第134話 草原の一射
五月中旬の第4層は、今日も晴れていた。
ダンジョンの中だというのに、頭上には高い空があり、草原の向こうには陽炎めいた光が揺れている。風が吹くたびに背の低い草がざわめき、革手袋を着けていない左手の甲を撫でていった。
蒼真は矢筒の重さを、歩きながら一度だけ確かめた。
前回の記録票から、矢の回収本数と消失本数を分けて書くようにした。だからだろうか。矢筒の中に残っている矢の数が、以前よりはっきりと意識に乗る。
強いなら、丁寧に勝つ。
昨日メンテナンスノートに書いた一行が、弦を引く前から体の中心に残っていた。
「律、音は?」
先頭の真田が、大盾を左前に構えたまま短く尋ねる。
綾瀬律は一歩後ろで足を止め、目を伏せるようにして草原の音へ耳を向けた。風の音、草の擦れる音、六人分の足音。その奥から、別の硬い音を拾い上げる。
「正面に四。左奥に二。右は……遅れて、三です。右の三体は、こちらを回り込むつもりだと思います」
「距離は」
「正面が近いです。右はまだ余裕があります」
「了解。正面を止める。久我、右へ出すぎるな。神代、撃つ判断を早めにくれ」
「分かった」
蒼真は右手の指を弽の弦枕へ当て、重藤弓の握りを整えた。
前なら、ここで一番近い敵を撃つことを考えていた。けれど、後藤の言葉が頭をよぎる。
撃つ一本と、撃たない一本。
大事にしすぎて遅れるのも、雑に撃って隙を作るのも違う。
草の向こうから、狼型の魔物が低く飛び出した。
さらにその後ろから、棍棒を持ったコボルトが二体。正面の群れは、狼を先に走らせ、コボルトが真田の盾へ圧をかける形だった。
「白瀬、まだ温存」
「うん。真田くんの足、見てる」
ほのかの声は柔らかいが、視線は真田の膝と肩の動きに向いている。白い光はまだ出していない。昨日なら早めに《光盾》を置いていたかもしれない場面で、彼女は一拍待っていた。
「天城、正面左。焼けるなら一体落とせ。広げすぎるな」
「分かってる。昨日言われたばかりで同じことしないわよ」
凛が杖を振る。
赤い火が草の上を舐めるように走り、狼型の左側を塞ぐ。次の瞬間、その火の芯だけが鋭く伸びた。
逃げようとした狼型の肩口に《火球》が直撃する。火が毛皮と筋肉を焼き、低く走っていた身体が前のめりに崩れた。炎は周囲へ無駄に広がらない。けれど、当たった一体を落とすには十分すぎる火力だった。
「神代」
「まだ撃たない」
蒼真が答えると、久我がちらりとこちらを見た。
「撃たないって言えるの、結構怖いな」
「外すよりは怖くない」
「それはそうだ」
久我が笑い、次の瞬間には《腕力強化》を込めた両腕でバスターソードを振り下ろした。
真田の大盾が狼の突進を斜めに受け、半歩だけ右へ流す。流された狼は火の壁を嫌って戻ろうとしたが、そこへ久我の大剣が叩き込まれた。刃というより、質量で割る一撃だった。狼型の身体が床ではなく草の上で弾け、粒子になって消える。
「久我、足場」
「見てる。見てるって」
「今、一瞬見てなかった」
「律、細かいな!」
「足を取られて転ぶ方が面倒です」
短いやり取りの間にも、正面のコボルトが棍棒を振りかぶる。
真田は受けるだけではなかった。大盾で棍棒を止めた直後、メイスでコボルトの膝を叩き、敵の身体を開かせる。そこへ凛の小さな《火球》が飛び、コボルトの視界を焼くように弾けた。
「神代、右の三体、来ます。足音が速い。狼二、コボルト一。コボルトの方が後ろです」
「罠は?」
「一つなら、今置けます」
「右の先頭だけ止めてほしい」
「了解しました」
綾瀬が腰の小さな道具袋から細い金属杭を抜き、草の中へ滑らせるように投げた。
派手な光はない。だが、右から回り込んできた狼型の前足が、見えない糸に引っかかるように半歩止まった。
その半歩で、戦場の形が変わった。
凛が右へ火を伸ばす。火は逃げ道を狭めるだけでなく、踏み込んだコボルトの足元を確実に焦がし、動きを鈍らせた。ほのかが真田の前にだけ《光盾》を置き、棍棒の二撃目を止める。久我は正面から離れすぎず、右の狼へ体を向ける。真田の盾は正面を受けながら、角度を変えた。
その角度が、蒼真の射線を開ける。
右奥のコボルトが、草の中で一瞬だけ顔を上げた。
他の魔物より一回り大きい。棍棒に付いた骨飾りが揺れている。群れの動きが、そいつの声に合わせていた。
蒼真は、その瞬間に息を吸った。
「撃つ」
短く告げる。
真田の返事はない。代わりに、大盾がさらに半歩だけ沈んだ。盾の上縁が下がり、蒼真の視界から正面のコボルトの肩だけが消える。
凛の火は右へ逃げ道を作らない程度に細くなり、ほのかの光は真田の前で止まったまま広がらない。久我の背中も、射線から一歩外れている。
全員が、蒼真の一射のために場所を空けていた。
重藤弓は重い。
弦を引き分けるだけで、右肩の奥から背中へ負荷が沈む。以前の和弓なら、この瞬間に二射目のことも考えられた。けれど今は違う。一射の後には、大きな隙が残る。
だからこそ、外せない。
だからこそ、今撃つ。
蒼真は弓を引き切り、骨飾りの揺れではなく、その奥にある首の付け根へ照準を置いた。
風が草を揺らす。狼が吠える。コボルトが短く叫ぶ。
その音が、綾瀬の「今です」という声で一点に絞られた。
弦音が鳴った。
蒼い軌跡が草原を一直線に裂く。
矢は正面の乱戦を抜け、凛の火の端を越え、右の狼の背を掠めるように通り、骨飾りのコボルトの首元へ吸い込まれた。
重い手応えが、弓を持つ左手に遅れて返ってくる。
コボルトの身体が後ろへ倒れ、粒子になって崩れた。
その瞬間、群れの動きが乱れる。正面のコボルトが半歩遅れ、右の狼が火を避けきれず足を止めた。
「久我、右」
「任せろ!」
久我が踏み込み、足を止めた狼を割る。
真田は残ったコボルトを盾で押し返し、メイスで棍棒を弾く。凛の《火球》が低く走って狼の進路を潰し、ほのかの癒やしの光が真田の腕を包んだ。
蒼真はすぐに二射目へ移れなかった。
右肩が重い。弦を引いた余韻が、まだ背中に残っている。矢筒へ伸ばした指が、一拍遅れる。
けれど、その一拍で班は崩れなかった。
綾瀬が敵の足音を拾い、凛が火で逃げ道を縛り、久我が前へ出すぎず割り、真田が正面を止め、ほのかが必要な場所にだけ支援を置く。
蒼真が二射目を番えた時には、最後の狼型が真田の盾の前で横を向いていた。
「足、狙う」
「了解」
今度は急所ではない。
重藤弓を完全に引き切らず、短く、速く、足を止めるための射を置く。矢は狼の前足を掠め、動きを鈍らせた。そこへ久我の大剣が入り、戦闘は終わった。
草原に、魔石がいくつか転がった。
風が吹き、粒子の残りが空へ溶ける。蒼真は大きく息を吐き、弓を下ろした。右肩には重さが残っている。けれど、体の内側にはそれ以上の手応えがあった。
「……今のは、やり直しじゃないよな?」
久我が真っ先に言った。
真田が魔石を確認しながら、眉を上げる。
「後藤先生の気分次第だ」
「それ一番怖いやつだろ」
「でも、今のは丁寧だったと思うよ。少なくとも、私は雑には見えなかった」
ほのかが笑う。
凛は杖の先を下ろし、蒼真の方を横目で見た。
「神代」
「何?」
「今の一射は、戦況が変わった。次も、ああいう場面で撃って」
「分かった」
それだけだった。
礼ではない。褒め言葉とも違う。けれど、凛が自分の火の隣に矢を置くことを前提にした言葉だと、蒼真には分かった。
「僕としては、撃つ前に『撃つ』と言ってもらえると助かります。音の拾い方を、そこに合わせられるので」
「うん。今みたいに短く言う」
「お願いします」
「俺は、射線空ける時に背中斬られそうでちょっと怖かった」
「久我は背中を斬られる前に、足元を見てくれ」
「真田までそれ言うのかよ」
小さな笑いが起きた。
戦闘後の草原で、六人分の息が落ち着いていく。蒼真は矢筒に残った本数を確認し、今の一射で消えた矢と、足止めに使って回収できそうな矢を頭の中で分けた。
財布の話をした後藤の顔が浮かび、思わず苦笑する。
「神代、何笑ってるの」
「いや、矢は無限に生えないなって」
「……急に現実的ね」
「後藤先生に言われた」
「納得したわ」
凛が呆れたように言い、ほのかが肩を揺らして笑った。
真田は魔石を回収し終えると、盾を背負い直した。
「今の戦闘は記録しておく。神代の一射を作るために、全員が半歩ずつ調整した。再現できるようにしたい」
「一回できただけじゃ駄目だよな」
「当然だ。だが、一回できたことは大きい」
真田の言葉に、蒼真は頷いた。
重藤弓はまだ重い。連射は遅い。撃った後の隙も大きい。けれど、置くべき場所に置いた一射は、確かに戦況を変えた。
それは、重藤弓だけの力ではない。
真田の盾が正面を止めた。綾瀬の報告で右の揺れが見え、凛の火が逃げ道を塞ぐ。久我が割った一瞬の隙間に、ほのかの光が重なった。蒼真はそこへ矢を通した。
けれど、その「だけ」が、この班での自分の役割なのだと思えた。
班長ではない。
先頭でもない。
それでも、矢を置く場所はある。
蒼真は重藤弓の握りを左手で確かめ、草原の奥へ視線を向けた。
空は高い。風は変わらず草を揺らしている。
次の群れが来るまでの短い静けさの中で、蒼真は体の内側に残る手応えを、ゆっくりと息に変えた。
今日、初めて重藤弓が班の中で鳴った。
その弦音は、まだ完璧には遠い。
けれど、確かに第4層の草原へ届いていた。




