第130話 火と矢の間
翌日の放課後、訓練場の空気は草原の記憶をまだ指先に残しているようだった。
ここは学院の屋内訓練場だ。床は魔導素材の板で、壁際には標的用の魔導人形が並び、天井の照明は第4層の太陽らしき光とは違う。風もない。
それでも神代蒼真の指先には、昨日の第4層で踏んだ草の感触が残っていた。狼の低い走り。コボルトが左右へ散る動き。重藤弓を引き分ける間に、一拍だけ世界から置いていかれる感覚。
真田から出された宿題は短かった。
撃つ一本と、撃たない一本の判断を早くしろ。
その言葉をメンテナンスノートに書いた上で、今日の放課後に後衛連携レーンを取った。
「それで、どうして私まで呼ばれるの」
隣で天城凛が杖を肩に軽く当てながら言った。
「第4層で、天城の火が敵の進路を狭めた。あれに合わせれば、重藤弓でも撃てる場面を増やせると思った」
「昨日も合わせていたでしょ」
「まだ足りない。俺が撃ってから天城が火を置く時と、天城が撃った後に俺が撃つ時で、射線がぶつかる」
凛は一瞬、黙った。
その沈黙が、図星を突かれた時のものだと蒼真にも分かるようになってきた。
「……火は広がるのよ。矢みたいに細くない」
「分かってる。だから、火の外側を使いたい」
「簡単に言うわね」
「簡単じゃないから、練習する」
凛の眉が動いた。
言い返すと思っていたのに、蒼真がそのまま受け止めたからだろう。昨日の草原で、凛に言われた「呼吸が一つ増えている」という指摘が、まだ胸に残っている。
「二人とも、始める前から火花散らさないでね」
白瀬ほのかが、少し離れた場所で笑った。杖の先にはまだ白い魔力が灯っていない。今日は攻撃でも回復でもなく、外から見る役を買って出てくれている。
「散らしてないわ」
「今のはちょっと散ってたよ、凛ちゃん」
「ほのか」
「はい。見ます」
訓練レーンの奥で、三体の魔導人形が起動する。狼型ではなく、細い脚を持つ小型の魔導人形だ。左右への回避と低い姿勢を再現する設定にしてある。昨日の第4層の敵ほど速くはないが、射線を外す動きは似せられていた。
蒼真は重藤弓を構え、矢を番える。
右肩から背中に、張力が重く乗った。訓練場の明るい空気の中でも、重藤弓は草原と同じだけ重い。
「最初は俺が先に撃つ。天城は、抜けた一体を火で止めてくれ」
「了解」
凛の短い返事と同時に、魔導人形が走り出した。
蒼真は中央の一体へ狙いを置く。引き分け。胸の前から、弦が少しずつ離れていく。狙いが整うまでの一拍。その間に、右の人形が外へ逃げた。
「急所」
真田に言われた通り、短く告げて離す。
蒼い軌跡が中央の人形の頭部を貫き、魔導人形の輪郭が赤く点滅した。撃破判定。だが、その直後、凛の《炎槍》が右の人形へ一直線に伸びた。
細く鋭い炎が、矢の射線とほとんど同じ高さを走る。
蒼真は二射目を番えようとして、手を止めた。炎の残光が揺れ、標的の輪郭が一瞬だけ歪む。そこへ無理に撃てば、当てられない。
「無理」
言葉を置く。
右の人形は《炎槍》に胴を撃たれて止まったが、左の一体がその間に抜けた。ほのかの足元近くに判定用の赤い線が走り、訓練場の端で警告音が鳴る。
「一体通過。今の、火力は足りてたけど、二人の攻撃が同じ線に重なったかも」
ほのかが穏やかに言った。
凛の《炎槍》は、通ればそれだけで止められる。だからこそ、蒼真の矢と同じ中心を奪い合った。
「私が悪いの?」
「悪いって話じゃないよ。凛ちゃんの《炎槍》は真っ直ぐ強いから、神代くんの矢と見たい場所が似てるんだと思う」
「同じところを見すぎ、か」
蒼真が呟くと、ほのかは嬉しそうに頷いた。
「うん。二人とも、倒したい敵の中心を見てる。だから強いんだけど、同じ敵を同じ角度で倒しに行くと、片方が余るんじゃないかな」
「余るって、私の火が余計みたいに言わないで」
「違う違う。凛ちゃんの火が強いから、そこに神代くんの矢まで重ねるともったいないってこと」
凛は視線を逸らした。
褒められた時の凛は、怒るより先に困る。蒼真はそれを見て、重藤弓の握りを握り直した。
蒼真は一度、訓練レーンの奥を見た。
凛の火は、ただ敵を動かすための道具ではない。正面から当たれば、魔導人形の判定を一撃で赤く染めるだけの火力がある。第4層でも、コボルトを焼き切った。
だからこそ、全部を火に任せればいい、ではない。
凛が倒し切る火を撃つ場面と、蒼真が矢を置くために火の外側を使う場面。その二つを分けられなければ、強い火も強い矢も互いの邪魔になる。
「凛ちゃんの火力を弱く使う練習じゃなくて、強い火を無駄にしない練習だね」
ほのかが横から言う。
凛はまた視線を逸らした。
「……そういうことなら、まだ分かるわ」
「じゃあ、次は天城が先に撃つ。俺は火から逃げる側を狙う」
「私が動かして、あなたが撃つってこと?」
「そうだ」
「私が撃った後に合わせなさい。炎の外側が一瞬だけ空くから、そこに入れればいい」
「合わせるだけじゃなくて、先に置く」
凛の碧い目が、蒼真へ向いた。
「先に?」
「天城の火が来たら、魔導人形は火を避ける。避ける先は、たぶん火の弱い方だ。そこに、俺が先に狙いを置く」
「外したら?」
「外れる」
「開き直らないで」
「でも、見てから引いたら間に合わない。重藤弓は遅い。だったら、来る場所に置くしかない」
凛は黙って蒼真を見た。
昨日の草原で言われたことを、そのまま別の形にしている。迷う時間を削る。撃つと決める前に、撃つ場所を決めておく。
「……分かったわ。外しても、文句は言わない」
「珍しいな」
「練習で文句を言っても仕方ないでしょ。本番で外したら言うわ」
「結局言うのか」
「当然」
ほのかが「二人とも、今の会話ちょっと息合ってたね」と小さく言った。
凛は聞こえないふりをした。蒼真も、聞こえなかったことにした。
次の起動音が鳴る。
三体の魔導人形が、今度は最初から左右へ散る設定で走り出した。凛が杖を前へ出す。杖先に火の魔力が収束し、空気が揺れた。
「《炎槍》」
炎の槍が、正面左へ走る。
魔導人形は炎を嫌うように右へ逸れた。蒼真はその動きそのものを見る前に、右側の空いた線へ矢を置いていた。
「足止め」
急所ではない。だが、脚なら止められる。
離れ。
蒼い軌跡が炎の残光の外側を通り、右へ逃げた魔導人形の膝関節を撃ち抜いた。撃破ではない。けれど、人形の姿勢が崩れ、後続の一体が進路を詰まらせる。
「いい」
凛の声が短く飛んだ。
続けて彼女の《火球》が、詰まった二体の足元に落ちる。爆ぜた火が床を赤く照らし、二体の動きを止めた。
蒼真は二射目を番える。遅い。重い。それでも、止まっている敵なら間に合う。
「急所」
引き分け、狙う。
矢は一拍遅れて、片方の胸部を貫いた。撃破判定。残った一体は凛の二発目の《炎槍》で赤く点滅し、訓練レーンに終了音が響いた。
蒼真は息を吐く。
矢は二本。撃破は一体と足止め一体。昨日の戦闘より、判断が早かった。
「今の、最初の矢は倒す矢じゃなかったね」
ほのかが近づきながら言う。
「ああ。足を止める矢にした」
「急所を狙えないから撃たない、じゃなくて、急所を狙わない矢に変えたんだ」
「真田に言われた三つのうちの一つだ。急所、足止め、無理」
「うん。分かりやすい。私も盾を置く時、何を守ればいいか早く分かるかも」
ほのかはそう言ってから、凛の方を見る。
「凛ちゃんも、今の火、神代くんの矢を待ってたよね」
「待ってないわ。詰まったから撃っただけ」
「詰まるのを待ってたんじゃないの?」
「ほのか」
「はい。黙ります」
凛は軽く息を吐き、蒼真へ向き直る。
「今のは、悪くなかった」
「前にも聞いたな、それ」
「悪くないものは悪くないと言うわ」
「じゃあ、良い時は?」
「調子に乗るから言わない」
「厳しいな」
「あなた、言わなくても勝手に反省するでしょ。褒めるより、足りないところを言った方が伸びるわ」
蒼真は思わず苦笑した。
確かに、自分は反省する。良かった部分より、届かなかった部分を先にノートへ書く。凛はそれをもう知っている。
「でも、今の一本は覚えておく」
蒼真が言うと、凛の表情がわずかに緩んだ。
「覚えるだけじゃなくて、次もやりなさい」
「やる」
短く返して、蒼真は次の矢を抜いた。
その後も、訓練は続いた。
凛が《火球》で面を作れば、蒼真は火の弱い端へ矢を置く。凛が《炎槍》で一本の線を貫けば、その線から逃げる敵の膝を狙う。蒼真が先に足止めを宣言した時は、凛が倒し切る火を重ねた。
凛が最初から撃破を選ぶ回もあった。《火球》が魔導人形の胴を直撃し、蒼真が矢を番える前に赤い撃破判定が灯る。火力職としての凛の一撃は、やはり速く、強い。蒼真はそこで無理に矢を重ねず、次に逃げる一体へ狙いを移した。
失敗もあった。先置きが早すぎて魔導人形が別方向へ逃げ、炎の揺らぎで蒼真が狙いを捨てたこともある。そのたびに、蒼真は「無理」と短く告げ、凛は次の火の角度を変えた。
ほのかは外から見て、二人の間に言葉を置いた。
「今のは、凛ちゃんが左に寄せたら、神代くんの射線が残るかも」
「神代くん、先に置く時、肩が早く固まってる。焦ってる時だけ」
「二人とも、倒した後に次を見てるのは早いんだけど、同じ次を見てる時があるね」
柔らかい声なのに、指摘は鋭い。
蒼真は何度目かの終了音の後、重藤弓を下ろして左手を開いた。握りに触れていた手のひらが張っている。肩も重い。だが、昨日の草原で感じた置いていかれるだけの重さとは違った。
重藤弓は相変わらず遅い。けれど、凛の火が敵を動かすなら、遅い矢でも間に合う場所がある。
火と矢が同じ場所を奪い合うのではなく、火が敵を動かし、矢が動いた先を射抜く。
それは、一年次の第5班で覚えた「仲間の力で撃つ」と似ていて、少し違う。火そのものが戦場の流れを変える。
「天城」
蒼真は矢を矢筒へ戻しながら言った。
「何」
「火の外側、もっと見たい。次は、最初から逃げ道を二つに絞ってくれないか。俺は片方に置く。もう片方は、天城が焼く」
凛は一瞬だけ目を見開いた。
それから、口角を上げる。
「注文が多いわね」
「無理か?」
「できるわよ」
即答だった。
凛の杖先に、再び火の魔力が灯る。先ほどより細く、けれど鋭い。蒼真はその火を見ながら、重藤弓を構え直した。
「私が撃ったら、右へ逃げる。左は潰す。あなたは右に置きなさい」
「了解」
「遅れたら?」
「無理と言う」
「逃げたら?」
「次に合わせる」
「外したら?」
「反省する」
「そこは当てるって言いなさいよ」
ほのかが小さく吹き出した。
蒼真も笑ってから、弽の革へ親指を乗せる。
「当てる」
「最初からそう言いなさい」
起動音。
魔導人形が走る。
凛の《火球》が左を塞ぎ、《炎槍》の火が中央を切る。右側に細い逃げ道が生まれた。蒼真はそこへ狙いを置く。
見てからではない。
来ると決めて、待つ。
「急所」
離れた矢は、炎の端を掠めるようにして右へ走った。
魔導人形が逃げ込んだ瞬間、蒼い軌跡が胸部中央を貫く。撃破判定の赤い光が、火の残光と重なって弾けた。
訓練場に終了音が響く。
凛は杖を下ろし、短く息を吐いた。
「今のは、良かった」
蒼真は顔を上げた。
「言うのか」
「言わないと、次も同じことをやらない可能性があるでしょ」
「やる」
「ならいいわ」
ほのかが二人の間で、満足そうに頷いた。
「火と矢の間、見えてきたね」
その言葉は、妙にしっくりきた。
火の中ではなく、火の外でもない。火が作った隙間。矢が届くための細い道。
蒼真は重藤弓の重さを左手に感じながら、メンテナンスノートへ書く言葉を決めた。
凛の火は敵を動かす。動いた先に、矢を置く。
急所だけではない。足止めも、無理も、次の一射を作るための判断になる。
窓の向こうで、春の夕方の光が床に長く伸びていた。
昨日の草原より狭い場所で、蒼真は重藤弓の重さを味方にする道を一つ見つけた。




