第140話 Sクラスの弓術士
戻ると決めた瞬間ほど、草原の風は嫌な音を混ぜてくる。
第5層の高い草は、往路で見た時よりも深く揺れていた。右から左へ吹く横風に逆らうように、ところどころ草の根元が沈み、遅れて葉先だけが跳ねる。
蒼真は重藤弓を握り直した。
肩にはまだ熱が残っている。さっきの最後の一射は、無理をすればもう一本引ける程度の疲労で済んでいる。けれど、その「無理をすれば」が一番危ないことを、この数週間で何度も思い知らされていた。
火力の隣。
そう書こうと決めた一行は、まだ頭の中に残っている。
だが、その実感だけで帰れるほど、第5層は優しくなかった。
「止まれ」
真田の声が低く落ちた。
全員の足が止まる。久我の大剣が肩から下り、凛の杖が半歩右へ向いた。ほのかは真田の右斜め後ろに入り、綾瀬は目を伏せるようにして風の音を聞く。
「律」
「……前方、二。左奥、四。右後方にも三。散った足音が、戻ってきています」
「囲むつもりか」
「はい。さっき引いた群れが、別の群れと重なった可能性があります」
久我が小さく舌打ちした。
「戻るって決めた途端にこれかよ」
「文句は後。真田、どうするの」
「突破する。ここで広く受けると草の中で飲まれる。正面を割って帰路に戻す」
真田の判断は早かった。
蒼真はその横顔を見て、口を開きかけて閉じた。
右後方を凛に焼かせて、左奥を久我で割り、正面を真田が押す。頭の中には配置図が浮かぶ。けれど、それを命令の形で出すのは自分の役目ではない。
自分が置くべきなのは、指示ではない。
矢だ。
「神代」
真田が盾を構えたまま言った。
「正面の流れを切れ。倒し切らなくていい。俺が開ける」
「了解。止める場所を言ってくれ」
「俺の盾の左縁。そこを抜けようとする奴を止めろ」
「分かった」
凛が横目で蒼真を見る。
「肩、大丈夫?」
「次の一本は引ける」
「次の一本だけ?」
「今は、そう思ってる」
「なら、外したら私が焼く」
「当てたら?」
「……その後のことは、その後考える」
久我が笑いかけて、すぐに正面を向いた。
「今の、結構信頼してるやつじゃん」
「久我、前」
「はいはい」
草が割れた。
正面から飛び出したのは狼型が二体。低く速い。その背後に、短剣を持ったコボルトが一体、さらに奥で草が沈む。
真田が一歩出た。
大盾が草を押し倒し、狼型の進路を真正面から受けるのではなく、左へ流すように角度を作る。ほのかの《光盾》が盾の右側へ重なり、もう一体の爪を受けた。
光が弾ける。
その白い光の縁を、コボルトが抜けようとした。
蒼真は矢を番える。
重い。
弦が指に食い込み、肩の奥で熱が鈍く膨らむ。
だが、狙う場所は決まっていた。
真田の盾の左縁。
そこを抜ければ、敵は凛とほのかの間に入る。
撃つのは敵ではない。
流れの継ぎ目だ。
弦音が鳴った。
蒼い軌跡は真正面のコボルトの胸を外れ、足元の草を低く裂いた。矢は左足首を貫き、コボルトの体勢を崩す。倒れた体が、後ろから来た狼型の鼻先にぶつかった。
流れが詰まる。
真田がその詰まりを逃さず盾で押し込んだ。
「久我、左を割れ」
「任せろ!」
久我の大剣が横へ走る。
《腕力強化》で膨れた一撃が草ごと狼型を払う。粒子が弾け、風に乗って左へ流れた。
その瞬間、右後方の草が大きく沈んだ。
「右後方、三、近いです!」
「天城」
「分かってる」
凛の杖先に火が集まる。
だが、右後方は風上ではない。ここで大きく焼けば、煙は隊列の後ろを舐めるように流れてくる。
蒼真は二射目を取ろうとして、肩の重さに息を止めた。
間に合わない。
いや、間に合わせるだけならできる。けれど、雑に引いた矢は凛の火の邪魔になる。
「右、火の横を開ける。俺は撃たない」
「了解。二体は焼く。残り一体を外へ出す」
凛の《火球》は、右後方の三体すべてを漫然と焼き払う火ではなかった。
範囲を絞り、威力だけを落とさない火。
先頭の狼型と、続いたコボルトの間で赤い爆発が弾ける。二体の身体が熱に呑まれ、粒子へ変わった。残りの狼型だけが、火の横へ逃げる。
その横へ、真田が盾を半歩ずらす。ほのかの《光盾》が蒼真の前に張られ、爪の飛び込みを一拍だけ遮った。
「神代くん、今は肩より足元」
「足元?」
「後ろに下がりすぎると、草の根で引っかかるよ」
言われて、蒼真は自分の右足が倒れた草の束に乗っていることに気づいた。
ほのかの声は柔らかいのに、見ている場所が細かい。
蒼真は足を半歩だけ置き直す。
「助かった」
「どういたしまして。凛ちゃん、右はもう一回いける?」
「いける。けど、奥が増えるなら大きいのを使う」
「まだ我慢。神代くんの一本を残したい」
ほのかがそう言った瞬間、綾瀬が顔を上げた。
「奥、重い足音が一つあります。周囲の足音がそれに合わせています」
「リーダー格か」
「おそらく。まだ見えません。ただ、正面の詰まりが解けたら、そこから来ます」
「神代、聞いたな」
「聞いた」
蒼真は矢筒へ指を伸ばす。
残す一本。
ほのかがそう言った意味が、ようやく分かった。
今ここで雑に二射目を撃つより、奥の重い足音を止める一本を残す。
その判断は、蒼真一人では遅れたかもしれない。
「真田、俺は次まで撃たない。見えたら止める」
「分かった。律、位置を出してくれ」
「正面奥。真田くんの盾の先、少し左。草の高さが一段低くなる場所です」
「天城、右を押さえろ。久我、左へ戻りすぎるな」
「了解」
「戻りすぎない程度に暴れればいいんだな」
「暴れるな。割れ」
「注文が難しいな!」
久我の軽口に、凛が息を吐いた。
その直後、正面の草が沈んだ。
先ほどの狼型より大きい。コボルトより低い。灰色の背中に、黒い筋が走っている。群れの先頭で指示を出すように、左右の魔物がその動きに合わせて進路を変えた。
リーダー格。
蒼真は、そう判断した瞬間にはもう矢を番えていた。
重藤弓が軋む。
背中が熱い。肩が重い。指先が痺れる。
外せば、凛が焼く。
だが、焼かせるための矢ではない。
真田が正面を作り、久我が左を割り、凛が右を焼き、ほのかが盾を重ね、綾瀬が音を拾った。
そこに、自分の一本を置く。
班長ではない。
けれど、この班の中で、弓術士として撃つ一本。
「神代、今だ」
真田の盾が左へ開いた。
一瞬だけ、草の低い場所が見える。
リーダー格の前足が、そこを踏む。
蒼真は息を吐き切った。
弦音。
蒼い軌跡が、火の横を抜けた。
凛の熱で揺れる空気の隣を、白い《光盾》の端を掠めるように、真田の盾が作った隙間へ矢が走る。
矢はリーダー格の胸ではなく、踏み込んだ前足の付け根を貫いた。
大きな体が前のめりに落ちる。
その体へ、後続の二体が突っ込んだ。
群れの流れが、そこで折れた。
「天城!」
「言われなくても!」
凛の《火壁》が横へ立った。
大きく燃え広がる壁ではない。だが、火力は抑えていない。折れた流れの先だけを塞ぎ、その範囲に入った一体を焼き潰す、細く鋭い火の壁だった。
倒れ込んだ魔物の向こうで、後続の一体が火に触れた瞬間、赤い残光に包まれて粒子化する。
久我が左から戻り、倒れ込んだ一体を大剣で割る。真田が盾で残りを押し返し、ほのかの《光盾》がその肩口を支えた。
綾瀬の声が短く飛ぶ。
「右、後退。左、散ります。正面、止まりました」
「押し切る」
「了解!」
そこからは速かった。
凛の火に押された魔物が外へ散り、久我が一体を割る。真田が最後のコボルトを盾で止め、メイスの一撃で粒子化させる。
蒼真は撃たなかった。
撃てなかったのではない。
撃つ必要がなかった。
風が抜けた。
焦げた草の匂いと、粒子がそれぞれの身体に吸い込まれた後は魔石のみが残った。
誰もすぐには喋らなかった。久我だけが大剣を下ろし、肩で息をしながら笑う。
「今の、やばかったな」
「やばかった、で済ませないでください。報告書に書けません」
「律、そこ真面目に怒るのかよ」
「真面目に怒ります。数が多かったので」
ほのかが真田の右腕に手を添え、《回復》の白い光を流した。
「真田くん、右腕、少しだけ」
「助かる。神代は」
「肩は重い。でも、痛めてはいない」
「本当?」
「たぶん」
「たぶんは久我くんだけで足りてるよ」
ほのかの穏やかな声に、久我が「俺の扱い」とぼやく。
凛は杖を下ろし、蒼真を見た。
「最後の、急所じゃなかったわね」
「胸を狙うと、外した時に抜けられると思った。足を折れば、後ろが詰まる」
「それで正解。私の火も、必要なところだけ焼けば済んだ」
「なら、よかった」
「……よかった、じゃなくて」
凛が言葉を探した。
蒼真は待つ。
風が二人の間を抜け、高い草を右から左へ倒した。
「必要だった。今の矢」
先に言ったのは真田だった。
蒼真が振り向くと、真田は盾を地面に下ろさず、まだ隊列の前を見ていた。
「助かった、ではない。あれがなければ、防御線は持ったとしても、天城の大火力を広く使うことになった。焼き切ることはできただろうが、煙で律の音が潰れ、俺たちは帰路を遅らせた。あの一本は、この班に必要だった」
「……了解」
喉が詰まりそうになった。
それでも蒼真は、短く返した。
班長ではない。
けれど、必要な一本を置ける。
それだけで、抱えていた焦りの角が少し削れた。
「神代」
凛が続ける。
「次も、火の隣に置きなさい。邪魔だったら文句言うけど」
「分かった」
「あと、今のを一人でやった顔しないこと」
「してたか?」
「してないけど、念のため」
久我が笑い、ほのかも小さく頷く。
「うん。今のは六人で作った一本だね」
「そうですね。音だけでは止まりませんでした」
「俺が割ったのも忘れんなよ」
「忘れてない。声が大きかったから」
「そこ!?」
笑いが、草原に戻った。
真田はその空気を一拍だけ許してから、盾を前に戻す。
「帰るぞ。今日はこれ以上、成果を増やさない」
「了解」
全員の声が揃う。
蒼真は重藤弓の弦に触れた。指先にはまだ、さっきの弦音が残っている。
Sクラスは強い。
真田の盾は、蒼真が弓を引くより先に戦場の向きを変えていた。凛の火も、ほのかの支援も、その動きに遅れず重なる。自分だけが一拍、後ろにいるように思えた。
けれど、その中にも矢を置く場所はある。
群れの流れを切る場所。
火の隣。
盾の縁。
白い光の端。
音が示した、草の低い一点。
帰路の風は、相変わらず右から左へ吹いていた。
だが、蒼真の足取りは、入った時より軽かった。
メンテナンスノートに書く一行は、もう決まっている。
班長ではない。
けれど、ここにも弓術士の場所はある。




