第124話 聴こえる斥候
四月の屋内訓練場は、音が多かった。
木剣と盾の衝突、魔導人形の駆動音、魔法の炸裂音。高い天井に反響したそれらが重なり、蒼真は索敵レーンの入口で重藤弓を肩にかけ直した。
昨日、凛とほのかとの後衛連携では、火と光の間に矢を置く感覚を掴んだ。だが、射線を作る起点にいるのは斥候だ。
旧第5班では、紅葉がその役割を担っていた。隠れた動きを拾い、指差す方向へ蒼真が矢を置く。何度も繰り返した連携は、もう身体に染みついている。
だからこそ、今日の相手には期待があった。
「神代くん、お待たせしました」
横から声がした。
蒼真が振り向くと、綾瀬律が訓練用の小剣を腰に差し、小さな革袋を二つ下げて立っていた。身長は蒼真より低い。中肉中背で、特別に細いわけでも大きいわけでもない。けれど、そこに立っていると分かってから見ても、視線が逸れると輪郭を見失いそうになる不思議な存在感があった。
「俺も今来たところ。今日の索敵レーンって、綾瀬が使い方を説明してくれるんだよな」
「はい。真田くんから、神代くんとは一度合わせておいた方がいいと言われました。弓術士と斥候は、情報の渡し方で命中率が変わりますから」
「真田が?」
「ええ。『神代は前の班で斥候と噛み合っていたらしい。律、お前のやり方を先に見せておけ』と」
真田の声が頭に浮かんだ。
俺が前を作る。神代は急所を抜く。そう言った班長は、綾瀬の索敵と蒼真の射撃を繋げるところまで考えている。
蒼真は弽の革を親指で押し、頷いた。
「分かった。俺も、紅葉……前の班の斥候とはかなり合わせてた。たぶん、癖が残ってると思う」
「鬼塚さんですね。《視力強化》の斥候。去年の対人戦映像で見ました。見る位置、伝える方向、前衛への声の置き方がきれいでした」
綾瀬は淡々と言った。職人が道具を語るような確かさがあった。
「綾瀬の索敵は違う?」
「かなり違います。僕は、基本的に見ません」
「見ない?」
「もちろん目は使います。ただ、主軸は音です」
斥候職はもともと、気配や魔力の揺れを拾う感覚に補正が掛かりやすい。そのうえで綾瀬は、音へ寄っているのだと蒼真は理解した。
綾瀬が索敵レーンの扉を開けた。
中には低い壁、木箱、布製の遮蔽物、人工草の茂みが複雑に置かれている。奥には小型の魔導人形が隠されているらしい。蒼真は無意識に、右奥の木箱の上を見た。
「右奥の木箱の裏、見えるか?」
口にした瞬間、自分でも癖だと分かった。
綾瀬は木箱を見ず、耳を澄ますように顔を傾ける。
「見えません」
返答は早かった。
蒼真が一瞬詰まると、綾瀬は続けた。
「ですが、聴こえます」
その声は、喧騒の中でも妙にはっきり届いた。
綾瀬はまぶたを下ろした。呼吸が浅くなる。肩の力が抜け、足裏が床に沈むように静かになった。
「右奥の木箱の裏に一体。駆動音は小さめです。待機状態ですが、左脚の関節が鳴っています。もう一体は中央の布の後ろ。呼吸音はありませんが、布の裾が床を擦る音が二回。巡回型です。三体目は……左手前の人工草の中。草が戻る音が軽いので、小型です」
「そこまで分かるのか」
「音があれば。逆に、完全に止まられると苦手です」
蒼真は左手前の人工草を見た。何も見えない。紅葉なら草の揺れや影で拾えたかもしれない。だが綾瀬は、視界に入る前からいると断言する。
同じ斥候でも、戦場の入口が違う。
「神代くん。射線を作るなら、中央の布ではなく右奥です」
「中央じゃないのか?」
「中央は誘いです。足音が軽すぎます。近づくと後ろへ下がるはずです。右奥の一体は左脚が鳴っているので、動き始めが遅い。重い弓なら、先に置くならこちらです」
重い弓。
綾瀬は、蒼真が重藤弓を引くのに一拍かかることも前提にしていた。
蒼真は右奥へ身体を向ける。木箱の裏は見えない。だが、綾瀬の声がある。右奥。左脚が鳴る。動き始めが遅い。
「位置、細かく言えるか」
「木箱右端から三十センチ内側。高さは胸。起動した瞬間、左へ半歩出ます。今、足音が変わりました。来ます」
蒼真は矢を番えた。
見えない的を射るのは怖い。外せば無駄射ちだ。けれど、紅葉と組んだ時も、最初は彼女の声に矢を預けるしかなかった。
弦を引く。重藤弓の圧が肩に乗る。木箱の右端。その三十センチ内側。
小さな駆動音がした。
「今」
蒼真は離した。
蒼い軌跡が木箱の端をかすめるように走る。次の瞬間、右奥から飛び出しかけた魔導人形の胸に矢が突き立ち、赤い判定光が弾けた。
見えてから撃ったのではない。聴こえた位置へ、先に置いた。
「……入った」
「はい。神代くんの離れが半拍早かったので、胴体中央でした。もう少し待つと首に入りますが、今の重藤弓だと安全策としては正しいと思います」
「結構、細かく言うんだな」
「斥候ですから。曖昧に言うと、前衛と後衛の負担になります」
丁寧な口調のまま、綾瀬はさらりと言った。
紅葉なら「そこ、いる!」と勢いよく言う。綾瀬は「木箱右端から三十センチ」と言う。どちらも斥候だ。けれど、矢を置く感覚はまるで違う。
「次、中央の布が動きます。ですが、撃たないでください」
「撃たない?」
「罠を置きます」
綾瀬は革袋から金属片と細い糸を取り出した。床の溝に金属片を噛ませ、糸を布の影へ滑らせる。派手さはないが、一つ一つが正確で音がほとんどしなかった。
「学院生で罠を使う斥候って、珍しいよな」
「珍しいですね。魔法やスキルの方が分かりやすく評価されますから」
「それでも使うんだ」
「直接倒せなくても、半歩遅らせれば真田くんが止められます。一秒足を取れれば、久我くんが割れます。逃げる方向を削れば、天城さんの火球や神代くんの矢が入ります」
綾瀬の指が糸から離れた。
中央の布の後ろで魔導人形が動く。左へ抜けようとした瞬間、細い糸に足を取られて膝が沈んだ。
「今なら、右肩から首まで開きます」
蒼真はもう矢を番えていた。
引き分けはやはり重い。けれど、人形の動きもまた重くなっている。綾瀬の罠が作った半歩の遅れが、蒼真の一拍を埋めた。
離れ。
矢は首元に入り、赤い判定光が二度弾けた。
「罠って、こう使うのか」
「格好よくはありませんけど」
「いや、かなり助かる」
「そう言ってもらえると、作った甲斐があります」
綾瀬は口元を緩めた。
初めて見えた表情らしい表情だった。
訓練を終える頃には、蒼真の矢筒の残りは半分近く減っていた。命中数は悪くない。だが、外し方も多かった。音で示された位置へ矢を置くには、綾瀬の報告を信じるだけでなく、自分の頭の中に地図を作らなければならない。
索敵レーンの扉を出たところで、綾瀬が深く息を吐いた。
「すみません。報告が多すぎたかもしれません」
「いや、助かった。俺がまだ処理しきれてないだけだ」
「神代くんは、鬼塚さんの索敵にかなり最適化されていると思います」
「やっぱり分かるか」
「はい。見える位置を先に探していました。でも、悪い癖ではありません。完成度が高かったということです」
完成度が高かった。
その一言が、蒼真に残った。紅葉と積み上げてきた連携は、過去になったわけではない。今の自分の癖として残っている。だから新しいやり方に戸惑う。
その戸惑いごと、次の連携に組み替えていくしかない。
「綾瀬。次は、最初から地図を作るつもりで聞く。だから、音の位置をもっと細かく教えてほしい」
「分かりました。僕も、神代くんが矢を置きやすい言い方を探します」
「頼む」
「こちらこそ。弓術士に音を渡すのは、僕も初めてなので」
その言い方が楽しそうで、蒼真は頷いた。
新しい班の斥候は、見えないものを聴く。
なら、自分はその音に矢を置く弓術士にならなければならない。
◇
放課後の渡り廊下で、蒼真は紅葉と偶然会った。
紅葉は一般クラス棟側から小走りで来て、蒼真を見つけると片手を上げた。髪が肩のあたりで跳ね、以前と同じ軽い足取りで近づいてくる。
「あ、蒼真。Sクラスの方、迷子になってない?」
「初日はなりかけた。今は大丈夫」
「なりかけたんだ」
「廊下の作りが微妙に違うんだよ」
「言い訳っぽい」
紅葉はくすっと笑った。
その笑い方に、蒼真の肩から力が抜ける。
「今日、綾瀬と索敵合わせをした」
「新しい斥候くん?」
「ああ。《聴覚強化》。壁の裏の駆動音とか、足音で位置を取る」
「へえ。音かあ」
紅葉は目を丸くし、唇を尖らせた。
「視える斥候も便利だからね」
「分かってる。今日、かなり思った」
「ほんと?」
「紅葉の指差し、相当撃ちやすかったんだなって」
紅葉は一瞬だけ固まり、それから誤魔化すように視線を横へ逃がした。
「……そういうの、急に言うのずるい」
「事実だし」
「航みたいな返し方しないで。蒼真が言うと、なんか真面目すぎる」
文句を言いつつも、紅葉の口元は緩んでいた。
蒼真は渡り廊下の窓から見える中庭へ視線を向けた。四月の光が、若い葉の上に落ちている。
「でも、綾瀬の索敵もすごい。見えないところに矢を置く感じだった」
「そっか。じゃあ、蒼真はまた変な撃ち方を増やすんだ」
「変なって」
「褒めてる。たぶん」
紅葉は軽く笑い、それから真面目な顔になった。
「新しい斥候くんに、ちゃんと合わせてあげてね。蒼真、最初は全部自分で見ようとするから」
「……そんなにしてたか?」
「してた。けど、途中からちゃんと任せてくれた。だから私も、斥候として前に出られた」
その言葉は、思ったより深く刺さった。
紅葉の索敵も、最初から完成していたわけではない。蒼真が矢を預け、紅葉が情報を渡し、皆が動く。その積み重ねで、あの連携になった。
なら、綾瀬との連携も最初から噛み合わなくて当然だ。
「分かった。任せるところから始める」
「うん。それでいいと思う」
「紅葉も、新しい班は?」
「うちはうちで大変。悠斗が班長っぽい顔をしようとして、たまに変な顔になる」
「見たいな、それ」
「今度、遠目で見せてあげる。本人には言わないけど」
二人して小さく笑った。
別の班になっても、こうして話せる。全部が同じではないが、全部が遠くなったわけでもない。
紅葉は手を振り、一般クラス棟の方へ戻っていった。
「蒼真」
数歩先で、紅葉が振り返る。
「視えなくても、聴こえるなら撃てるんでしょ?」
「たぶん」
「じゃあ大丈夫。蒼真、そういうの好きそうだし」
言い終えると、紅葉は今度こそ駆けていった。
蒼真はその背中を見送り、肩にかけた重藤弓の重みを確かめる。
見える索敵。聴こえる索敵。
どちらも、矢を置くための道になる。
まだ、綾瀬の音を完全には地図にできない。重藤弓の重さも残っている。それでも、今日の一本は見えない場所へ届いた。
蒼真は弽の革を親指で押し、渡り廊下の先へ歩き出した。
新しい音が、戦場になり始めていた。




