第122話 真田誠
午後の光は、午前より白く見えた。
始業式の日のSクラス教室は、昼を挟んでもまだ落ち着ききっていない。机の配置は午前と同じだ。けれど黒板に書かれた班名と名前の列が、教室の空気を変えていた。
二年Sクラス第4班。
その横には神代蒼真の名前がある。続けて天城凛・白瀬ほのか・真田誠・綾瀬律・久我晴臣。六人の名前が並んでいる。
蒼真は自分の名前の位置を見て、右手の指先を握った。弽はつけていない。それでも指の腹には、昨日の重藤弓の弦の硬さがまだ残っていた。
「で、午後は各班で顔合わせだ。早いところは訓練場で軽く動いてこい。ただし初日から本気で潰し合ったら、俺の胃ではなく書類が死ぬ」
教卓の後藤が紙コップを片手にそう告げた。
教室のあちこちから笑いが起きる。後藤はそれを受け流すように肩をすくめた。
「班長は各班で決めろ。経験者がいるなら話は早い。いないなら、今日中に暫定でいいから置け。班長不在の班ほど面倒なものはない。誰も責任を取らない会議は、煙草のない喫煙所みたいなものだ」
「先生、それ例えとして成立してます?」
「俺の中では成立している」
前の方の席から突っ込みが飛び、後藤は真顔で返した。
その緩さの裏で、言っていることは重い。班長を決める。それは誰の指示で動き、誰の判断に背中を預けるのかを決めるということだ。
去年なら、考えるまでもなかった。蒼真が前に立ち、五人に声をかけて戦術を組んだ。悠斗が笑い、航が足りない部分を埋める。紅葉が索敵を告げ、里奈と真帆が後ろから支えた。
けれど今、黒板の隣にあるのは別の名前の列だ。
「神代」
低い声に呼ばれ、蒼真は顔を向けた。
真田誠が立っていた。午前の握手の時と同じく、姿勢に無駄がない。制服姿なのに、もう盾を構えているような安定感がある。
その後ろには凛とほのか、綾瀬、久我も集まっていた。久我は机に片手をつき、蒼真と真田を見比べている。綾瀬はメモ帳を取り出しかけて、すぐにしまった。
「さっきの続きだ。班長の件だが、俺がやる」
「異論はない」
蒼真はすぐに答えた。
自分でも驚くほど早かった。去年なら、まず班の適性を並べていたはずだ。誰が前に出るべきかも考えただろう。だが今回は違う。Sクラスでの経験があり、川崎麻衣のいた班をまとめてきた真田がいる。
その事実だけで、答えはほとんど決まっていた。
「早いな」
「真田はSクラスで班長をやってたんだろ。俺は、Sクラスのやり方を知らない」
「去年、お前は一般クラスで優勝班の班長だった」
「それでも、ここでは新入りだ」
言葉にすると、腹の底が重くなる。
新入り。
その響きは悔しくない。けれど簡単でもなかった。自分が積み上げてきた一年は消えない。それでも、この教室では最初から覚え直すことがある。
凛が腕を組み、蒼真を横目で見た。
「自分で言えるなら、分かってるのね」
「そこは分かってる扱いじゃないのか」
「全部分かってる顔をされたら困るでしょ」
「それは、そうだな」
ほのかが笑った。
「神代くん、去年は班長さんだったし。つい考えちゃうこともありそうだよね」
「たぶん、ある。口に出しかけたら止めてほしい」
「凛ちゃん、任された?」
「どうして私に振るの」
「一番早そうだから」
「……否定はしないけど」
凛が視線を逸らす。
そのやり取りに、久我が低く笑った。
「なるほどな。神代ってもっと無口な弓馬鹿かと思ってた。わりと普通に突っ込まれるんだな」
「弓馬鹿は否定しないけど、無口ではないと思う」
「そこ否定しないのかよ」
「嘘をつくところじゃない」
久我は一瞬きょとんとしてから、楽しそうに口角を上げた。
「いいな。そういう返し、嫌いじゃない」
「ありがとうございます。僕としては、最初の顔合わせで喧嘩にならなくて助かります」
綾瀬が丁寧に言うと、久我が肩をすくめる。
「俺は喧嘩売ってねえよ」
「久我くんの場合、声が大きいです。誤解されやすいと思います」
「律、お前は初日から俺に刺してくるな」
「事実なので」
淡々とした綾瀬の声に、ほのかが口元を押さえた。凛も目元を和らげる。
Sクラスの空気は張り詰めている。けれど、冷たいだけではない。蒼真はそのことを実感していた。
「場所を移そう。教室だと話しにくい」
真田が短く言った。
それだけで六人が動く。蒼真は反射的に最後尾から全員の位置を確認しようとして、自分で気づいて足を止めた。
真田が先頭に立つ。久我がその隣に並びかけ、真田に目で制されて半歩下がる。綾瀬は通路側へ自然に寄り、凛とほのかは中央を歩いた。
蒼真は一拍遅れて、その後ろへ入った。前を作るのは、自分ではない。その単純な事実が、足の置き場を変えた。
◇
訓練場は、始業式の日でも人がいた。
屋内の床は磨かれていて、午後の光が高い窓から斜めに落ちている。剣戟の音。《火球》が魔法訓練用の的に当たる鈍い響き。教官の声。一般クラスの訓練場と同じ施設のはずなのに、使い方の密度が違う。
真田は空いている一角を選び、六人を半円状に立たせた。
「まず、役割の確認をする。俺は騎士。前衛の基点として大盾とメイスを使う。去年は片手直剣と盾だったが、二年から装備を変えることにした」
「大盾、もう使い慣れてるのか?」
久我が尋ねる。
真田は首を横に振った。
「十分とは言えない。だが、第4層以降を考えるなら、前を止める力が要る。俺のスキルは《痛覚軽減》だ。派手な強化ではないが、崩れにくさなら出せる」
「《痛覚軽減》って、痛くないってこと?」
「痛みが消えるわけじゃない。鈍るだけだ。痛みで動きが止まる時間を減らせる」
「地味だけど、前にいる人には大事ですね」
ほのかが真面目に頷いた。
白魔法使いの言葉だからだろう。真田は表情を和らげた。
「白瀬の回復が届く前に倒れるのは避けたいからな」
「できれば倒れる前に教えてください。倒れてからだとわたしも焦ります」
「努力する」
「そこは『倒れない』って言ってほしかったです」
「絶対は言えない」
「真田くん、真面目だね」
ほのかの柔らかな声に、久我が笑う。
「真田はずっとこうだぞ。冗談に対しても盾構えて返す」
「久我。話が逸れる」
「はいはい」
真田は久我の軽口を流し、視線を凛へ向けた。
「天城は火魔法。中後衛の主火力だ。白瀬は回復と支援。綾瀬は斥候、罠。久我は前衛火力。神代は弓による中後距離火力。ここまではいいな」
「いい」
凛が短く答える。
蒼真も頷いた。
「方針は?」
その言葉は、ほとんど反射で出た。
言ってから、蒼真は喉が硬くなるのを感じた。旧第5班なら、ここから自分が話し始めていた。敵の数。通路幅。射線。前衛の位置。後衛の逃げ道。
真田は責めるようには見なかった。ただ、蒼真をまっすぐ見返した。
「俺が前を作る。久我は俺の横か斜め前で圧をかける。天城は面で削る。神代は、俺と久我が止めた相手の急所を抜く。白瀬は回復と防御の判断を自分で持つ。綾瀬は敵の接近方向と足音の違いを最優先で共有する」
「俺は、射線を優先して動いていいのか?」
「動いていい。ただし、俺の盾の後ろに固定される必要はない。お前は、盾の陰で撃つ射手じゃないだろ」
「……分かった」
指先に力が入った。
それは気を遣われたからではない。真田が蒼真の戦い方を、ただの後衛としてではなく見ていたからだ。
同時に、真田の言葉には線があった。
自由に動いていい。だが、班の前は真田が作る。
蒼真はその線を頭の中でなぞった。
「ただし」
真田が続ける。
「指示が重なった時は、俺の声を優先してくれ。戦術案がある時は出していい。むしろ出してほしい。だが、最終決定は俺がする」
「了解」
短く返す。
その一言が、自分の中に落ちるまでに少し時間がかかった。
了解。
去年、悠斗や航や紅葉たちが自分に返してくれていた言葉だ。今度は、自分が誰かに返す側になる。
「神代くん、大丈夫?」
ほのかがそっと声をかけた。
蒼真は一度息を吸う。
「大丈夫。変な感じがしただけ」
「班長じゃない感じ?」
「うん」
「それ、たぶん普通だと思うよ。いきなり切り替えられたら、それはそれで怖いし」
「白瀬、地味に厳しいな」
「そうかな?」
ほのかが首を傾げる。
凛が横から言った。
「ほのかは時々そういうことを平気で言う」
「凛ちゃんほどじゃないよ」
「私は必要なことしか言ってない」
「今のも必要だった?」
「……たぶん」
短いやり取りに、蒼真の口元が緩んだ。
張っていた息が抜ける。新しい班は、まだ形になっていない。けれど、声の置き場所は見え始めている。
「真田」
蒼真は改めて真田を見た。
「俺の射は、止まってる相手には強い。けど、速い相手や複数の相手に詰められると弱い。弓を変えてからは、威力は上がったけど速射性は落ちてる。そこは最初に伝えておきたい」
「分かった。威力を当てにする。ただし連射で穴埋めする前提にはしない」
「助かる」
「代わりに、決めるべきところでは決めてもらう」
「それは、やる」
蒼真の声は、自分でも思ったより強かった。
久我が満足そうに笑う。
「いいじゃねえか。高火力狙撃手ってやつだな」
「外したら怒られるやつだ」
「外すなよ」
「簡単に言うな」
「弓馬鹿なら当てるだろ」
「弓馬鹿の信頼が雑すぎる」
久我の笑い声が訓練場の一角に響く。
綾瀬がその横で、周囲の音に耳を澄ませるように顔を傾けていた。彼の意識は会話にありながら、訓練場全体の音も拾っているように見える。
「律」
真田が声をかける。
「神代の射線に必要な情報を、どう渡す?」
「距離と方向。足音の数と重さ。あとは見えていない敵が速度を変えた時です。僕の報告は視覚より一拍早いことがあります。ただ、形までは見えません」
「鬼塚は、見えたものをそのまま教えてくれる斥候だった。綾瀬は、見える前の変化を教えてくれるのか」
「はい。神代くんの言い方だと、そうなります」
綾瀬は頷いた。
「ただ、音だけだと誤差もあります。だから、神代くんがどの情報で弓を射るのか、早めに確認したいです」
「分かった。俺も、音の報告でどこまで引けるか試したい」
「では、次の訓練でお願いします」
「うん」
話が形になっていく。
真田が前を作り、久我が圧をかける。凛が火力を置き、ほのかが支え、綾瀬が音を拾う。その中で、蒼真は射を置く。
それは旧第5班とは違う配置図だった。悠斗の槍も航の剣もない。紅葉の《視力強化》も、里奈の氷も、真帆の白い光もない。
ない、と意識した瞬間だけ喉が詰まる。けれど、その空白を埋めるように、新しい線が一本ずつ引かれていく。
「真田」
凛が声を上げた。
「火魔法の射線と、神代の射線は被る可能性がある。そこは最初に整理した方がいい」
「そうだな。天城、神代。次の訓練では、互いの射線を確認する」
「了解」
「分かった」
凛と蒼真の返事が重なった。
一瞬だけ、凛がこちらを見る。蒼真も目を合わせる。
同じ班。
その事実が、教室で名前を見た時よりも具体的になる。
「今日は顔合わせと方針確認までだ。装備を持ってきていない者もいる。明日以降、実際に動く」
真田がまとめる。
その声には迷いがなかった。派手ではない。だが、六人の視線が自然に集まるだけの重さがある。
「最後に一つだけ言っておく」
真田は蒼真だけではなく、全員を見た。
「川崎が抜けたことについて、俺は何も感じていないわけじゃない。去年の班は去年の班だ。だが、今日からはこの六人で第4班だ。前の班をなかったことにはしない。けれど、引きずって動きを鈍らせるつもりもない」
その言葉に、蒼真は何も返せなかった。
真田もまた、組み替えられた側だった。蒼真が旧第5班を離れたように、真田も川崎麻衣が抜けた班の前に立っている。
自分だけが寂しいわけではない。自分だけが、新しい場所に放り込まれたわけでもない。
凛もほのかも黙っていた。久我も綾瀬も、何も茶化さなかった。
「だから、神代」
真田の視線が蒼真へ向く。
「お前が旧班を大事にしていることは分かる。それでいい。ただ、この班で戦う時は、俺たちの背中も見てくれ」
「……分かった」
蒼真は右手を握った。
弦はない。矢もない。けれど、頭の中に新しい射線が一本引かれた。
「真田」
「何だ」
「よろしく、班長」
真田は一瞬だけ表情を引き締めた。
それから、短く頷いた。
「ああ。よろしく、神代」
高い窓から落ちる四月の光が、訓練場の床に長く伸びていた。その光の上に、まだ揃っていない六つの影が並ぶ。
蒼真はその端に立ち、前にいる真田の背中を見た。
班長ではない。
けれど、射を置く場所はある。
まだ届かない距離も、まだ噛み合わない呼吸もある。それでも、第4班の最初の線は、確かに足元から伸び始めていた。




