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蒼弓の軌跡 ~探索者学院唯一の弓術士は静かに頂を狙う~  作者: 七夜灯
第六章 Sクラスの弓術士編

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第140話 Sクラスの弓術士

 戻ると決めた瞬間ほど、草原の風は嫌な音を混ぜてくる。

 第5層の高い草は、往路で見た時よりも深く揺れていた。右から左へ吹く横風に逆らうように、ところどころ草の根元が沈み、遅れて葉先だけが跳ねる。


 蒼真は重藤弓を握り直した。

 肩にはまだ熱が残っている。さっきの最後の一射は、無理をすればもう一本引ける程度の疲労で済んでいる。けれど、その「無理をすれば」が一番危ないことを、この数週間で何度も思い知らされていた。

 火力の隣。

 そう書こうと決めた一行は、まだ頭の中に残っている。

 だが、その実感だけで帰れるほど、第5層は優しくなかった。


「止まれ」


 真田の声が低く落ちた。

 全員の足が止まる。久我の大剣が肩から下り、凛の杖が半歩右へ向いた。ほのかは真田の右斜め後ろに入り、綾瀬は目を伏せるようにして風の音を聞く。


「律」

「……前方、二。左奥、四。右後方にも三。散った足音が、戻ってきています」

「囲むつもりか」

「はい。さっき引いた群れが、別の群れと重なった可能性があります」


 久我が小さく舌打ちした。


「戻るって決めた途端にこれかよ」

「文句は後。真田、どうするの」

「突破する。ここで広く受けると草の中で飲まれる。正面を割って帰路に戻す」


 真田の判断は早かった。

 蒼真はその横顔を見て、口を開きかけて閉じた。

 右後方を凛に焼かせて、左奥を久我で割り、正面を真田が押す。頭の中には配置図が浮かぶ。けれど、それを命令の形で出すのは自分の役目ではない。

 自分が置くべきなのは、指示ではない。

 矢だ。


「神代」


 真田が盾を構えたまま言った。


「正面の流れを切れ。倒し切らなくていい。俺が開ける」

「了解。止める場所を言ってくれ」

「俺の盾の左縁。そこを抜けようとする奴を止めろ」

「分かった」


 凛が横目で蒼真を見る。


「肩、大丈夫?」

「次の一本は引ける」

「次の一本だけ?」

「今は、そう思ってる」

「なら、外したら私が焼く」

「当てたら?」

「……その後のことは、その後考える」


 久我が笑いかけて、すぐに正面を向いた。


「今の、結構信頼してるやつじゃん」

「久我、前」

「はいはい」


 草が割れた。

 正面から飛び出したのは狼型が二体。低く速い。その背後に、短剣を持ったコボルトが一体、さらに奥で草が沈む。

 真田が一歩出た。

 大盾が草を押し倒し、狼型の進路を真正面から受けるのではなく、左へ流すように角度を作る。ほのかの《光盾(ライトシールド)》が盾の右側へ重なり、もう一体の爪を受けた。

 光が弾ける。

 その白い光の縁を、コボルトが抜けようとした。


 蒼真は矢を番える。

 重い。

 弦が指に食い込み、肩の奥で熱が鈍く膨らむ。

 だが、狙う場所は決まっていた。

 真田の盾の左縁。

 そこを抜ければ、敵は凛とほのかの間に入る。

 撃つのは敵ではない。

 流れの継ぎ目だ。


 弦音が鳴った。

 蒼い軌跡は真正面のコボルトの胸を外れ、足元の草を低く裂いた。矢は左足首を貫き、コボルトの体勢を崩す。倒れた体が、後ろから来た狼型の鼻先にぶつかった。

 流れが詰まる。

 真田がその詰まりを逃さず盾で押し込んだ。


「久我、左を割れ」

「任せろ!」


 久我の大剣が横へ走る。

 《腕力強化》で膨れた一撃が草ごと狼型を払う。粒子が弾け、風に乗って左へ流れた。

 その瞬間、右後方の草が大きく沈んだ。


「右後方、三、近いです!」

「天城」

「分かってる」


 凛の杖先に火が集まる。

 だが、右後方は風上ではない。ここで大きく焼けば、煙は隊列の後ろを舐めるように流れてくる。

 蒼真は二射目を取ろうとして、肩の重さに息を止めた。

 間に合わない。

 いや、間に合わせるだけならできる。けれど、雑に引いた矢は凛の火の邪魔になる。


「右、火の横を開ける。俺は撃たない」

「了解。二体は焼く。残り一体を外へ出す」


 凛の《火球(ファイアボール)》は、右後方の三体すべてを漫然と焼き払う火ではなかった。

 範囲を絞り、威力だけを落とさない火。

 先頭の狼型と、続いたコボルトの間で赤い爆発が弾ける。二体の身体が熱に呑まれ、粒子へ変わった。残りの狼型だけが、火の横へ逃げる。

 その横へ、真田が盾を半歩ずらす。ほのかの《光盾(ライトシールド)》が蒼真の前に張られ、爪の飛び込みを一拍だけ遮った。


「神代くん、今は肩より足元」

「足元?」

「後ろに下がりすぎると、草の根で引っかかるよ」


 言われて、蒼真は自分の右足が倒れた草の束に乗っていることに気づいた。

 ほのかの声は柔らかいのに、見ている場所が細かい。

 蒼真は足を半歩だけ置き直す。


「助かった」

「どういたしまして。凛ちゃん、右はもう一回いける?」

「いける。けど、奥が増えるなら大きいのを使う」

「まだ我慢。神代くんの一本を残したい」


 ほのかがそう言った瞬間、綾瀬が顔を上げた。


「奥、重い足音が一つあります。周囲の足音がそれに合わせています」

「リーダー格か」

「おそらく。まだ見えません。ただ、正面の詰まりが解けたら、そこから来ます」

「神代、聞いたな」

「聞いた」


 蒼真は矢筒へ指を伸ばす。

 残す一本。

 ほのかがそう言った意味が、ようやく分かった。

 今ここで雑に二射目を撃つより、奥の重い足音を止める一本を残す。

 その判断は、蒼真一人では遅れたかもしれない。


「真田、俺は次まで撃たない。見えたら止める」

「分かった。律、位置を出してくれ」

「正面奥。真田くんの盾の先、少し左。草の高さが一段低くなる場所です」

「天城、右を押さえろ。久我、左へ戻りすぎるな」

「了解」

「戻りすぎない程度に暴れればいいんだな」

「暴れるな。割れ」

「注文が難しいな!」


 久我の軽口に、凛が息を吐いた。

 その直後、正面の草が沈んだ。

 先ほどの狼型より大きい。コボルトより低い。灰色の背中に、黒い筋が走っている。群れの先頭で指示を出すように、左右の魔物がその動きに合わせて進路を変えた。

 リーダー格。

 蒼真は、そう判断した瞬間にはもう矢を番えていた。


 重藤弓が軋む。

 背中が熱い。肩が重い。指先が痺れる。

 外せば、凛が焼く。

 だが、焼かせるための矢ではない。

 真田が正面を作り、久我が左を割り、凛が右を焼き、ほのかが盾を重ね、綾瀬が音を拾った。

 そこに、自分の一本を置く。

 班長ではない。

 けれど、この班の中で、弓術士として撃つ一本。


「神代、今だ」


 真田の盾が左へ開いた。

 一瞬だけ、草の低い場所が見える。

 リーダー格の前足が、そこを踏む。

 蒼真は息を吐き切った。


 弦音。

 蒼い軌跡が、火の横を抜けた。

 凛の熱で揺れる空気の隣を、白い《光盾(ライトシールド)》の端を掠めるように、真田の盾が作った隙間へ矢が走る。

 矢はリーダー格の胸ではなく、踏み込んだ前足の付け根を貫いた。

 大きな体が前のめりに落ちる。

 その体へ、後続の二体が突っ込んだ。

 群れの流れが、そこで折れた。


「天城!」

「言われなくても!」


 凛の《火壁(ファイアウォール)》が横へ立った。

 大きく燃え広がる壁ではない。だが、火力は抑えていない。折れた流れの先だけを塞ぎ、その範囲に入った一体を焼き潰す、細く鋭い火の壁だった。

 倒れ込んだ魔物の向こうで、後続の一体が火に触れた瞬間、赤い残光に包まれて粒子化する。

 久我が左から戻り、倒れ込んだ一体を大剣で割る。真田が盾で残りを押し返し、ほのかの《光盾(ライトシールド)》がその肩口を支えた。

 綾瀬の声が短く飛ぶ。


「右、後退。左、散ります。正面、止まりました」

「押し切る」

「了解!」


 そこからは速かった。

 凛の火に押された魔物が外へ散り、久我が一体を割る。真田が最後のコボルトを盾で止め、メイスの一撃で粒子化させる。

 蒼真は撃たなかった。

 撃てなかったのではない。

 撃つ必要がなかった。


 風が抜けた。

 焦げた草の匂いと、粒子がそれぞれの身体に吸い込まれた後は魔石のみが残った。

 誰もすぐには喋らなかった。久我だけが大剣を下ろし、肩で息をしながら笑う。


「今の、やばかったな」

「やばかった、で済ませないでください。報告書に書けません」

「律、そこ真面目に怒るのかよ」

「真面目に怒ります。数が多かったので」


 ほのかが真田の右腕に手を添え、《回復(ヒール)》の白い光を流した。


「真田くん、右腕、少しだけ」

「助かる。神代は」

「肩は重い。でも、痛めてはいない」

「本当?」

「たぶん」

「たぶんは久我くんだけで足りてるよ」


 ほのかの穏やかな声に、久我が「俺の扱い」とぼやく。

 凛は杖を下ろし、蒼真を見た。


「最後の、急所じゃなかったわね」

「胸を狙うと、外した時に抜けられると思った。足を折れば、後ろが詰まる」

「それで正解。私の火も、必要なところだけ焼けば済んだ」

「なら、よかった」

「……よかった、じゃなくて」


 凛が言葉を探した。

 蒼真は待つ。

 風が二人の間を抜け、高い草を右から左へ倒した。


「必要だった。今の矢」


 先に言ったのは真田だった。

 蒼真が振り向くと、真田は盾を地面に下ろさず、まだ隊列の前を見ていた。


「助かった、ではない。あれがなければ、防御線は持ったとしても、天城の大火力を広く使うことになった。焼き切ることはできただろうが、煙で律の音が潰れ、俺たちは帰路を遅らせた。あの一本は、この班に必要だった」

「……了解」


 喉が詰まりそうになった。

 それでも蒼真は、短く返した。

 班長ではない。

 けれど、必要な一本を置ける。

 それだけで、抱えていた焦りの角が少し削れた。


「神代」


 凛が続ける。


「次も、火の隣に置きなさい。邪魔だったら文句言うけど」

「分かった」

「あと、今のを一人でやった顔しないこと」

「してたか?」

「してないけど、念のため」


 久我が笑い、ほのかも小さく頷く。


「うん。今のは六人で作った一本だね」

「そうですね。音だけでは止まりませんでした」

「俺が割ったのも忘れんなよ」

「忘れてない。声が大きかったから」

「そこ!?」


 笑いが、草原に戻った。

 真田はその空気を一拍だけ許してから、盾を前に戻す。


「帰るぞ。今日はこれ以上、成果を増やさない」

「了解」


 全員の声が揃う。

 蒼真は重藤弓の弦に触れた。指先にはまだ、さっきの弦音が残っている。

 Sクラスは強い。

 真田の盾は、蒼真が弓を引くより先に戦場の向きを変えていた。凛の火も、ほのかの支援も、その動きに遅れず重なる。自分だけが一拍、後ろにいるように思えた。

 けれど、その中にも矢を置く場所はある。

 群れの流れを切る場所。

 火の隣。

 盾の縁。

 白い光の端。

 音が示した、草の低い一点。


 帰路の風は、相変わらず右から左へ吹いていた。

 だが、蒼真の足取りは、入った時より軽かった。

 メンテナンスノートに書く一行は、もう決まっている。

 班長ではない。

 けれど、ここにも弓術士の場所はある。

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