第131話 川崎の壁
五月上旬の第4層は、相変わらず空が高かった。
立川ダンジョンの中だというのに、頭上には青い空が広がり、草原には柔らかな風が流れている。日差しは春より強く、草の匂いは第1層や第2層の岩肌とはまるで違う。
けれど、橘悠斗の手のひらには、槍の柄を握る汗がじっとりと浮いていた。
第1層から第3層までは、ほとんど通過階層になっていた。去年の春にはゴブリン一体で全員が騒いでいたのに、今は紅葉の索敵で最短ルートを拾い、必要な戦闘だけを処理して降りてくる。そこまでは順調だった。
問題は、ここからだ。
蒼真がいない第5班として、第4層で戦う。
その言葉を頭の中で言い直すたびに、悠斗の喉が乾いた。
「紅葉、敵は?」
「正面やや右。狼型三、コボルト二。距離、まだあるけど、こっちに気づいてる」
鬼塚紅葉は草の揺れを見ながら、いつもより低い声で答えた。視線は忙しく動いているが、足は浮かない。蒼真がいた頃と同じように、敵を見る役目を自分のものとして握っている。
悠斗は息を吸った。
「よし。航、右寄りで受ける。俺が左前。里奈、川崎、壁で進路を狭めてくれ。真帆は後ろから見て、危なかったら盾。余裕あったら《光矢》」
「了解。悠斗、左に行きすぎるなよ」
「分かってるって」
「分かってる時のお前は、だいたい一歩多い」
「今それ言う?」
「今言わないと間に合わない」
宮瀬航の冷静な声に、悠斗は思わず口元を曲げた。緊張しているのに、こういう返しがあるだけで足が前へ出る。
横で川崎麻衣が杖を握り直していた。茶色のショートカットが風に揺れ、白い頬に力が入っている。
「川崎さん、大丈夫?」
中村里奈が小さく聞いた。
「大丈夫。私、右側を閉じます。中村さんは左側をお願いします」
「うん。じゃあ、真ん中は空けるね」
「はい。そこに来た敵を、沼で遅くします」
二人の声は派手ではない。けれど、言葉の間に迷いはなかった。
悠斗は槍を構え、前へ一歩出た。
「来るぞ!」
草むらが割れた。
低く走る狼型の魔物が三体。後ろから棍棒を持ったコボルトが二体続く。第4層の敵は速い。ゴブリンのように真正面から来るだけではなく、左右へ散って、前衛の横を抜けようとする。
以前なら、そこで蒼真の矢が飛んでいた。
最初の一体の脚、次の一体の頭、逃げようとした敵の進路。蒼い軌跡が、悠斗たちの届かない場所に先回りしていた。
今日は、その矢がない。
代わりに、地面が動いた。
「《土壁》」
川崎の杖先から茶色い魔力が流れ、草原の土が盛り上がる。右側から回り込もうとした狼型の前に、腰ほどの高さの土壁が斜めに生えた。完全に塞ぐ壁ではない。だが、右へ抜ける道を嫌わせるには十分だった。
「《氷壁》」
続けて里奈の白い息が混じった声が響く。左側に氷の壁が立ち、日差しを受けてきらりと光った。土の壁と氷の壁。二枚の壁が、広い草原の中に細い通路を作る。
魔物の進路が真ん中へ寄った。
「航!」
「来てる」
航が盾を前に出し、最初の狼型の突進を受けた。低い衝撃音。盾越しに押された航が半歩下がるが、右足で踏み止まる。
悠斗は左から槍を突き出した。
「っらあ!」
槍の穂先が狼型の肩を捉える。致命傷ではない。だが、航の盾で止まった敵は動けず、二撃目を避けられなかった。悠斗は踏み込み直し、首筋へ槍を叩き込む。狼型が粒子になって崩れ、魔石が草の上に落ちた。
「次、コボルト二体、真ん中に詰まってる!」
紅葉の声が飛ぶ。
川崎が一歩前へ出た。
「《泥沼》」
指定された地面が、草ごと黒く湿った。コボルトの足が沈み、棍棒を振り上げた姿勢のまま動きが鈍る。完全に止まるわけではない。けれど、速さを奪われた魔物は、航の盾と悠斗の槍の前ではただの的だった。
「里奈、足元、足して!」
「うん。《氷床》」
泥の縁が凍り、抜け出そうとしたコボルトの足が滑った。泥で重くなり、氷で踏ん張れない。二つの魔法が重なった瞬間、魔物の動きが目に見えて乱れる。
真帆が杖を構えた。
「《光矢》」
白い光の矢が、棍棒を振り上げたコボルトの顔の横を掠める。威力だけなら里奈の氷矢や川崎の土礫ほどではない。だが、魔物の意識を逸らすには十分だった。
「真帆、ナイス!」
「今のは当てるつもりでした!」
「じゃあもっとナイス!」
「褒め方が雑です!」
真帆の声が高くなる。戦闘中なのに、悠斗は笑いそうになった。
笑えるなら、まだ大丈夫だ。
航が盾を押し込み、よろけたコボルトの胴を片手剣で斬る。悠斗がもう一体の膝を槍で払う。紅葉が右奥から抜けようとした狼型に短剣を投げ、進路を一瞬だけ変えた。
「川崎、右、壁の裏から来る!」
「見えました。《土礫》」
土の弾丸が、壁を迂回してきた狼型の横腹に当たる。強烈な一撃ではない。だが、横へ弾かれた狼型は、里奈の氷壁の端にぶつかって体勢を崩した。
「悠斗!」
「任せろ!」
悠斗は槍を短く持ち替え、崩れた狼型へ踏み込む。蒼真なら矢で頭を抜いただろう。だが、今の第5班には、土壁で曲げ、氷壁で寄せ、泥沼と氷床で遅くし、前衛が届く場所へ敵を連れてくる戦い方がある。
槍の穂先が狼型の首を貫いた。
最後の一体が粒子化し、草原に静けさが戻る。
「……終わり?」
真帆が小さく聞いた。
紅葉は数秒だけ耳を澄ませるように周囲を見回してから、小剣を納めた。
「近くにはいない。たぶん、大丈夫」
「よっしゃあ!」
悠斗は槍を掲げかけて、航に視線で止められた。
「声がでかい」
「勝った時くらい良くない?」
「第4層でそれをやると、次を呼ぶ」
「はい」
素直に槍を下げると、紅葉が小さく吹き出した。
「班長、今の返事、早かったね」
「俺、成長してるからな」
「声量以外も成長して」
「紅葉、今日ちょっと厳しくない?」
「いつもだよ」
軽口が戻ったところで、川崎が自分の作った土壁の前に歩いていった。壁はまだ形を保っている。草原の土を無理やり盛り上げたような壁だが、魔力が抜けるまでは崩れない。
川崎はその表面にそっと手を置いた。
「……邪魔に、なりませんでしたか」
小さな声だった。
けれど、全員に聞こえた。
里奈が一番先に首を振った。
「ならなかったです。むしろ、すごく助かりました。私の氷壁だけだと、右が空きすぎてたと思います」
「俺も助かった。右を閉じてくれたから、盾を正面に置けた」
「紅葉も、進路が読みやすかった。敵が迷うから、動き出しが分かる」
「私も攻撃できました。いつもより、怖くなかったです」
川崎は目を大きくした。
Sクラスで見せ場が少なかった地魔法。前の班では、前衛の動線を塞がないように気を使いすぎていた魔法。
その壁が、今は全員の言葉の中心にある。
「川崎」
悠斗が槍を肩に乗せたまま言った。
「さっきの壁、俺、めちゃくちゃ分かりやすかった。右に行かなくていいって、体で分かった。だから、次もあれで頼む」
「……はい」
「あと、沼。あれ、えぐいな。敵の足、すっげえ嫌そうだった」
「魔物の表情は、あまり分からないと思います」
「いや、分かるって。絶対『うわ、足取られた』って顔してた」
「悠斗の顔は、だいたい分かりやすいからな」
「航、それ俺の話?」
川崎の口元が緩んだ。
それを見て、里奈もほっとしたように笑う。
蒼真が抜けた穴は大きい。弓の射線は、もうこの班にはない。けれど、穴があるから崩れるのではなく、穴を別の形で埋めることはできる。
その手応えが、草原の風の中に確かに残った。
◇◆◇
その日の放課後、学院の訓練場前の廊下で、蒼真は悠斗から話を聞いた。
待ち合わせをしていたわけではない。蒼真が弓術用レーンから出たところで、寮へ戻る途中の悠斗たちと鉢合わせただけだ。だが、悠斗は蒼真を見るなり、両手を大きく広げた。
「蒼真、聞け。俺たち、今日めちゃくちゃ壁だった」
「壁?」
「壁。川崎の土壁と里奈の氷壁で、敵をぎゅってやって、沼でぐちゃってして、氷でつるってさせて、俺と航でどんってやった」
「説明が全部擬音だな」
航が横から補足する。
「川崎の《土壁》と里奈の《氷壁》で進路を限定した。《泥沼》と《氷床》を重ねて速度を落として、前衛で各個撃破。真帆も《光矢》を使う余裕があった」
「なるほど」
蒼真は自然と足を止めていた。
頭の中に、配置図が浮かぶ。自分の射線がない第5班。だが、代わりに土と氷の壁があり、泥と氷の床がある。敵を遠くで倒すのではなく、倒しやすい場所まで運んでから前衛が仕留める戦い方。
蒼真がいた頃とは、全然違う。
「すごいな」
思ったより素直な声が出た。
悠斗が一瞬だけ目を瞬かせる。
「え、そこは『俺がいないと寂しいな』とか言う流れじゃないのか?」
「寂しくないわけじゃない。でも、すごいと思った」
「お、おう。そう言われると、なんか照れるな」
「悠斗、褒められ慣れてないから」
「航、余計なこと言うな」
少し後ろにいた川崎が、蒼真へ小さく頭を下げた。
「神代くんがいた第5班とは、違う形になっていると思います」
「うん。聞いただけでも、全然違う」
「……それでも、第5班でいいんでしょうか」
川崎の声には、不安が混じっていた。
蒼真は一度だけ、弽の親指の革を指先で押さえた。そこには今日も弦の感触が残っている。自分が握っていたものと、今の第5班が握っているものは違う。
だからこそ、続いている。
「いいと思う。俺がいた時と同じ戦い方をする必要はないし、同じだったら、たぶん川崎の魔法が活きない」
「……はい」
「俺が抜けた場所に、壁が立ったんだな」
悠斗が黙った。
それから、にっと笑う。
「なんか今の、かっこいいな。俺が言ったことにしていい?」
「だめだ」
「即答かよ!」
紅葉と真帆が笑い、里奈も肩を揺らした。
蒼真はその輪を見て、息を吐く。自分がいない第5班が進んでいる。その事実は寂しい。けれど、寂しさよりも先に嬉しさが来た。
それぞれの場所で、ちゃんと強くなっている。
蒼真は鞄の中のメンテナンスノートを思い出した。今日の訓練の記録には、重藤弓と凛の火のことを書くつもりだった。けれど、その下に一行だけ加えようと思う。
旧第5班は、矢のない戦い方を始めている。
廊下の窓から差し込む五月の光は、草原の太陽よりずっと淡い。それでも、蒼真の中に残った手応えを照らすには十分な明るさだった。




