に入れないでくれ」
紅葉が掲示板を覗き込みながら、くすっと笑った。
「悠斗、朝から三回見に来てたもんね」
「言うなよ!」
「掲示板の前で腕組んで、まだ貼られてない紙を睨んでた」
「言い方! 俺が成績掲示に圧をかけてるみたいじゃん!」
「実際、ちょっとかけてた」
真帆が控えめに頷いた。
「貼り替えに来た教官が、困った顔をしていました」
「真帆まで裏切るのか」
「事実確認です」
蒼真は声を出して笑った。
去年のままの空気が、そこにあった。悠斗が騒ぎ、航が冷静に刺し、紅葉が横から軽く突き、真帆が真面目な顔で追い打ちをかける。里奈は困ったように笑いながら、それでも以前よりずっと自然に輪の中へ立っている。
そして、その隣に川崎がいた。
「川崎も、おめでとう」
蒼真が言うと、川崎は背筋を伸ばした。
「ありがとう、神代さん。でも、私だけの評価じゃないから」
「それはそうだけど、川崎の《土壁》と《泥沼》が噛み合ったって噂されてた」
「噂、早いね」
「掲示板の前だから」
「そっか」
川崎は一度、掲示へ視線を向けた。
白い頬に赤みが差している。大きく笑うわけではない。けれど、口元が柔らかくほどけていた。
「前は、壁を出すと、誰かの邪魔になるかもしれないって考えてた。でも、今は里奈さんが氷で繋げてくれるし、橘くんと宮瀬くんが、どこを空ければ動けるか言ってくれる。紅葉さんは、敵が迂回しそうな場所を先に教えてくれるし、小林さんは、無理して前に出ないで済む位置を見てくれる」
「川崎さんが、ちゃんと聞いてくれるからです」
里奈が静かに言った。
「私、一年の最初は、自分の魔法を出すだけで精一杯でした。でも今は、川崎さんの土があると、氷をどこに置けばいいか見えやすいです」
「私も、里奈さんの氷があると、土を厚くしすぎなくて済む」
「厚くしすぎると、橘くんが突っ込みます」
「里奈!?」
悠斗が目を丸くする。
「いや、そこはさ、班長としてちゃんと止まる努力はしてるだろ」
「してるけど、宮瀬くんに止められる回数の方が多いよ」
「それは航が俺を止めるの上手すぎるんだって」
「俺の長所にするな。お前の短所だ」
航の即答に、紅葉が肩を震わせた。
「でも、最近は悠斗も止まるよ。半歩くらい」
「半歩かあ」
「一歩止まると悠斗じゃなくなりそう」
「紅葉、お前それ褒めてる?」
「半分くらい」
「残り半分どこ行った」
廊下の端で、一般クラスの生徒がこちらを見ていた。
去年は、蒼真が旧第5班の中心にいた。掲示板の前で褒められるなら、きっと自分の弓や戦術が話題の真ん中に置かれた。
今は違う。
悠斗が班長として胸を張り、航がそれを支え、紅葉が周囲を見て、里奈と川崎が土と氷を合わせ、真帆が全体を整えている。
そこに、自分の矢はない。
ないのに、ちゃんと班がある。
そのことが嬉しくて、寂しさもあった。
「蒼真」
航が、ふと声の調子を落とした。
「変な顔になってるぞ」
「変な顔?」
「ああ。嬉しいのか寂しいのか、どっちかにしろ」
「両方って駄目か?」
「駄目ではないが、分かりやすすぎる」
悠斗が一歩近づき、蒼真の肩を軽く叩いた。右肩ではなく、左肩だった。
「寂しいなら、たまには混ざっていいぞ。見学とか、差し入れ係とか」
「差し入れ係なのか」
「今の蒼真が混ざると評価欄がバグるだろ。だから差し入れ係」
「ひどいな」
「冗談だって。まあ、でも」
悠斗は掲示板の方を見た。
紙に書かれた橘班の文字を見て、声を整える。
「お前がいなくても大丈夫って言いたいわけじゃないんだよ。お前がいた一年があったから、今こうなってる。だから、抜けた後に落ちたって言われるのは、俺らもちょっと悔しいだろ」
「悠斗……」
「まあ、俺が班長だから当然だけどな!」
「そこで台無しにするのが悠斗だよね」
紅葉が呆れたように笑う。
けれど、誰も悠斗の言葉を否定しなかった。
真帆が胸の前で両手を合わせる。
「神代さんがSクラスで頑張っているのを見ると、私たちも頑張らないとって思います。でも、私たちの評価が上がったら、神代さんも安心してくれるかなとも思いました」
「安心した」
蒼真はすぐに答えた。
「本当に。安心したし、嬉しい。あと、焦った」
「焦った?」
里奈が小さく首を傾げる。
「旧第5班が前に進んでるなら、俺もSクラスでちゃんと進まないとって思った」
「神代さん、十分進んでると思うけど」
「まだ全然。重藤弓にも振り回されてるし、真田の班での動き方も覚えてる途中だし」
「じゃあ、お互い途中ですね」
川崎が言った。
その声は大きくない。けれど、掲示板前のざわめきの中でも、蒼真にははっきり届いた。
「私も、まだ途中です。土をどう置けばいいか、毎回迷います。でも、迷っても聞けるようになりました。だから、前より楽です」
「そっか」
「はい。だから神代さんも、Sクラスで迷っていいと思います。たぶん」
最後の「たぶん」が川崎らしくて、蒼真は頷きながら笑った。
「ありがとう。助かる」
「いえ」
川崎は照れたように視線を落とした。
悠斗がそれを見て、わざとらしく咳払いをする。
「よし。じゃあ橘班、今日の放課後は反省会だ。評価が上がった理由と、まだ足りないところを確認する」
「お、班長っぽい」
蒼真が言うと、悠斗はにやっと笑った。
「だろ?」
「そのドヤ顔をしなければ、もっと班長っぽい」
「航、今の聞いたか? 蒼真が俺に厳しい」
「妥当だ」
「味方がいない」
「いるよ。たぶん」
紅葉の雑な励ましに、悠斗が「たぶん多くない?」と嘆く。
そのやり取りに、廊下の空気が柔らかくなった。
予鈴が鳴る。
掲示板の前にいた生徒たちが、それぞれの教室へ戻り始めた。
悠斗たちも2年1組の方へ歩き出す。蒼真はSクラス棟へ向かうため、廊下の分かれ道で足を止めた。
「蒼真」
悠斗が振り返る。
「今度、第5層行くんだろ。無茶すんなよ」
「悠斗に言われると説得力が」
「あるだろ」
「どうかな」
航が横から補足する。
「神代。肩を壊すな。悠斗と違って替えが利かない」
「俺は替えが利くみたいな言い方やめろ」
「お前は声が大きい槍使いとして替えが利かない」
「褒めてる?」
「半分くらい」
「また半分!」
笑い声が重なる。
蒼真は右肩を回したい衝動を抑え、左手で控えの紙を持ち直した。
「行ってくる。ちゃんと帰ってくる」
「おう。こっちも次、もっと上げとく」
悠斗が拳を出す。
蒼真は一瞬だけ迷い、それから左拳を軽く合わせた。
乾いた音が、廊下に小さく響いた。
六人が教室へ戻っていく背中を見送る。
旧第5班。
もう自分の班ではない。けれど、確かに自分がいた場所で、今も誰かが前を向いている。
その事実は、寂しさを消してはくれなかった。
けれど、寂しさの置き場所を少しだけ変えてくれた。
蒼真はSクラス棟へ向かって歩き出した。
メンテナンスノートを開いたら、今日の欄に書くことは決まっている。
旧第5班、評価上昇。
嬉しい。
寂しい。
焦る。
そして、自分も進む。
窓の外では、初夏の風が学院の木々を揺らしていた。
草原の風とは違う、穏やかな風だ。
それでも蒼真は、その風の向こうに第5層の草原を思い浮かべる。
自分の矢を置く場所は、もう一つではない。
旧い場所が前へ進んだなら、新しい場所でも前へ進む。
そのために、今日も弦を引く。




