第133話 後藤のSクラス
五月中旬の職員室は、窓を開けても紙とインクの匂いが残っていた。
新学期の慌ただしさがようやく一段落した頃合いで、試験前のように張り詰めているわけではない。けれど、机の上には授業計画書や探索実習の記録票が積み重なり、教官たちの声もどこか低かった。
後藤喜一郎は、その中で相変わらず緩めたネクタイを首からぶら下げていた。
椅子に深く腰を掛け、片手で紙束をめくり、もう片方の手で赤ペンを回している。足元はいつものサンダル。三白眼で書類を眺める姿だけ見れば、やる気は読めない。
だが、蒼真はもう知っている。
後藤が何も見ていないような時ほど、本当に何も見ていないわけではない。
「後藤先生、これで最後です。二年Sクラスの第5層申請分は、まだ先でいいんですよね?」
机の横に立っていた榊原美樹が、薄いファイルを一冊置いた。
以前より動きがゆっくりに見える。声は変わらず柔らかいが、机に手を添える時間が長かった。
「そうですね。第5層は、まだ早いでしょう。行ける生徒はいますが、行かせていいかは別です」
後藤は赤ペンを止め、ファイルへ視線を落としてから答えた。
「その言い方、今日のホームルームでもします?」
「します。眠そうな顔をしたやつがいても、目は覚めるでしょうし」
「後藤先生、Sクラスの子たち、一般クラスよりも寝ませんよ」
「それは偏見です。強いやつも眠い時は眠い。俺も眠い」
「先生はいつも眠そうです」
今日は授業前に、第4層探索記録の確認で呼ばれていた。修正は一点だけ。重藤弓で使った矢を、回収本数と消失本数に分けて書くことだった。
「神代、今のうちに覚えとけ。強い武器を持つと、使った結果だけ見たくなる。だが探索だと、使った後に何が残ったかも同じくらい大事だ」
「矢の残り、ですね」
「それもある。魔力、体力、班員の余裕、退路。ついでに財布だ」
「財布ですか」
「学生のお前は通常矢なら物資管理窓口で受け取れる。だからって、無駄撃ちしていいわけじゃない。補充できるものと、探索中に残っているものは別だ。そこを忘れると、立派な雑な探索者になる」
真面目な話をしているのに、最後だけ妙に現実的だった。
蒼真は思わず苦笑し、修正済みの記録票を鞄へしまう。後藤はそれを見届けてから、榊原の置いたファイルに指を添えた。
「榊原先生、こっちは俺が持っていきます。教室に顔を出すのは、無理しないでください」
「ありがとうございます。でも、挨拶くらいは」
「この前、きちんと話してもらいましたから。生徒も覚えています。忘れてそうな顔をしていたら、俺からもう一度伝えておきます」
「……後藤先生にしては、ずいぶん素直ですね」
「たまには同僚らしいこともします」
榊原は目を丸くし、それから安心したように笑った。
春休みに聞いた話の通り、彼女は教室運営から少しずつ外れていく。その変化が、ファイルを渡す手つきからも現実になっていくのが分かった。
「神代くん」
榊原がこちらを向く。
「はい」
「Sクラス、慣れましたか?」
「慣れた、とはまだ言えないです。でも、前よりは分かってきました」
「どういうところが?」
「強い人たちの集まり、だけじゃないところです。同じ強さじゃなくて、それぞれ癖があるんだって、最近やっと分かってきました」
「それが分かるなら、十分です」
榊原は穏やかに頷いた。
「Sクラスは、噛み合わない時のずれも大きくなります。後藤先生は、そこを見ています」
「俺が言うと、だいたい嫌な顔をされますけどね」
「言い方の問題です」
後藤がぼそりと言い、榊原はもう一度笑ってからファイルの端を揃えた。
「では、わたしはこのまま資料室に寄ってから戻ります。後藤先生、ホームルーム、お願いします」
「はい。神代、お前も戻れ。遅れると天城あたりに睨まれるぞ」
「天城は、たぶん時間には厳しいです」
「たぶんじゃない。あれは厳しい」
後藤はそう言って、赤ペンを胸ポケットへ差した。
◇
二年Sクラスの教室は、昼休み明けでも妙に静かだった。
一般クラスなら、誰かが椅子を引く音、弁当箱を片づける音、悠斗の声、航の突っ込み、紅葉の笑い声が混ざっていた。Sクラスにも雑談はある。だが、空気の戻りが早い。授業前になると、それぞれが自分の準備へすぐ戻る。
蒼真が席に着くと、斜め前の真田が振り返った。
「神代、記録票の件か?」
「うん。矢の回収本数と消失本数を分けるように言われた」
「妥当だな。お前の矢は威力が上がった分、消える時は消える」
「財布の話もされた」
「後藤先生らしいな」
真田が短く笑う。久我は椅子の背にもたれ、綾瀬は目を閉じていた。近くでほのかが教科書を揃え、凛は予習用のノートを閉じる。
教室の前方の扉が開いた。
後藤が入ってくると、空気がすっと切り替わる。立ち上がって敬礼するような規律ではない。それでも、全員の視線が一度前へ集まった。
「はい、今日もそこそこ元気そうで何よりだ。元気がありすぎるやつは、放課後に走れ。元気がないやつも、放課後に走れ」
いきなり雑な挨拶だった。
教室の何人かが小さく笑う。凛は眉を寄せ、ほのかは楽しそうに見守っている。
「先生、それだと全員走ることになります」
誰かが後ろの席から言った。
後藤は教卓にファイルを置き、肩をすくめる。
「よく気づいたな。賢い。Sクラスらしい」
「褒めてます?」
「ほんの一応」
また笑いが起きる。
だが、後藤はそこでファイルを開いた。紙を一枚めくる音だけで、教室の空気が変わる。
「さて、冗談は半分くらいにしておく。先週までの第4層探索記録を見ました。全班、到達速度は悪くない。討伐数も悪くない。怪我も少ない。数字だけ見れば、まあ優秀です」
後藤はそこで一拍置いた。
「だが、雑だ」
短い言葉だった。
それだけで、教室の空気が重くなる。
「お前らは強い。だから、雑になる」
後藤の声は荒くない。むしろ、普段と同じ緩い調子だった。
それなのに、誰も聞き流せなかった。
「第4層の狼型は、一般クラスなら苦戦する相手だ。だが、お前らは倒せる。コボルトも倒せる。多少隊列が崩れても、個人技で戻せる。火力で押せる。盾で止められる。白魔法で取り返せる。斥候が拾い直せる。だから、一回崩れても何とかなった気になる」
後藤の三白眼が、教室全体をゆっくり撫でた。
「だが、その『何とかなった』は、上の階層に行くほど通じなくなる。雑な勝ち方に慣れるな。強いから勝った、で終わらせるな。強いなら、強いなりに丁寧に勝て」
蒼真は、指先が机の下で動いたことに気づいた。
弓を持っているわけでもないのに、弦を探す癖が出ていた。
後藤は一般クラスの頃から、こういうことを言う教官だった。
けれど、今は違って聞こえる。蒼真だけに向けられた言葉ではない。第5班だけに向けられた言葉でもない。
Sクラス全体に向けて、強者としての雑さを削りに来ている。
「真田班」
突然呼ばれ、真田が背筋を伸ばした。
「はい」
「お前の班は、真田の盾を起点にしすぎる傾向がある。悪くはない。実際、安定する。ただ、盾が間に合う前提で後衛が半歩遅れる場面がある」
真田の眉がわずかに動いた。
蒼真も、自分の中の弱いところを指で押されたように感じた。
「天城の火は強い。神代の矢は重い。白瀬の支援は早い。綾瀬はよく拾う。久我は割れる。だからこそ、真田が受ける前に、他の五人が先に一手を置ける場面を見逃すな」
後藤は名前を並べた。
ただ褒めているわけではない。それぞれの強みを置いた上で、強みに甘えるなと言っている。
「天城、火で焼けるからって、毎回広く取るな。神代の射線と綾瀬の報告を消す時がある」
「……はい」
「ただし、逆も同じだ。狭めることに意識を寄せすぎて、焼き切れる敵を残すな。お前は火力職だ。倒す火と、動かす火を分けろ」
「はい」
「神代、重藤弓の一射を大事にするのはいい。だが、大事にしすぎて撃つ判断が遅れる時がある。撃たない判断も早くしろ」
「はい」
「白瀬、支援が早いのは助かる。だが、早い支援は相手にも見える。隠したい時は、一拍遅らせる選択も持て」
「はい」
「久我は足場を見ろ。綾瀬は、捨てる情報も選べ」
「……はい」
「了解しました」
そのまま次の班の指摘へと続く。
教室の空気は、完全に授業のものになっていた。
蒼真は、後藤がSクラスを見ているのだと改めて思った。
一年の頃、後藤は自分たち第5班を見てくれていた。弓術士の蒼真を見て、悠斗を見て、航を見て、紅葉、里奈、真帆を見ていた。
今は違う。
後藤の視線は、Sクラスの全部へ向いている。その中に蒼真もいる。
それが寂しくて、誇らしかった。
自分だけの担任ではない。当たり前だ。最初から教官はそういうものだ。
それでも、一般クラスから上がってきた蒼真にとって、後藤が同じ教室にいることは支えだった。その後藤が、今はSクラス全体を相手にしている。
なら、自分もその中の一人として見られなければならない。
「最後に一つ」
後藤がファイルを閉じた。
「強いことは悪いことじゃない。むしろ、強くなるためにお前らはここにいる。だが、強いから丁寧にやらなくていい、は違う。丁寧にやれるやつが強くなった時、いちばん厄介になる」
「以上。今日の訓練は、雑に勝ったらやり直しだ。勝ってもやり直し。嫌なら綺麗に勝て」
教室のあちこちから、低い呻き声が漏れた。
「先生、それ、判定するの先生ですか?」
「まあ、俺が見る。基準は単純だ。勝った理由を説明できなかったら、だいたいやり直しで」
「それ、結構厳しいと思います」
「厳しくしておかないと、お前らはすぐ力でごまかす。教師の仕事は、そういうところを面倒にすることだ」
今度ははっきりと笑いが起きた。
重くなりすぎた空気が戻る。だが、言葉は残っている。
放課後の訓練内容を告げられ、ホームルームが終わった。
後藤が教室を出ていくと、久我が深く息を吐いた。
「……あの先生、眠そうな顔で刺してくるな」
「分かる。刺された感じがする」
ほのかが胸元に手を当てる。凛は視線を逸らしたが、否定はしなかった。
真田がこちらを見る。
「神代。今日の訓練、俺が受ける前に一手置ける場面を探す。お前も、撃つか撃たないかを早めに言ってくれ」
「分かった。『撃つ』『撃たない』『待つ』で分ける」
「助かる」
蒼真はそのやり取りを聞きながら、机の中からメンテナンスノートを取り出した。
授業前の短い時間で、端に一行だけ書く。
――強いなら、丁寧に勝つ。
その言葉は、重藤弓にもそのまま当てはまる。
強い弓を手にしたから、雑に撃っていいわけではない。むしろ、強いからこそ一射の置き場所を丁寧に選ばなければならない。
けれど、丁寧にしすぎて遅れてもいけない。
蒼真は弽を着けていない右手の親指を、机の下で曲げた。
弦枕に掛かる重さを思い出す。まだ、重い。まだ、遅い。
それでも、後藤が見ているのは、できない部分だけではない。できるようになるための癖だ。
一般クラスの担任だった後藤は、Sクラスの担任になった。
蒼真も、一般クラスの班長だった自分から、Sクラスの班員へ変わった。
変わった場所で同じ教官に見られていることが、胸の内側に静かに残った。
放課後、雑に勝ったらやり直し。
面倒だと思うより先に、蒼真の口元が緩んだ。
丁寧に勝つ。
それはきっと、今のSクラス第4班に必要な課題だった。




