第123話 神代くんと呼ぶ声
四月の訓練場には、まだ新年度の匂いが残っていた。
床は朝の清掃を終えたばかりで、磨かれた石材が高い窓から落ちる光を受けている。隅の方では、別のSクラス生たちが前衛訓練用の魔導人形を動かし、鈍い衝撃音を響かせていた。
蒼真は後衛連携レーンの白線の内側で、重藤弓の握りに左手を添えた。
昨日、真田から告げられた方針はまだ頭に残っている。
『俺が前を作る。神代は急所を抜く』
言葉の意味は分かる。だが、真田の盾がどちらへ向き、久我がどこまで踏み込むのか。そこまで見えなければ、矢は間に合わない。
今日隣に立つのは、天城凛と白瀬ほのかだった。
火魔法使いと白魔法使い。
一年の間、遠くから見ていたSクラスの二人が、今は同じレーンにいる。
「神代くん、位置はそこで大丈夫?」
柔らかい声が横から届いた。
蒼真は一拍遅れて顔を上げる。
「大丈夫。ここなら、的の左側まで射線が通る」
「そっか。じゃあ私は後ろにいるね。神代くんが動いたら、視界を塞がないようにする」
「助かる」
ほのかは頷き、杖を胸の前で持ち直した。
神代くん。
そう呼ばれること自体は初めてではない。けれど、ほのかの声でそう呼ばれると、教室や廊下で遠くにいた頃とは違う距離があった。
近すぎるわけではない。まだきちんと一歩分の間がある。
それでも同じ班の後衛として並んでいることが、声の調子だけで分かった。
「何、ぼうっとしてるの」
凛の声は、ほのかより鋭かった。
蒼真が視線を向けると、凛は訓練用の赤い腕章をつけ、杖先を床へ向けていた。金髪のツインテールが肩の後ろで揺れる。
「ぼうっとはしてない」
「してた。初手で遅れたら、後衛連携の意味ないから」
「分かってる。天城の火力の邪魔にならない位置を見てた」
「邪魔になるなら退いて。合わせられるなら合わせて」
凛の言い方は素っ気ない。
けれど突き放しているわけではなかった。退けではなく、合わせられるなら合わせろ。その言葉には同じ戦場に立つ相手への最低限の評価がある。
蒼真は弦に指をかけ、右手の弽の革を親指の腹で確かめた。
「合わせる」
「なら、見る場所を間違えないで」
訓練レーンの奥で、魔導人形が起動した。
今回の設定は後衛三人での迎撃訓練だ。前衛は置かず、三体の人形が左右に散りながら接近してくる。火力と射撃、防御と回復支援。それぞれの役割を確認するための簡易訓練だと後藤は説明していた。
ただし、簡易という言葉に反してSクラス用の人形は速い。
最初の一体が右へ跳ねた瞬間、凛の杖先に赤い魔力が集まった。
「《火球》!」
放たれた火球は蒼真が想像していたより大きかった。
赤い塊が空気を押し、右の人形の進路を丸ごと塞ぐ。直撃した瞬間、訓練用の耐火装甲が赤く光る。人形の上半身が大きく後ろへ仰け反った。
強い。
蒼真は弦を引く指先に力を込めたまま、息を止めた。
一体を止めるだけなら十分すぎる。いや、止めるどころではない。凛の火球は、右側の進路そのものを焼き潰すように見えた。
そこへ矢を重ねる意味が、見えない。
「神代」
凛の声が飛ぶ。
蒼真ははっとして中央へ走る二体目へ照準を戻した。だが重藤弓は軽くない。引き分けに入るまでの一拍が、以前の和弓より重く沈む。
人形の足が白線を越える。
蒼真は狙いを胸部中央へ合わせ、矢を放った。
蒼い軌跡が走り、人形の肩口を貫く。急所ではない。判定光は黄色にとどまって人形は止まらず前へ滑った。
「《光盾》!」
ほのかの声と同時に、白い光の板が蒼真の前に展開した。
人形の木製剣が光盾にぶつかり、乾いた衝撃音が響く。蒼真は半歩下がり、二射目を番えようとして右手の指が遅れるのを感じた。
重い。
威力はある。けれど、外した後の隙が大きい。
「神代くん、無理に二射目を急がなくていいよ」
ほのかが光盾の維持をしながら言った。
「でも、止めないと」
「止めるのは、私でも凛ちゃんでもできる。神代くんは決める場所を探して」
「決める場所……」
「うん。神代くんの矢って、当たった時の意味が大きいから」
その言葉は、思ったより深く刺さった。
旧第5班では蒼真は射線を作り、指示を出して全体の組み立てを見ていた。だが今は違う。凛の火力があり、ほのかの防御がある。その中で、自分が全部を止めようとする必要はない。
決める場所。
弦を引く右手の力を、蒼真は一度抜いた。
「白瀬、右を開けて」
「右端だけ?」
「うん。人形の足を見たい」
ほのかはにこりと笑い、光盾の端へ意識を向けた。
「神代くん、右端を開けるね」
光盾の右端に細い隙間が生まれる。
蒼真はその隙間から人形の足運びを見た。中央の人形は、凛の火球を警戒して左へ寄りたがっている。右側は熱の余韻が残り、中央はほのかの光盾。逃げるなら左斜め前。
なら、そこに置く。
「天城、次は中央の足元を焼けるか?」
「焼くんじゃなくて、寄せるのね」
「うん。左に逃がしたい」
「注文が多い」
「無理なら――」
「できる」
凛は短く言い、杖を構え直した。
その声に迷いはない。火球の赤い魔力が、今度は人形の正面ではなく足元の右側へ集まる。
「《火球》!」
爆ぜるような熱が床の手前で広がった。
直撃ではない。だが火の圧に押された人形は半歩だけ左へ流れる。訓練用の自動回避が働き、左斜め前へ抜けようとする。
蒼真はすでにそこへ狙いを置いていた。
重藤弓は重い。引き分けは遅い。けれど引き切った時の弦の圧は、腕から肩と背中までを一本の線に変える。
呼吸を止める。
人形が左へ来る。
離れ。
蒼い軌跡が、赤い火の残滓を横切った。
矢は人形の首元に吸い込まれ、判定光が赤く弾ける。訓練人形は二歩進んだところで膝を折って停止した。
火と矢の間に、一本だけ通る線があった。
「……入った」
蒼真は息を吐いた。
指先が熱い。弦を受けた親指の腹が、じんと重く残っている。だが、身体の内側には別の熱があった。
凛の火力に矢を足したのではない。
凛の火力が動かした先へ、矢を置いた。
直撃すれば一体を止め切る火力を、凛は倒すためではなく、動かすために置いたのだ。
「今のは悪くない」
凛が言った。
褒め言葉にしては、あまりにも淡い。けれど、凛の目は人形の停止位置と矢の角度を正確に見ていた。
「悪くない、なんだ」
「初回にしては、って意味」
「それ、褒めてるのか?」
「評価してるの。勘違いしないで」
ほのかが楽しそうに笑った。
「凛ちゃんの『悪くない』は、かなり褒めてる方だよ」
「ほのか」
「だって本当でしょ。さっきより、火球の置き方も優しかったし」
「優しくはしてない。寄せただけ」
「うん。寄せ方が優しかった」
「同じ意味にしないで」
凛が眉を寄せる。
そのやり取りに、蒼真の口元が緩んだ。張り詰めていた後衛レーンの空気が、少し柔らかくなる。
「神代くん、今の感じだと、私が守って作った隙間も撃てそうだね」
「光盾の端か」
「うん。全部塞ぐだけじゃなく、抜け道を作る守り方もできると思う」
「白瀬は、守るだけじゃないんだな」
「守るために、見てるんだよ」
ほのかは穏やかに言った。
その言葉に、蒼真は短く頷く。
凛は視線を的へ戻したまま、淡々と言った。
「話は後。次、来る」
「分かった」
「神代、さっきの感覚をもう一回」
「了解」
凛は神代と呼ぶ。
ほのかは神代くんと呼ぶ。
その二つの声が同じ戦場の違う場所から届く。
蒼真は矢筒から次の一本を抜いた。重藤弓の重さは変わらない。凛の火力はまだ圧倒的に大きい。ほのかの光盾に守られなければ、初手の遅れはそのまま失点になる。
けれど、矢を置く場所は見えた。
全部を撃ち抜く必要はない。全部を決める必要もない。
火が動かした先に、白い光が守った隙間に、蒼い軌跡を一本通す。
それが、この三人での最初の答えだった。
二度目は、同じようにはいかなかった。
凛の火球が足元を押さえた瞬間、人形は左ではなく後ろへ跳ねた。蒼真の矢は首元をかすめ、判定光は黄色で止まる。ほのかの光盾が前へ滑り込み、追撃の木剣を受けた。
「今のは、読みすぎ」
凛の指摘は早かった。
「同じ逃げ方をすると思った」
「訓練人形でも、二回目は変える。実戦ならもっと変わる」
「だよな」
悔しさはあった。けれど、不思議と沈まなかった。一射目の手応えが偶然ではないなら、二射目の失敗もまた必要な情報になる。蒼真は矢筒に触れ、残りの本数を指先で確認した。
「神代くん、今の外し方なら次に直せるよ」
「分かるのか?」
「分かるというより、見えた。神代くん、外した後にすぐ的を追ってたから」
ほのかは柔らかく笑う。守りながら、よく見ている。白魔法使いの視界は、ただ怪我を見るだけではないのだと蒼真は思った。
魔導人形が再び動き出す。
蒼真は足を半歩開き、弓を構えた。
まだ呼吸は揃っていない。呼び方も距離も役割も、探りながらだ。
それでも高い窓から落ちる四月の光の中で、赤い火と白い光と蒼い矢は一瞬だけ同じ場所を向いていた。




