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蒼弓の軌跡 ~探索者学院唯一の弓術士は静かに頂を狙う~  作者: 七夜灯
第六章 Sクラスの弓術士編

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第129話 重い弓、速い敵

 春の光に揺れる草原の先で、また別の足音が風に混ざった。


 綾瀬律が顔を上げた瞬間、真田誠の大盾が半歩前へ出る。久我晴臣は肩に担いでいた大剣を下ろし、天城凛は杖の先を草の上へ向けた。白瀬ほのかの白い魔力が、まだ術にならないまま指先に灯る。


 神代蒼真は矢を抜き、弽の革へ右手の親指を乗せた。

 戦闘直後の背中には汗が残っている。第4層の草原は明るく、風も穏やかだった。それでも、次の足音が近づく気配だけははっきり分かった。

 重藤弓は、肩に掛けているだけでも重い。けれど本当に重くなるのは、弦に指を掛け、胸の前から引き分ける時だ。


「正面やや右。狼二、コボルト三。距離はさっきより近いです」


 綾瀬の報告は短い。

 風が草を鳴らす中で、それでも足音だけを拾っている。屋内訓練場とは違う、生き物の足が土を蹴る音だ。


「真田、右の草、揺れてる」


 蒼真が言う。


「見えてる。久我、右の狼を外へ逃がすな。天城は中央を止めろ。白瀬、俺の右脇。神代は最初の一体を落とせるなら落とせ」

「了解」

「おう」

「分かったわ」


 返事が重なった直後、草むらが裂けた。

 灰色の狼が低く走る。地面を滑るような速さだった。続いて、短い棍棒を持ったコボルトが三体。さっきの群れよりも散り方が早い。正面に来るように見せて、左右へ広がる。


 蒼真は一体目の狼へ狙いを置いた。

 距離は十分。射線も通っている。だが、重藤弓は引き分けるまでに一拍を要求する。

 右肩から背中にかけて、弓の張力がずしりと乗った。弦が戻ろうとする力に、指先と肩が揺れる。狙いを整える前に、狼の頭が草の影へ沈んだ。


「神代?」


 真田の声が飛ぶ。


「まだ」


 蒼真は短く返した。

 撃てる。撃つだけなら撃てる。だが急所に入らない。狼の肩を掠めても、この速さなら止まらない。外せば、次の矢は間に合わない。


「久我、受けるな。流せ」

「分かってる!」


 久我が大剣を低く構え、狼の進路へ刃を置く。狼は刃の手前で跳ね、右へ抜けた。久我は追いすぎず、半歩だけ戻る。


「中央、焼く」


 凛の《火球(ファイアボール)》が草の間で弾けた。

 炎は広がらず、コボルト二体の足元だけを赤く照らす。魔物が本能的に足を止めた刹那、真田が盾を前へ出した。


「神代、左のコボルト。いけるか」

「いける」


 今度は見えた。

 火を嫌って中央から左へ逃げようとしたコボルトの顔が、一瞬だけ上がる。蒼真はそこへ矢を置いた。

 離れの瞬間、重藤弓が手の内を持っていこうとした。押し手が浮く。それでも矢は蒼い軌跡を残して、コボルトの喉を真っ直ぐに貫いた。

 今までの和弓なら、細い首を射抜いても勢いを殺しきれず、魔力の込め方次第では追撃が要ったかもしれない。

 重藤弓の一射は違った。

 矢は喉を抜け、背中側へ突き破るように光り、コボルトの身体を粒子に変えた。


「一体」


 蒼真が告げる。


「強いな、今の!」


 久我が短く笑う。


「見てないで前見て」

「見てねえよ!」

「見てたわよ」


 凛の声が冷たい。

 久我が返す間に、残った狼が真田の盾の右を抜けようとした。ほのかの《光盾(ライトシールド)》が斜めに生まれ、低い爪を受ける。白い光に弾かれた狼が横へ跳ねた。


「神代、次」


 真田が言う。


「まだ矢が番えられてない」


 言葉にした瞬間、蒼真の胸が詰まった。

 いつもの和弓なら、もう二射目の狙いに入れていた。遅れているのは、矢を番えた後だ。重藤弓を引き分け、狙いを止めるまでの時間。


「なら撃つな。久我、右」

「おう!」


 久我が戻る。大剣が狼の胴へ叩き込まれ、粒子が弾けた。

 残ったコボルト二体のうち、右の一体が真田の盾を嫌って外へ跳んだ。

 凛の杖先に集まった火が、そこで一気に膨らむ。


「《火球(ファイアボール)》」


 火球は足元ではなく、コボルトの胴を狙って弾けた。爆ぜた赤い光が棍棒ごと細い身体を呑み込み、魔物を一息で粒子へ変える。

 進路を狭める火ではない。凛の本来の役割である、敵を焼き落とす火だった。

 もう一体のコボルトは、その火を嫌って半歩遅れる。綾瀬が位置を変え、足元へ罠具を投げた。細い縄が草の間で跳ね、コボルトの足首に絡む。


「止めました」

「神代」

「今度は間に合う」


 蒼真は息を吸う。

 罠で半歩止まったコボルトの胸元へ、重藤弓の矢を置いた。急所ではないが、胸郭を割る角度には入っている。

 離れ。

 蒼い軌跡が草の上を走り、コボルトの胸を貫いた。魔物は後ろへ吹き飛ぶように崩れ、粒子になる。

 威力は圧倒的だった。

 急所に近ければ、魔力集中射に頼らずとも仕留めきれる。


 それなのに、胸は晴れない。

 最後のコボルトは真田の盾に弾かれ、凛の火に足を止められ、久我の大剣で割られた。戦闘自体は短く終わった。魔石が五つ、草の上に転がる。


「……二射しか撃てなかった」


 蒼真は、自分でも思ったより小さな声で言った。


「二射で二体落としたなら十分だろ」


 久我が魔石を拾いながら言う。


「落とせたから、だ。外してたら、何もしてない時間が長すぎた」

「真面目だなあ」

「いや、神代の言う通りだ」


 真田が盾を下ろさずに言った。


「一射の重さは大きい。だが、次の矢が遅れる。第4層の敵は待たない。今の戦闘は、白瀬の盾と綾瀬の罠が遅れを埋めた」

「はい。僕の罠がなければ、三射目はもっと難しかったと思います」

「私も、狼が見えてから盾を出したら遅いね。次は、真田くんの右に最初から置く感じで準備する」


 ほのかが自分の杖を見ながら言う。

 彼女の声は責めていない。その分だけ、蒼真の胸は余計に重くなった。


「神代」


 凛が、焼け跡のない草を見ながら言った。


「威力は、前の弓とは別物ね」

「分かるのか」

「見れば分かるわ。矢の入り方が違う。コボルト程度なら、急所に近ければそれだけで落ちる。火力だけなら、選んだ意味はある」

「火力だけなら?」

「その代わり、隙も大きい。構えてから離れまで、あなたの呼吸が一つ増えてる」


 蒼真は言い返せなかった。

 凛は鋭い。こちらが感覚でしか掴めていない遅れを、外から見て言葉にする。


「でも、戻す気はないでしょ」


 ほのかが穏やかに言った。


「え?」

「前の弓の方が扱いやすいって分かってても、神代くん、今の弓を手放す顔じゃないよ」


 久我が大剣の柄を肩に乗せて笑う。


「分かる。重いけど強い武器って、いいよな」

「久我と同じにしないで」

「なんで天城が否定すんだよ」

「何となく」


 軽いやり取りに、空気が緩んだ。

 蒼真は重藤弓の握りを左手で包む。


「戻す気はない」


 言葉にしてみると、思ったよりはっきりしていた。


「今の弓は遅い。俺が遅くしてる。けど、急所に入った時の威力は、前の弓じゃ出せない。これを知った後で、扱いやすいから戻すっていうのは、たぶん違う」

「弓に引かれるな、だったか」


 真田が言う。

 蒼真は驚いて顔を上げた。


「覚えてたのか」

「前に言っていただろ。祖父からの言葉だと」

「……ああ」

「今は、半分引かれているように見える」


 容赦のない言葉だった。

 けれど、嫌ではなかった。真田は責めるためではなく、今の状態をそのまま置いている。


「だが、火力は班の武器になる。神代が使いこなせるようになるまで、こちらで隙を埋める。ただし、隙を埋めてもらう前提で甘えるな」

「分かってる」

「分かっているならいい。次からは、分かった上で一本減らせ」

「一本減らす?」

「撃てない矢を無理に引く時間を減らせという意味だ。撃つ一本と、撃たない一本の判断を早くしろ」


 蒼真は弽の親指を押した。

 撃てない時に撃てないと言う。それはついさっきで真田に求められたことだ。だが、その先がある。撃てないと分かるまでに時間を使いすぎれば、それも隙になる。


「撃つか、撃たないか。判断そのものを速くする」

「そうだ」


 凛が横から言う。


「弓を速く引けないなら、迷う時間を削るしかないわね」

「簡単に言うな」

「簡単ではないから言ってるのよ」


 ほのかが小さく笑った。


「凛ちゃん、言い方は厳しいけど、けっこう応援してるよね」

「してない」

「してる側の顔だよ」

「ほのかまで久我みたいなこと言わないで」

「俺、そんな悪い例か?」


 久我が傷ついた顔をしたので、綾瀬が口元を緩めた。


「久我くんは、分かりやすい例ではあります」

「律まで?」

「事実です」


 草原の真ん中で、短い笑いが生まれる。

 蒼真も息を抜いた。悔しさは消えない。重藤弓の扱えなさも変わらない。だが、この班は、その遅さをただ責めるだけではなかった。遅さを前提に、どう戦うかへ組み直してくれる。


 通信機は静かなままだった。

 後藤はここにいない。判断は真田がする。蒼真が遅れれば、その遅れを最初に受け止めるのは目の前の五人だ。

 その事実が、教官に見られている時よりもずっと重かった。


 草原の風が、矢羽を揺らした。

 蒼真は矢筒の残りを確認する。外していない。それでも、自分が動けなかった時間は確かにあった。


「神代くん」


 ほのかが隣に来て、声を落とす。


「たぶん、すぐには馴染まないよね」

「たぶんどころか、全然だ」

「でも、馴染ませるつもりなんだよね」

「ああ」

「じゃあ、大丈夫。私も早めに盾を置けるようにする。凛ちゃんも、必要なら焼き切ってくれるし、火で道を狭めてもくれるし」

「勝手に決めないで」


 凛が少し離れた場所から言う。


「やらないのか?」


 蒼真が聞くと、凛はまっすぐこちらを見た。


「やるわよ。あなたの遅さで班が崩れるのは困るもの」

「言い方」

「事実でしょ」

「事実だな」


 認めると、凛は拍子抜けしたような顔をした。


「……そこは言い返しなさいよ」

「言い返せるほど、今は使えてない」

「そう」


 凛はそれ以上言わなかった。

 けれど、その沈黙は突き放すものではない。認めた上で、次を待つ沈黙だった。


 真田が魔石の回収を確認し、盾を構え直す。


「今日はもう少し第4層を歩く。無理な深追いはしない。神代は次の戦闘から、撃つ前に一言置け。『急所』『足止め』『無理』の三つでいい」

「了解。急所、足止め、無理」

「短くていい。迷いまで説明するな」

「分かった」


 蒼真は頷き、メンテナンスノートに書くべき言葉を頭の中で先に置いた。

 重藤弓。威力は十分。速射性、大きく低下。撃てない矢を引かない。班に隙を預ける。

 そして、一番下にもう一行。

 この弓を、使いこなす。


 まだ遠い。

 たぶん、今年一年で届くものではない。三年になっても、すぐには無理かもしれない。

 それでも、遠いからこそ目標になる。


 蒼真は重藤弓を肩に掛け直し、足元の草を踏みしめた。


 風に、また小さな足音が混ざった。

 蒼真は今度こそ迷う前に息を整え、真田の背中へ短く告げる。


「正面左。急所を狙う」


 真田の盾が、静かにその射線を開いた。

 次の一射は、急所を外れた。それでも狼の肩を砕き、久我が戻るまでの時間を作った。完璧ではない。けれど、撃つと決めるまでの迷いはさっきより短かった。

 その後、真田は無理な深追いを選ばず、班を第4層の入口側へ戻した。魔石を回収し、矢数と消耗を確認し、通信機で探索終了を報告する。

 魔導通信機の向こうで後藤の声が「戻れ」とだけ返った時、蒼真はようやく、自分たちだけで第4層を歩いていたのだと実感した。


       ◇


 帰還後、管理棟脇の小会議室で後藤が報告書を眺めていた。

 机の上には真田が提出した探索記録と、綾瀬が書き込んだ敵接近方向の簡易図が置かれている。後藤は煙草のない指を口元へ持っていきかけて、管理棟内だと思い出したようにやめた。


「うん。初回にしては上出来だな」

「先生、今の上出来なんですか」


 蒼真が聞くと、後藤は眠そうな目で報告書の端を叩いた。


「課題がはっきりした。怪我もない。魔石も拾えた。通信で救援要請も来てない。上出来だろう。完璧じゃないと上出来じゃないなら、俺の教員生活は毎日不出来だ」

「それは、どうなんですか」

「聞くな。俺が傷つく」


 久我が噴き出し、ほのかが苦笑する。

 後藤は肩を竦め、報告書の蒼真の射撃記録へ視線を落とした。


「神代。重藤弓は高火力だが、高速連続射撃向きじゃない。今のお前には特にだ。狙撃銃を持って、拳銃みたいに撃とうとするな」

「狙撃銃……」

「当てる場所を選べ。撃つ場面を選べ。外した時の隙を班に共有しろ。お前が黙って遅れるのが一番まずい」

「はい」


 蒼真は頷いた。

 言葉は胸に落ちた。重藤弓は強い。だが、引けることと使いこなすことは違う。現場で誰かに助けられる前提ではなく、班へ先に隙を渡す必要がある。

 春の草原は明るい。敵は速い。弓は重い。

 だからこそ、ここから先の一射には、まだいくらでも変わる余地がある。

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