第129話 重い弓、速い敵
春の光に揺れる草原の先で、また別の足音が風に混ざった。
綾瀬律が顔を上げた瞬間、真田誠の大盾が半歩前へ出る。久我晴臣は肩に担いでいた大剣を下ろし、天城凛は杖の先を草の上へ向けた。白瀬ほのかの白い魔力が、まだ術にならないまま指先に灯る。
神代蒼真は矢を抜き、弽の革へ右手の親指を乗せた。
戦闘直後の背中には汗が残っている。第4層の草原は明るく、風も穏やかだった。それでも、次の足音が近づく気配だけははっきり分かった。
重藤弓は、肩に掛けているだけでも重い。けれど本当に重くなるのは、弦に指を掛け、胸の前から引き分ける時だ。
「正面やや右。狼二、コボルト三。距離はさっきより近いです」
綾瀬の報告は短い。
風が草を鳴らす中で、それでも足音だけを拾っている。屋内訓練場とは違う、生き物の足が土を蹴る音だ。
「真田、右の草、揺れてる」
蒼真が言う。
「見えてる。久我、右の狼を外へ逃がすな。天城は中央を止めろ。白瀬、俺の右脇。神代は最初の一体を落とせるなら落とせ」
「了解」
「おう」
「分かったわ」
返事が重なった直後、草むらが裂けた。
灰色の狼が低く走る。地面を滑るような速さだった。続いて、短い棍棒を持ったコボルトが三体。さっきの群れよりも散り方が早い。正面に来るように見せて、左右へ広がる。
蒼真は一体目の狼へ狙いを置いた。
距離は十分。射線も通っている。だが、重藤弓は引き分けるまでに一拍を要求する。
右肩から背中にかけて、弓の張力がずしりと乗った。弦が戻ろうとする力に、指先と肩が揺れる。狙いを整える前に、狼の頭が草の影へ沈んだ。
「神代?」
真田の声が飛ぶ。
「まだ」
蒼真は短く返した。
撃てる。撃つだけなら撃てる。だが急所に入らない。狼の肩を掠めても、この速さなら止まらない。外せば、次の矢は間に合わない。
「久我、受けるな。流せ」
「分かってる!」
久我が大剣を低く構え、狼の進路へ刃を置く。狼は刃の手前で跳ね、右へ抜けた。久我は追いすぎず、半歩だけ戻る。
「中央、焼く」
凛の《火球》が草の間で弾けた。
炎は広がらず、コボルト二体の足元だけを赤く照らす。魔物が本能的に足を止めた刹那、真田が盾を前へ出した。
「神代、左のコボルト。いけるか」
「いける」
今度は見えた。
火を嫌って中央から左へ逃げようとしたコボルトの顔が、一瞬だけ上がる。蒼真はそこへ矢を置いた。
離れの瞬間、重藤弓が手の内を持っていこうとした。押し手が浮く。それでも矢は蒼い軌跡を残して、コボルトの喉を真っ直ぐに貫いた。
今までの和弓なら、細い首を射抜いても勢いを殺しきれず、魔力の込め方次第では追撃が要ったかもしれない。
重藤弓の一射は違った。
矢は喉を抜け、背中側へ突き破るように光り、コボルトの身体を粒子に変えた。
「一体」
蒼真が告げる。
「強いな、今の!」
久我が短く笑う。
「見てないで前見て」
「見てねえよ!」
「見てたわよ」
凛の声が冷たい。
久我が返す間に、残った狼が真田の盾の右を抜けようとした。ほのかの《光盾》が斜めに生まれ、低い爪を受ける。白い光に弾かれた狼が横へ跳ねた。
「神代、次」
真田が言う。
「まだ矢が番えられてない」
言葉にした瞬間、蒼真の胸が詰まった。
いつもの和弓なら、もう二射目の狙いに入れていた。遅れているのは、矢を番えた後だ。重藤弓を引き分け、狙いを止めるまでの時間。
「なら撃つな。久我、右」
「おう!」
久我が戻る。大剣が狼の胴へ叩き込まれ、粒子が弾けた。
残ったコボルト二体のうち、右の一体が真田の盾を嫌って外へ跳んだ。
凛の杖先に集まった火が、そこで一気に膨らむ。
「《火球》」
火球は足元ではなく、コボルトの胴を狙って弾けた。爆ぜた赤い光が棍棒ごと細い身体を呑み込み、魔物を一息で粒子へ変える。
進路を狭める火ではない。凛の本来の役割である、敵を焼き落とす火だった。
もう一体のコボルトは、その火を嫌って半歩遅れる。綾瀬が位置を変え、足元へ罠具を投げた。細い縄が草の間で跳ね、コボルトの足首に絡む。
「止めました」
「神代」
「今度は間に合う」
蒼真は息を吸う。
罠で半歩止まったコボルトの胸元へ、重藤弓の矢を置いた。急所ではないが、胸郭を割る角度には入っている。
離れ。
蒼い軌跡が草の上を走り、コボルトの胸を貫いた。魔物は後ろへ吹き飛ぶように崩れ、粒子になる。
威力は圧倒的だった。
急所に近ければ、魔力集中射に頼らずとも仕留めきれる。
それなのに、胸は晴れない。
最後のコボルトは真田の盾に弾かれ、凛の火に足を止められ、久我の大剣で割られた。戦闘自体は短く終わった。魔石が五つ、草の上に転がる。
「……二射しか撃てなかった」
蒼真は、自分でも思ったより小さな声で言った。
「二射で二体落としたなら十分だろ」
久我が魔石を拾いながら言う。
「落とせたから、だ。外してたら、何もしてない時間が長すぎた」
「真面目だなあ」
「いや、神代の言う通りだ」
真田が盾を下ろさずに言った。
「一射の重さは大きい。だが、次の矢が遅れる。第4層の敵は待たない。今の戦闘は、白瀬の盾と綾瀬の罠が遅れを埋めた」
「はい。僕の罠がなければ、三射目はもっと難しかったと思います」
「私も、狼が見えてから盾を出したら遅いね。次は、真田くんの右に最初から置く感じで準備する」
ほのかが自分の杖を見ながら言う。
彼女の声は責めていない。その分だけ、蒼真の胸は余計に重くなった。
「神代」
凛が、焼け跡のない草を見ながら言った。
「威力は、前の弓とは別物ね」
「分かるのか」
「見れば分かるわ。矢の入り方が違う。コボルト程度なら、急所に近ければそれだけで落ちる。火力だけなら、選んだ意味はある」
「火力だけなら?」
「その代わり、隙も大きい。構えてから離れまで、あなたの呼吸が一つ増えてる」
蒼真は言い返せなかった。
凛は鋭い。こちらが感覚でしか掴めていない遅れを、外から見て言葉にする。
「でも、戻す気はないでしょ」
ほのかが穏やかに言った。
「え?」
「前の弓の方が扱いやすいって分かってても、神代くん、今の弓を手放す顔じゃないよ」
久我が大剣の柄を肩に乗せて笑う。
「分かる。重いけど強い武器って、いいよな」
「久我と同じにしないで」
「なんで天城が否定すんだよ」
「何となく」
軽いやり取りに、空気が緩んだ。
蒼真は重藤弓の握りを左手で包む。
「戻す気はない」
言葉にしてみると、思ったよりはっきりしていた。
「今の弓は遅い。俺が遅くしてる。けど、急所に入った時の威力は、前の弓じゃ出せない。これを知った後で、扱いやすいから戻すっていうのは、たぶん違う」
「弓に引かれるな、だったか」
真田が言う。
蒼真は驚いて顔を上げた。
「覚えてたのか」
「前に言っていただろ。祖父からの言葉だと」
「……ああ」
「今は、半分引かれているように見える」
容赦のない言葉だった。
けれど、嫌ではなかった。真田は責めるためではなく、今の状態をそのまま置いている。
「だが、火力は班の武器になる。神代が使いこなせるようになるまで、こちらで隙を埋める。ただし、隙を埋めてもらう前提で甘えるな」
「分かってる」
「分かっているならいい。次からは、分かった上で一本減らせ」
「一本減らす?」
「撃てない矢を無理に引く時間を減らせという意味だ。撃つ一本と、撃たない一本の判断を早くしろ」
蒼真は弽の親指を押した。
撃てない時に撃てないと言う。それはついさっきで真田に求められたことだ。だが、その先がある。撃てないと分かるまでに時間を使いすぎれば、それも隙になる。
「撃つか、撃たないか。判断そのものを速くする」
「そうだ」
凛が横から言う。
「弓を速く引けないなら、迷う時間を削るしかないわね」
「簡単に言うな」
「簡単ではないから言ってるのよ」
ほのかが小さく笑った。
「凛ちゃん、言い方は厳しいけど、けっこう応援してるよね」
「してない」
「してる側の顔だよ」
「ほのかまで久我みたいなこと言わないで」
「俺、そんな悪い例か?」
久我が傷ついた顔をしたので、綾瀬が口元を緩めた。
「久我くんは、分かりやすい例ではあります」
「律まで?」
「事実です」
草原の真ん中で、短い笑いが生まれる。
蒼真も息を抜いた。悔しさは消えない。重藤弓の扱えなさも変わらない。だが、この班は、その遅さをただ責めるだけではなかった。遅さを前提に、どう戦うかへ組み直してくれる。
通信機は静かなままだった。
後藤はここにいない。判断は真田がする。蒼真が遅れれば、その遅れを最初に受け止めるのは目の前の五人だ。
その事実が、教官に見られている時よりもずっと重かった。
草原の風が、矢羽を揺らした。
蒼真は矢筒の残りを確認する。外していない。それでも、自分が動けなかった時間は確かにあった。
「神代くん」
ほのかが隣に来て、声を落とす。
「たぶん、すぐには馴染まないよね」
「たぶんどころか、全然だ」
「でも、馴染ませるつもりなんだよね」
「ああ」
「じゃあ、大丈夫。私も早めに盾を置けるようにする。凛ちゃんも、必要なら焼き切ってくれるし、火で道を狭めてもくれるし」
「勝手に決めないで」
凛が少し離れた場所から言う。
「やらないのか?」
蒼真が聞くと、凛はまっすぐこちらを見た。
「やるわよ。あなたの遅さで班が崩れるのは困るもの」
「言い方」
「事実でしょ」
「事実だな」
認めると、凛は拍子抜けしたような顔をした。
「……そこは言い返しなさいよ」
「言い返せるほど、今は使えてない」
「そう」
凛はそれ以上言わなかった。
けれど、その沈黙は突き放すものではない。認めた上で、次を待つ沈黙だった。
真田が魔石の回収を確認し、盾を構え直す。
「今日はもう少し第4層を歩く。無理な深追いはしない。神代は次の戦闘から、撃つ前に一言置け。『急所』『足止め』『無理』の三つでいい」
「了解。急所、足止め、無理」
「短くていい。迷いまで説明するな」
「分かった」
蒼真は頷き、メンテナンスノートに書くべき言葉を頭の中で先に置いた。
重藤弓。威力は十分。速射性、大きく低下。撃てない矢を引かない。班に隙を預ける。
そして、一番下にもう一行。
この弓を、使いこなす。
まだ遠い。
たぶん、今年一年で届くものではない。三年になっても、すぐには無理かもしれない。
それでも、遠いからこそ目標になる。
蒼真は重藤弓を肩に掛け直し、足元の草を踏みしめた。
風に、また小さな足音が混ざった。
蒼真は今度こそ迷う前に息を整え、真田の背中へ短く告げる。
「正面左。急所を狙う」
真田の盾が、静かにその射線を開いた。
次の一射は、急所を外れた。それでも狼の肩を砕き、久我が戻るまでの時間を作った。完璧ではない。けれど、撃つと決めるまでの迷いはさっきより短かった。
その後、真田は無理な深追いを選ばず、班を第4層の入口側へ戻した。魔石を回収し、矢数と消耗を確認し、通信機で探索終了を報告する。
魔導通信機の向こうで後藤の声が「戻れ」とだけ返った時、蒼真はようやく、自分たちだけで第4層を歩いていたのだと実感した。
◇
帰還後、管理棟脇の小会議室で後藤が報告書を眺めていた。
机の上には真田が提出した探索記録と、綾瀬が書き込んだ敵接近方向の簡易図が置かれている。後藤は煙草のない指を口元へ持っていきかけて、管理棟内だと思い出したようにやめた。
「うん。初回にしては上出来だな」
「先生、今の上出来なんですか」
蒼真が聞くと、後藤は眠そうな目で報告書の端を叩いた。
「課題がはっきりした。怪我もない。魔石も拾えた。通信で救援要請も来てない。上出来だろう。完璧じゃないと上出来じゃないなら、俺の教員生活は毎日不出来だ」
「それは、どうなんですか」
「聞くな。俺が傷つく」
久我が噴き出し、ほのかが苦笑する。
後藤は肩を竦め、報告書の蒼真の射撃記録へ視線を落とした。
「神代。重藤弓は高火力だが、高速連続射撃向きじゃない。今のお前には特にだ。狙撃銃を持って、拳銃みたいに撃とうとするな」
「狙撃銃……」
「当てる場所を選べ。撃つ場面を選べ。外した時の隙を班に共有しろ。お前が黙って遅れるのが一番まずい」
「はい」
蒼真は頷いた。
言葉は胸に落ちた。重藤弓は強い。だが、引けることと使いこなすことは違う。現場で誰かに助けられる前提ではなく、班へ先に隙を渡す必要がある。
春の草原は明るい。敵は速い。弓は重い。
だからこそ、ここから先の一射には、まだいくらでも変わる余地がある。




