第128話 第4層、草原
四月下旬の朝、立川ダンジョン入口前の空気にはまだ春先の冷たさが残っていた。
入口前の集合場所には、二年Sクラス第4班の六人が既に揃っている。真田誠は大盾の固定具を確かめ、久我晴臣は大剣の柄を肩越しに担いだまま欠伸を噛み殺していた。綾瀬律は腰の道具袋を一つずつ指で押し、天城凛は杖の先を床に触れさせずに持っている。白瀬ほのかは全員の装備と顔色を順に見ていた。
蒼真は重藤弓を肩に掛け直し、矢筒の重さを背中で確かめる。
去年の春、初めてここに立った時は、第1層へ入るだけで心臓が速くなった。ゴブリン一体を見つけるだけで息が浅くなった。
今日は違う。
第1層から第3層までは、目的地ではない。通過する階層だ。
「神代、緊張してる?」
ほのかに声をかけられ、蒼真は首を横に振った。
「緊張というより、変な感じがする」
「変な感じ?」
「去年は、第2層に降りるだけでも大ごとだった。第3層なんて、秋の実習でやっとだったから。そこを今日は、通り道にするんだなって」
言葉にすると、胸にあったものがようやく輪郭を持つ。
嬉しい。強くなった実感はある。けれど、置いていくものが何もないわけではない。
凛が横目でこちらを見る。
「通過できるようになっただけでしょ。感傷に浸るには早いわ」
「そうだな」
「でも、分かる気はする。初めて上の階層に行く時は、誰でも少しはそうなる」
「天城も?」
「……少しは、って言ったでしょ」
ほのかが小さく笑った。
久我が大剣の柄を肩の上で軽く揺らす。
「俺は第1層とか第2層、さっさと抜けたい派だな」
「久我、油断はするな」
「分かってるって」
入口の検問ゲート脇の教官待機スペースから、後藤が魔導通信機を片手に近づいてきた。
今日は月例のダンジョン探索実習だ。試験でも、緊急時の特例でもない。随行教官はつかず、班長である真田の判断で進む。教官は管理棟側で各班の通信を受け、必要があれば救援班を動かす。それが通常の実習の形だった。
後藤は眠そうに欠伸を噛み殺しながら、真田へ通信機を渡す。
「二年Sクラス第4班。今日の目的は第4層への到達と、草原フィールドでの基本行動確認だ。第1層から第3層は最短ルートで抜ける。戦闘は避けられるなら避けろ。避けられなければ、短く処理しろ」
「はい」
真田が代表して返事をする。
「俺は一緒に入らん。判断は真田、お前がしろ。迷ったら通信を入れろ。迷う余裕がない時は、班を生かす方を選べ」
「了解です」
「一年生の実習班も、そろそろ第1層に入る時期だ。上級生が浅い階層で派手に暴れて、余計な群れを動かす必要はない。通過階層だからこそ、丁寧に行け」
「了解しました」
綾瀬が静かに頷いた。
蒼真も頷く。通過するから雑に扱っていいわけではない。そこは、誰かにとっての最初の階層でもある。
後藤は最後に全員の顔を見て、通信機の受信確認を済ませると、片手をひらひら振って管理棟側へ戻っていった。
ダンジョンへ入ると、肌に触れる魔素の濃さが変わった。
第1層の灰褐色の岩肌。薄暗い通路。何度も見た景色のはずなのに、第4班の隊列で歩くと別の場所のように感じる。前には真田の大盾があり、その斜め後ろに久我がいる。綾瀬は音を拾いやすい位置へ自然に下がり、凛とほのかは後衛の左右に並ぶ。
蒼真はその中で、弓を抜かずに歩いた。
弓を構えたくなる気持ちはある。だが、真田が前を作り、綾瀬が音を拾い、久我が抜けた敵を割る。今の自分は、最初から全部を見ようとしなくていい。
「右奥、ゴブリン二。こちらには気づいていません」
「迂回する。戦闘はしない」
真田が即座に判断する。
久我が不満そうに口を曲げたが、声には出さない。凛も杖を上げない。蒼真も矢を番えない。
通路を一つ回り込むだけで、ゴブリンの濁った声は遠ざかった。
「戦わない判断って、案外難しいな」
「斥候としては、戦わずに済むならそれが一番です。目的地が別にありますから」
綾瀬の言葉に、蒼真は紅葉の索敵を思い出して口元を緩めた。旧班で積んだものは、新班の中で否定されるわけではない。別の姿で、今も隣にある。
第2層、第3層も同じだった。
ハイゴブリンの群れを見つければ、真田は距離と進行方向を確認し、必要最低限の戦闘だけを選ぶ。凛の火は温存され、久我は物足りなさそうにしながらも真田の指示を乱さない。
蒼真は一度だけ矢を放った。
第3層の曲がり角で、こちらに気づいたハイゴブリンが棍棒を振り上げた瞬間、真田が盾で受け、久我が左を抑えた。その隙に、蒼真は首元へ重藤弓の一射を置く。
矢は深く刺さり、ハイゴブリンは粒子となって消えた。
威力はある。だが、引き分けの重さが肩に残った。もし二体目がすぐに走ってきていたら、次の矢は間に合わなかったかもしれない。
「神代、今の一射は悪くない」
真田が前を向いたまま言った。
「ただ、第4層はもっと速い。狼とコボルトだ。今の感覚のままだと、二射目は遅れる」
「分かってる」
「分かっているならいい。次からは、分かった上で動け」
真田の言葉は厳しくも平坦だった。
蒼真は弽の親指を軽く押す。分かっているだけでは足りない。第4層は、今日からそれを確認する場所になる。
階段を降りた先で、空気が変わった。
第4層へ足を踏み入れた瞬間、蒼真は思わず息を止めた。
そこには、空があった。
ダンジョンの中のはずなのに、頭上には高い青が広がっている。太陽に似た光が草の先を白く照らし、風が足元の緑を揺らしていた。岩肌の通路も、薄暗い広間もない。視界の先まで草原が続いている。
「……すごいな」
声が勝手に漏れた。
初めて立川をモノレールから見下ろした時のように、視界が一気に開ける。広い。射線が通る。矢を放てば、どこまでも届きそうに見える。
「顔、分かりやすいわね」
凛が呆れたように言った。
「弓術士なら、これは嬉しいだろ」
「遮蔽物が少ないということは、向こうからも見えるということよ」
「そこは分かってる」
「今の顔は分かってなかった」
ほのかが苦笑し、久我が「目ぇ輝いてたぞ」と笑った。
緊張はある。だが、会話が途切れない。現役高校生らしい軽さが、初めての階層の空気をやわらげる。
真田が盾を構え直した。
「隊列を変える。草丈が膝下まである。綾瀬、音は拾えるか」
「風音が強いです。ただ、足音は分かります。硬い爪が土を叩く音なら、特に」
「狼とコボルトか」
「はい。まだ距離はありますが、正面やや左。数は三、いえ四です。速いです」
その瞬間、草原の向こうで緑が割れた。
灰色の狼が二体、低い姿勢で走ってくる。その後ろから、小柄な人型の魔物が二体。コボルトだ。細い手足で地面を蹴り、獣のように前傾している。
第3層までのゴブリンやハイゴブリンとは、動きの質が違った。速い。横へ散る。真っ直ぐに来ない。
「正面を受ける。久我、左の狼。天城、右の進路を焼け。白瀬、防御準備。神代は情報を置け」
「了解」
蒼真は矢を番えた。
射線は通る。広すぎるほどに通る。だが、草の揺れが足元を隠し、狼の低い身体が視界から沈む。真田の盾へ向かっている一体は見える。左へ回り込むもう一体は、久我が追う。
「左の狼、久我の外へ逃げる」
「久我、外を切れ。追いすぎるな」
「おう!」
久我が踏み込み、大剣を横に払う。
狼はその刃をかすめるように跳び、さらに外へ抜けようとした。だが、凛の《火球》が右側の草を焼き、進路を狭める。炎が草原に広がりすぎることはなく、魔力の火は狙った範囲だけを赤く弾けさせた。
「右、コボルト一体が天城の火を嫌って中央へ寄る」
「神代、中央の足。無理なら撃つな」
真田の指示が飛ぶ。
蒼真は重藤弓を引く。重い。草原の風が矢羽を撫でる。コボルトは低く身を屈め、次の瞬間には進路を変えそうだった。
今なら射てる。けれど、急所ではない。
足なら止められる。だが、外せば次の矢は遅れる。
蒼真は息を吐き、狙いを下げた。
矢が蒼い軌跡を引いて草の上を抜ける。コボルトの膝に近い関節を貫き、細い身体が前へ崩れた。
「止まった」
「久我、中央」
「任せろ!」
久我の大剣がコボルトを叩き割る。
真田は正面の狼を盾で受け止め、メイスで顎を打ち上げた。凛の二発目の《火球》がもう一体のコボルトの足元で弾け、ほのかの《光盾》が真田の横を抜けかけた狼の爪を受ける。
「白瀬、助かった」
「まだ大丈夫。回復はいらないよ」
ほのかの声は落ち着いていた。
その落ち着きがあるから、真田は前に立ち続けられる。蒼真は次の矢を番えながら、自分の視界が班の形に合わせて変わっていくのを感じた。
「左奥、狼が回る。綾瀬の位置に近い」
「綾瀬、下がれ。神代は撃てるか」
「まだ無理」
言い切った。
無理に射てば外す。外せば、綾瀬の退避を遅らせる。
「天城、左奥を牽制。久我、戻れ」
「《火球》」
凛の火が狼の鼻先で弾ける。久我が戻り、横から大剣を振り下ろした。狼は地面に叩きつけられ、粒子になって崩れる。
最後のコボルトが真田の盾の外へ逃げようとした瞬間、凛の杖先に集まった火が一段濃くなった。
「《火球》」
今度の火は、進路を塞ぐためだけの小さな火ではなかった。
赤い塊がコボルトの胸元で弾け、細い身体を内側から押し潰すように燃え上がる。逃げ道を消すついでではない。凛が狙った一撃で、最後の一体を焼き切った。
コボルトの身体が赤い残光に包まれ、粒子になって草の上へ散る。
戦闘が終わると、粒子の光が六人の身体へ薄く吸い込まれ、魔石だけが草の上に残った。
残ったのは、小さな魔石が四つ。危なげない初戦なのに、蒼真の背中には汗が滲んでいた。
「速いな」
蒼真が言うと、久我が大剣を肩に戻して笑った。
「だろ? だから面白いんだよ。止まってる的よりずっといい」
「お前は前にいるからそう言えるんだ」
「後ろで狙えるやつも大概だろ」
久我の声には嫌味がない。
凛は焼けた草の跡を見て、短く息を吐いた。
「草原だと、火の置き方も変えないといけないわね。広いから撃ちやすいけど、広い分だけ逃げ道も多い」
「私も、盾を出す位置を早めにしないと。狼、低いから見えてからだと近いね」
ほのかが杖を胸元に寄せる。
「僕も風音に慣れる必要があります。屋内より、余計な音が多い」
真田は全員の言葉を聞き、頷く。
「今日はその確認でいい。第4層は広い。射線は通るが、敵も散る。神代の弓は強いが、二射で全部を止める前提にはしない。天城の火も同じだ。面で焼き払う場所と、逃げ道を狭める場所を分ける。焼ける場面では焼き切れ。狭める場面では広げるな」
「分かった」
「分かったわ」
蒼真と凛の返事が重なった。
凛が一瞬だけこちらを見る。
「真似しないで」
「してない」
「返事まで被せないで」
「今のはそっちもだろ」
ほのかが声を殺して笑い、久我が「後衛、仲良いな」と雑にまとめた。
「仲良くない」
「いや、今のは仲良い側のやつだろ」
「久我、歩け」
真田が短く切り、久我は笑いながら歩き出した。
蒼真は重藤弓を肩に掛け直す。
草原の光は眩しい。風はある。射線もある。けれど、今までより敵は速く、低く、横へ散る。広さは弓術士の味方であると同時に、敵の逃げ道でもあった。
それでも、気持ちは前へ向いている。
ここは、第4層。
去年、遠くに見えていた草原の上を、今は新しい班で歩いている。
「神代」
真田が振り返らずに呼ぶ。
「次も、見えたものは短く置け。撃てない時は撃てないと言え。今みたいにな」
「了解」
蒼真は頷き、足元の草を踏みしめた。
矢を置く場所は、まだ掴みきれていない。重藤弓も、草原の速い敵も、簡単には馴染まない。
けれど、通過点ではない新しい階層が、目の前に広がっている。
春の光に揺れる草原の先で、また別の足音が風に混ざった。
綾瀬が顔を上げ、真田の盾が半歩前へ出る。
蒼真は弽の革に指を乗せ、次の矢を静かに抜いた。




