第135話 第5層探索
五月下旬のSクラス教室は、窓を開けると草の匂いが入ってきた。
学院の敷地に植えられた木々の葉は、四月よりも濃い緑になっている。朝の光にも、夏へ向かう前の気配が混じっていた。
蒼真は自分の席で、昨日のメンテナンスノートを開いていた。
右肩には、まだ重藤弓を引いた時の重さが残っている。痛みというほどではない。けれど、前の和弓では翌朝まで意識に残らなかった場所が、今ははっきり存在を主張していた。
草原の一射。
その横に、小さく「班で作った射」と書き足す。
「神代くん、肩、まだ重そうだね」
横から覗き込むように、ほのかが声をかけてきた。
「分かる?」
「うん。朝から右肩を二回回してたから」
「見てたのか」
「見えたの。回復役なので」
ほのかは柔らかく笑った。からかう声ではなく、本当に確認している目だった。
蒼真は右肩を軽く回し、弽の入った袋を机の横へ寄せた。昨日は戦闘中の集中で誤魔化されていたが、一晩置くと、重藤弓が身体へ要求してくるものの大きさがよく分かる。
「痛いわけじゃない。重いだけ」
「それ、探索中に続くと困るやつだよ」
「分かってる。今日、後藤先生に聞いてみる」
「聞く前に無理しないって選択肢もあると思う」
「それも分かってる」
ほのかが蒼真をじっと見る。
「神代くんの『分かってる』は、たまに信用しきれないんだよね」
「……そこまで?」
「そこまで」
返す言葉がなく、蒼真はノートへ視線を戻した。
「何の話?」
凛が教室の後方から歩いてきた。手にはファイルを持っている。表情はいつも通り涼しいが、視線は蒼真のノートと肩の動きを一瞬で拾っていた。
「神代くんの肩の話」
「重藤弓?」
「うん。痛いわけじゃないらしいよ」
「なら、痛くなる前に止めればいいだけね」
「天城まで同じこと言うのか」
「当然でしょ。撃てなくなった弓術士を連れて草原を歩く趣味はないもの」
蒼真が苦笑すると、凛はファイルを机の上に置いた。表紙には、第5層探索許可班一覧、と印刷されている。
「これ、今朝掲示されてた」
「第5層?」
「ええ。うちの班も入ってる」
蒼真の呼吸が一瞬止まった。
第5層。
立川ダンジョンの第4層から第6層までは草原系の階層だと聞いている。二年次は第6層まで探索可能で、制度上はいつか進む場所だった。けれど、許可が下りたという文字を見ると、頭で分かっていたものが急に足元まで近づいてくる。
「行けるのか」
思わず口にすると、凛がわずかに眉を上げた。
「その顔、前ならそのまま走って行きそうね」
「さすがに走らない」
「学習したってこと?」
「多少は」
凛は短く息を吐いた。呆れたようで、笑いを含んでいるようにも聞こえた。
前なら、新しい階層という言葉だけで気持ちが先に走っていた。
高揚は消えていない。だが昨日失った矢の本数と右肩の張りは、まだ体に残っている。ほのかの魔力、綾瀬の耳、真田の盾、久我の足場。そのどれか一つが崩れれば、第5層では帰り道の判断が遅れる。
行きたいだけでは足りない。
行った後、どう帰るかまで考えなければならない。
「神代」
教室の前方から、真田が声をかけた。
すでに久我と綾瀬も、真田の机の周りに集まっている。久我はファイルを逆さに覗き込み、綾瀬は横から静かにページを押さえていた。
「第5層許可、確認したか」
「今、天城から見せてもらった」
「昼休みに一度、職員室へ行く。後藤先生から説明があるそうだ」
「全員で?」
「ああ。行ける時間を合わせる」
「了解」
久我がファイルから顔を上げ、にっと笑った。
「第5層ってことは、4層より敵が強いんだろ。広い草原でバスターソード振るうの、結構楽しみなんだけど」
「楽しむ前に、足元を見てください」
「律、最近それ多くないか?」
「実際に見ていない回数が多いので」
「ぐうの音も出ない」
久我が大げさに肩を落とすと、ほのかが小さく笑った。
「でも、久我くんが踏み込む場所が増えるなら、私も盾の位置を考え直さないとね」
「白瀬は回復もあるだろ。忙しくないか?」
「忙しいよ。だから配分表を作る」
「配分表?」
久我の声が上ずった。
「うん。真田くんが正面で受ける時、久我くんが左に出る時、神代くんが一射後に遅れる時、凛ちゃんが大きい火を使う時。誰にどれくらい残しておくか、目安だけでも決めておきたいから」
「白瀬、そういうの作るタイプなんだな」
「作らないと不安になるタイプです」
「分かります」
綾瀬が真面目に頷いた。
「風音対策も必要です。第4層でも、草の擦れる音で足音の境目が曖昧になることがありました。第5層で風が強いなら、拾う音を絞らないと報告が遅れます」
「絞るって、どうするんだ?」
「全部を聴こうとしない、です。狼型の爪音、コボルトの武器音、群れの重心。まずその三つに分けます」
「耳でそんなことできるのか」
「しないと間に合いません」
淡々と言う綾瀬に、久我が「職人だな」と呟いた。
蒼真はそのやり取りを聞きながら、自分のノートの空白に「第5層準備」と書いた。続けて、肩、矢数、射線、風、と短く並べる。
「神代は何を準備する?」
真田が尋ねる。
「横風と、重藤弓の引き分け。あとは、撃たない判断を早くすること」
「昨日の続きだな」
「うん。第5層で敵の数が増えるなら、迷って構える時間が一番邪魔になる」
「なら、訓練では撃つ前の宣言をさらに短くする。『急所』『足』『無理』『待つ』。それで通じるようにしたい」
「分かった」
真田は頷き、ファイルを閉じた。
「浮かれるなとは言わない。だが、浮かれたまま行くな。昼に後藤先生から話を聞いて、午後の訓練内容を決める」
「班長っぽい」
久我が茶化すと、真田は真顔で返した。
「班長だからな」
「いや、そうなんだけど。そこで真顔で返されると俺が悪いみたいになるだろ」
「実際、悪いです」
「律まで!?」
◇
昼休み、2年Sクラス第4班の六人は職員室の前に並んでいた。
職員室の中では、教官たちが書類とタブレットを行き来させている。窓際の席で後藤が紙コップのコーヒーを片手に、分厚いファイルをめくっていた。
「来たか」
後藤は眠そうな顔のまま、六人を廊下側の打ち合わせスペースへ招いた。机の上には、第5層探索許可通知と、真田班の第4層探索記録が並んでいる。
「まず、おめでとうと言っておく。第4層の記録、戦闘処理、撤退判断、消耗管理。許可を出せる水準にはある」
「ありがとうございます」
真田が短く礼を言う。
「だが、勘違いするな。行ける、と、行っていい、は違う」
後藤の声が、そこで低くなった。
「第5層に行ける力がある。だから許可は出る。だが、毎回行っていいわけじゃない。風向き、風の強さ、体調、矢数、魔力、班の集中。どれかが崩れてる日は、4層で帰ってこい」
「第5層も草原系ですよね」
綾瀬が確認する。
「ああ。だが、群れの規模と動きが一段上がる。4層で一つの群れを処理して終わりだった場面が、5層だと音に釣られて次が寄ることがある。風も強い場所がある。耳だけに頼るな。目だけにも頼るな」
「撤退ラインは、探索前に決めます」
真田が言うと、後藤は頷いた。
「決めろ。で、決めたら守れ。Sクラスはそこを破りがちだ。『まだ行ける』は、大体行けない一歩手前だと思え」
久我が口を尖らせる。
「先生、それ、俺に言ってます?」
「心当たりがあるなら、お前に言ってる」
「あります」
「なら聞け」
短いやり取りに、ほのかが笑いを堪えるように口元を押さえた。
後藤は次に、蒼真の方を見た。
「神代。肩は」
「重いです。でも、痛みはありません」
「なら今日は強く引く本数を減らせ。5層前に張り切って肩を潰したら、笑えんぞ」
「はい」
「重藤弓は強い。だが、強い武器ほど、持ち主が調子に乗る前に身体が先に悲鳴を上げる。悲鳴が聞こえてからじゃ遅い」
「はい」
「天城。5層では火を広げると綺麗に止まる場面もある。だが、草の揺れで味方の視界も悪くなる。神代の射線と綾瀬の音を消すな」
「分かっています」
「ただし、小さく使うことだけを正解にするな。お前の仕事は進路整理係じゃない。焼き切れる敵は焼き切れ。火力を出す場面と、絞る場面を自分で選べ」
「はい」
「白瀬。回復できるから前に出られる、ではなく、回復しなくて済む位置取りを班に言え。遠慮するな」
「はい」
「綾瀬。情報を全部出そうとするな。必要な音を選べ」
「了解しました」
「久我。足元」
「短っ」
「長く言う必要がない」
「あります、足元見ます」
久我が両手を上げる。後藤はそこでようやく、口元を緩めた。
「真田。お前は止められる。だからこそ、止める前に勝てる場面を拾え。盾は最後の壁だ。最初から全部そこへ集めるな」
「はい」
「第5層許可は、褒美じゃない。次の訓練場への入場券だ。勝ちに行け。ただし、無事に帰るところまで含めて勝ちだ」
蒼真は頷きかけて、そこで口を開いた。
「後藤先生」
「何だ」
「第5層に行く前に、今日の午後、風を想定した射の訓練を入れてもいいですか」
「真田に聞け。お前は班長じゃない」
「あ」
思わず声が漏れる。
久我がにやっと笑い、凛が横目でこちらを見た。ほのかは「今のは惜しかったね」とでも言いたげに眉を下げている。
真田が肩を揺らした。
「午後の訓練に入れる。後藤先生、風を想定したレーンは使えますか」
「使える。申請はこっちで通しておく」
「ありがとうございます。神代、訓練内容は後で詰める」
「了解」
今度は、迷わずそう返せた。
自分で決めるのではなく、見えた必要を班長へ渡す。真田がそれを班の予定に変える。
たったそれだけの流れが、少しずつ身体に馴染んできている。
職員室を出ると、廊下の窓から午後の光が差し込んでいた。
第5層許可の紙は、真田のファイルに収まっている。まだ草原の風はここまで届かない。けれど、蒼真の中では、次の階層へ向かう高揚と、そこへ行くための準備の重さが、同じ場所に並んでいた。
「神代」
凛が隣を歩きながら言う。
「午後、火は二種類使う。焼き切る火と、道を狭める火。風で揺れた的を、あんたがどこまで待てるか見たい」
「分かった。俺は無理に急所を狙わない。足止めも混ぜる」
「それでいいわ」
「二人とも、ちゃんと肩と魔力も見てね」
ほのかがすぐ後ろから釘を刺す。
「はいはい」
凛が面倒そうに返し、蒼真も頷いた。
「分かってる」
「その『分かってる』、今日二回目」
「……じゃあ、気をつける」
「うん。そっちの方が信用できる」
ほのかの言葉に、久我が「白瀬、意外と厳しいよな」と笑う。綾瀬が「必要な厳しさです」と真面目に返し、真田が「午後は全員、準備から丁寧にやる」と締めた。
蒼真はノートを抱え直し、廊下の先にある訓練場の方を見た。
第5層は、まだ遠い。
許可の紙一枚で近づいたように見えても、そこに立つためには、今日の午後の一本から整えなければならない。
それでも、気持ちは前へ向いていた。
ただ行きたいだけではない。
班で準備して、班で勝って、班で帰ってくるための高揚だ。
蒼真は右肩を回したい衝動を一度だけ堪え、代わりに左手で重藤弓の握りを思い出す。
次の草原へ向かうための弦音は、まだ鳴っていない。
けれど、その前に整えるべき呼吸は、もう始まっていた。




