第132話 須藤大河は笑わない
五月上旬のSクラス訓練場は、昼休み明けの眠気をまだ残していた。
それでも、訓練場の内側へ一歩入ると、蒼真の指先は自然と弓袋の紐を確かめていた。授業ではなく、放課後の合同訓練。相手は同じSクラスの別班であり、その中には須藤大河がいる。
春に同じ教室へ入ってから何度も顔は合わせている。短い会話もした。だが、弓を持った状態で須藤と向き合うのは、やはり別の緊張があった。
去年、蒼真の矢をことごとく読んだ剣士。最後に《小転移》で崩した相手。今の蒼真にとって、遠い相手ではなくなった。けれど、近くなったからといって簡単になったわけではない。
むしろ、近くにいるからこそ分かる。
須藤大河は、強い。
「神代」
声を掛けてきた須藤は、いつも通り表情が読みにくかった。
黒髪を揺らすでもなく、竹刀袋のような訓練用の剣袋を肩に掛け、まっすぐこちらを見る。機嫌がいいのか悪いのか、知らない人間には分からない顔だ。
蒼真には、少し分かった。
目が、逃げていない。戦う前の人間の目をしている。
「須藤。今日はよろしく」
「よろしく。……それが重藤弓か」
「うん。まだ、扱えてるとは言えないけど」
「前より厄介になったな」
「褒めてる?」
「事実を言っただけだ」
須藤は本当に笑わない。
けれど、その声には戦う前の張りがあった。蒼真がそれを指摘したら、たぶん面倒な顔をされる。だから言わない。
代わりに、重藤弓を弓袋から取り出した。
訓練場の照明を受けた弓は、以前の和弓よりも存在感がある。手にしただけで、肩と背中が今日も緊張した。引ける。だが、軽々とは引けない。自分の体に馴染むまで、まだ時間が掛かる。
「神代、準備ができたら入れ」
真田が訓練レーン中央から声を掛ける。
今回の合同訓練は、真田班と須藤班の短時間模擬。全員での六対六ではなく、まずは三対三を数本回す形式になっていた。こちらは真田、凛、蒼真。支援確認役としてほのかが外側に立つ。相手側は須藤を中心に、騎士と魔法使いが一人ずつ。
真田は大盾を地面に下ろし、淡々と配置を確認する。
「俺が中央で須藤を受ける。天城は右奥、火力で相手魔法使いを抑えろ。神代は左後方。初手は須藤を狙わなくていい。須藤が読みに来るなら、読ませる情報を増やせ」
「了解」
「分かったわ」
凛は杖を握り直しながら、ちらりと蒼真を見た。
「神代、重いからって変なところに撃たないでよ」
「射線は声に出す」
「それならいいわ。私も火を置く時は言う」
「二人とも、呼吸だけ忘れないでね。真田くんの後ろで喧嘩しないこと」
ほのかが外側から柔らかく言う。
凛が眉を寄せた。
「喧嘩はしないわよ」
「うん。凛ちゃん、今の返事はちょっと喧嘩前っぽかった」
「ほのか」
「ごめんね。でも、二人とも真面目だから」
そのやり取りで、肩に入っていた力が抜けた。
蒼真は弦に指を掛け、矢を番える。重藤弓の張力が、右手の弽越しにずしりと返ってきた。
「始め!」
合図と同時に、須藤が前へ出た。
速い。けれど、一直線ではない。真田の盾に正面からぶつかると見せて、半歩だけ右へ重心を逃がす。真田が盾の角度を変えた瞬間、須藤の瞳が淡い金色に光った。
《看破》。
蒼真はその光を見た瞬間、去年の演武場を思い出した。自分の直射も曲射も、須藤には読まれていた。矢の軌道を、次の動きを、細い線として見られていた。
だからこそ、今は一人で勝とうとしない。
「右足元、足止め」
蒼真は須藤ではなく、その一歩先の床へ矢を放った。
蒼い軌跡が低く走る。重藤弓の矢は速く、重い。だが、射出までの一呼吸がやはり遅い。須藤は視線だけでそれを拾い、踏み込みを浅くして避けた。
避けるだろうと思っていた。
「《火球》!」
凛の火が、須藤の逃げた先ではなく、相手魔法使いの前方へ落ちる。
須藤は真田を抜くか、味方を守るかを一瞬だけ選ばされる。真田の盾がその一瞬を潰すように前へ出た。
金属音が訓練場に響く。
「重いな、真田」
「軽い盾では意味がないからな」
真田の声は揺れない。
須藤は盾を斬るのではなく、盾の端を撫でるように剣を当てて角度をずらそうとした。その瞬間、須藤の瞳の金色が強くなる。
真田の盾。凛の火。蒼真の矢。
三つの動きを、同時に読もうとしている。
「左、抜ける!」
蒼真が声を出すより早く、凛が反応した。
「《火壁》!」
須藤の左側に炎の壁が立つ。炎そのものは須藤に当たらない。だが、踏み込める幅を確実に奪った。
須藤は即座に後退を選ぶ。
その動きは滑らかで、無駄がなかった。けれど、一瞬だけ、前進の勢いが消えた。
蒼真は二射目を番える。
重い。弦が指を押し返す。以前なら、もう一射撃てていたかもしれない。だが焦って引けば、狙いが乱れる。須藤相手に雑な矢は通らない。
真田の声が飛んだ。
「神代、急がなくていい。須藤の足を止めろ。倒す一本に固執する必要はない」
「了解」
倒す一本ではなく、止める一本。
蒼真は呼吸を一つ落とし、須藤の肩ではなく、盾と炎に挟まれた出口を見る。
須藤がそこを選べば、矢が置かれている。選ばなければ、真田と凛が次の動きを作る。
矢を放つ。
蒼い光が、須藤の進路を横切った。
須藤は避けた。だが、完全には前へ出られない。剣先が真田の盾へ届く前に、足が止まる。
「……面倒だな」
須藤が小さく呟いた。
それは苛立ちではなかった。むしろ、楽しんでいるように聞こえた。
「須藤くん、今の顔、笑ってない?」
外側からほのかが言う。
須藤は一瞬、視線をそちらへ向けた。
「笑っていない」
「そうかなぁ。目がちょっと楽しそうだったよ」
「白瀬、余計な観察はしなくていい」
「でも大事だよ。楽しいと、たぶん無理するから」
ほのかの声は柔らかいが、内容は鋭かった。
須藤は答えず、再び剣を構える。金色の光が揺れる。継続して《看破》を使っている。読める情報が多いほど、須藤は強い。だが、多すぎる情報は負荷にもなる。
蒼真はそこで、初めて自分の役割が違って見えた。
去年は、須藤の読みをどう外すかだけを考えていた。直射、曲射、投げナイフ、《小転移》。自分一人の奇策で、須藤の外側へ出ることを考えていた。
今は違う。
真田の盾がある。凛の火がある。ほのかの支援がある。その中に蒼真の矢が一本加わるだけで、須藤が読むべき盤面が増える。
自分の矢は、単独で相手を倒すためだけのものではない。
強い相手に、選択肢を増やさせすぎる一本にもなる。
「次、仕掛ける。天城、右奥の魔法使いを下げさせろ。神代は須藤の後退先」
「分かった」
「任せて」
凛が杖を上げる。
「《炎槍》!」
火の槍が訓練場を走る。相手魔法使いが防御に回り、須藤の背後支援が一瞬鈍った。
真田が盾ごと前へ出る。
須藤は真田の踏み込みを読んだ。剣を低く滑らせ、盾の下を突くように体を沈める。
その後退先へ、蒼真は矢を置いた。
当てに行く矢ではない。須藤が真田を崩すために必要な半歩を潰す矢。
須藤の瞳が金色に瞬いた。
剣が止まる。
真田の盾が須藤の肩口を押し返した。
「そこまで!」
教官役の上級生が声を上げる。
短い模擬は終了した。勝敗としては、真田班の有利判定。決定打はない。けれど、須藤は真田を抜けなかった。
蒼真は弓を下ろし、右手の指を軽く開閉した。重藤弓の張力で、手のひらがじんと痺れている。
「神代」
須藤が歩いてくる。
息は乱れていない。ただ、眉間に浅い皺が寄っていた。
「前より厄介になった、は訂正する」
「弱くなった?」
「違う。お前一人なら、まだ読める。重藤弓は重い分、起点が分かりやすい」
「うん。そこは自覚してる」
「だが、真田と天城がいると、お前の矢を無視できない。かといって、お前だけ見ても盾と火に潰される」
須藤は淡々と言った。
褒めているのか、分析しているだけなのか分からない声だった。
「結論は?」
「面倒になった」
「さっきと同じじゃないか」
「質が違う」
凛が横から腕を組む。
「それ、私と真田が優秀ってことよね」
「そうだ」
「……あっさり認めるのね」
「事実だからな」
凛は一瞬だけ言葉に詰まった。ほのかが楽しそうに笑う。
「凛ちゃん、褒められてるよ」
「分かってるわよ」
「顔、ちょっと嬉しそう」
「ほのか」
高校生らしいやり取りの隣で、真田は盾を肩に担ぎ直した。
「神代、今の二射目は良かった。急所を狙わなかったから須藤が止まった」
「倒す矢じゃなくて、選ばせない矢」
「そうだ。Sクラスの相手は、一発で倒せる前提にしない方がいい。特に須藤はな」
須藤が顎を引く。
「僕を教材にするな」
「強い相手は教材になる」
「真田、お前は時々、遠慮がない」
「班長だからな」
須藤は何も言い返さなかった。
それから蒼真を見る。
「次は、僕の班全体で読む。今日のようにはいかない」
「俺も、次までにもう少し重藤弓に慣れる」
「慣れすぎるな。読みにくくなる」
「それは困る?」
「困る。だから面白い」
須藤はそう言ってから、すぐに口を閉じた。
凛が眉を寄せる。
「今、笑った?」
「笑っていない」
「ほのか、どう思う?」
「目は笑ってたと思う」
「白瀬まで天城側に付くな」
須藤の表情は、やはりほとんど変わっていなかった。
それでも、訓練場の空気は軽くなった。去年の演武場で向き合った時のような、勝つか負けるかだけの張り詰めた線ではない。同じSクラスで、互いの班を背負いながら競う相手。
蒼真は弓を握り直した。
重藤弓はまだ重い。須藤にも、起点が分かりやすいと言われた。扱えていない部分は、隠しようがない。
けれど、その重い一射が、真田の盾と凛の火の間に置かれた時、須藤の《看破》ですら読むべき線が増える。
それは、今の蒼真がSクラスにいる意味の一つなのだと思えた。
単独の奇策だけではない。
強者同士がぶつかる盤面に、もう一本、厄介な線を増やす弓術士。
蒼真はメンテナンスノートに書く言葉を、頭の中で一つ決めた。
須藤大河は笑わない。
けれど、笑わないまま、次の勝負を楽しみにしている。
そして自分も、同じような顔をしているのかもしれない。




