第121話 Sクラスの席
教室へ一歩入ると、空気の密度が変わった。
窓から差し込む四月の光は一般クラスの教室と同じように机の列を照らしている。黒板も教卓も特別ではない。けれど、そこに座る生徒たちの視線だけが違った。
歓迎。好奇。警戒。それから、値踏み。
その全部が、蒼真へ向けられていた。
弓は持っていない。けれど背中の奥で、昨日の重藤弓の張りがまだ疼いている。背筋を丸めるなと、弦の記憶に言われているようだった。
「適当に座れ。と言いたいところだが、Sクラスで適当という言葉を使うと後で俺の胃が痛くなる」
教卓に立った後藤が、紙コップのコーヒーを隅へ置いた。
その横には榊原が立っている。半歩後ろで教室を柔らかく見渡す目は、去年のSクラス担任だった時のままだった。
小さな笑いが起きた。須藤が言っていた通り、Sクラスは静かではない。だが、こちらへ向ける視線の芯はぶれない。
「まず、今年度の二年Sクラス担任は俺、後藤喜一郎だ。去年一年Sクラスを見ていた榊原先生は、今年度から副担任扱いになる」
ざわめきが静まった。
榊原が一歩前に出る。
「皆さん、改めて進級おめでとうございます。今年度は後藤先生が担任として皆さんを見ることになります。わたしは副担任として、しばらくの間、事務手続きや引き継ぎと後藤先生のサポートを担当します」
榊原の声は穏やかだった。
けれど、その言葉に続きがあることは、Sクラスの生徒たちも察しているらしい。凛の横顔が真面目な色になる。ほのかも背筋を伸ばした。
「夏前には産休に入る予定です。だから、教室に立つ機会は去年より少なくなります。でも、相談があれば遠慮なく声をかけてください。皆さんが二年生として最初の一歩を踏み出すところまでは、わたしも近くで見ています」
教室は静かになった。
祝う気持ち。去年一年を見てくれた教官への名残。これから変わる体制への緊張。
その全部が、短い沈黙の中にあった。
後藤が紙コップを持ち上げ、こほんと小さく咳をした。
「というわけで、榊原先生への感謝と祝いの言葉は後で言え。今まとめて言われると、俺のホームルームが五分で崩壊する」
「後藤先生、そこは素直に言わせてあげてもいいところでは?」
「俺もたまには時間管理をする」
「たまには、なんですね」
今度は榊原も笑った。
重くなりかけた空気が和らぐ。蒼真はそのやり取りを見て、去年の後藤と旧第5班の教室を思い出した。場所は違う。顔ぶれも違う。けれど、教室の空気を無理に固めないところは、やはり後藤だった。
「次に、こいつだ」
後藤の視線が蒼真へ向き、教室中の視線もまた集まる。
「一般クラス一組から昇格した、神代蒼真。適性は弓術士。去年の対人戦で見たやつも多いだろうが、本人の挨拶くらいは聞いておけ」
急に振られた。
蒼真は一瞬だけ後藤を見る。後藤は当然のように紙コップへ口をつけていた。助ける気は、たぶんない。
須藤が窓際の方で腕を組んでいる。凛は前より内側の席に立ち、こちらを見ていた。ほのかは小さく頷く。その頷きに、肩の力が抜けた。
「神代蒼真です。弓術士です。去年までは一般クラス一組の第5班で、班長をしていました」
そこまで言って、旧第5班の顔が頭を過ぎった。
悠斗の大きな声。航の冷静な突っ込み。紅葉の笑顔。里奈と真帆の、戦闘前の緊張した表情。
喉の奥が熱を持つ。
「まだ、Sクラスの動きは分かっていません。分からないことは聞きます。迷惑をかけたら、すみません。でも、弓術士として必要な一本は外さないようにします。よろしくお願いします」
教室の空気が動いた。
拍手が起きた。大きすぎない。けれど、形だけでもない拍手だった。
蒼真は頭を下げる。顔を上げた時、肩幅のある男子と大柄な男子、小柄な男子がそれぞれ違う目でこちらを見ていた。
「よし。挨拶は済んだ。で、ここからが本題だ」
後藤が黒板に白いチョークで大きく書いた。
班編成。
その三文字が出た瞬間、教室が一段引き締まった。
蒼真にも分かった。ここにいる生徒たちにとって、班はただの席順ではない。背中を預ける相手であり、自分の戦い方を決める環境そのものだ。
「今年度の初期班は、去年の班を継続しない」
後藤が言い切ると、教室に小さなざわめきが走った。
「理由は三つ。一つ、神代が入った。二つ、川崎が抜けた。これで既存班の形はすでに崩れている。三つ、Sクラスに求めるのは、強い班であり続けることだけじゃない」
後藤はチョークを置き、教室を見渡した。
「強い連携を作るのは当然だ。だが、一年間同じ面子で固めた連携だけに頼るな。適性や癖、判断速度の違う相手と組まされても、短期間で役割を作り直す。それも二年Sクラスの課題だ」
蒼真の喉が、きゅっと詰まった。
自分が再編の理由の一つになっている。
川崎が旧第5班へ入り、自分がSクラスへ来た時点で、どこかの班は必ず組み替わる。それでも教室の前で明言されると、気まずさがあった。
その時、凛がこちらを見た。
何かを言うわけではない。ただ、目は逸らされなかった。
ほのかも、柔らかい表情のまま見つめている。
責められているわけではない。
そう思えただけで、指先の強張りが緩んだ。
「とはいえ完全な遊びのくじ引きではない。職種バランスが崩れないよう、こちらで箱は分けてある。前衛だけ六人とか、後衛だけ六人とかいう地獄は作らん」
「先生、後衛だけ六人は地獄なんですか?」
「白瀬。白魔法使い六人でゴブリンの群れに囲まれたいか」
「それはちょっと困りますね」
「ちょっとで済ませるあたりが白瀬だな」
教室に笑いが起きる。凛が小さく息を吐き、ほのかは穏やかな顔のまま教室の空気を軽くしていた。
後藤が机の上に小さな箱をいくつか置いた。
前衛・後衛・斥候・支援。箱の側面にそう書かれている。チョークの字ではなく、事前に貼られた紙だ。つまり、本当に準備してあったらしい。
「名前を呼ばれたら引け。引いた番号が同じ者で班を組む。文句は一晩だけ受け付ける。一晩寝ても文句が残っているなら、明日聞く」
また胃の話だ、と誰かが小さく笑った。
くじ引きは、思ったより淡々と進んだ。蒼真は後衛寄りの箱から紙を引いた。
四。
小さく折られた紙に、太い数字が書かれていた。
四番。意味のない数字のはずなのに、妙に手の中で重い。
「神代、四番」
後藤が黒板に名前を書いた。
神代蒼真。
その横に、少し遅れて別の名前が並んでいく。
天城凛。
白瀬ほのか。
真田誠。
綾瀬律。
久我晴臣。
蒼真は黒板のその列を見た。
凛とほのかが、同じ番号を引いている。心臓が一拍強く鳴った。ほのかと目が合って、にこりと笑われる。
「同じ班だね、神代くん」
「うん。よろしく、白瀬」
「こちらこそ。凛ちゃんも」
「分かってる」
凛は紙を指先で折りたたみながら、蒼真を見る。
「よろしく、神代。班が同じなら、遠慮はしないから」
「それは助かる。俺も、分からないところは聞く」
「聞く前に考えなさい」
「考えてから聞く」
「ならいいわ」
短い会話だった。けれど、そこに拒絶はなかった。
「神代」
低く、よく通る声がした。
振り向くと、肩幅のある男子が立っていた。真田誠。近くで見ると、制服の上からでも体幹の強さが分かる。前に立たれるだけで、盾を構えた時の安定感が想像できた。
「真田誠だ。よろしく」
「神代蒼真。よろしく、真田」
握手を交わす。
真田の手は厚く、力任せではない強さがあった。
「班長は、後で決める形か?」
蒼真が尋ねると、真田は眉を動かした。
「その話は次のホームルーム後でいい。だが、俺は立候補するつもりだ」
「分かった」
「神代は?」
「俺は、まずSクラスのやり方を覚えたい。去年は班長だったけど、今年は班員として動くつもりでいる」
言葉にすると、体の奥にあった力みがほどけた。
真田はその返答をまっすぐ受け止めた。
「なら、助かる。お前の射は使いたい。だが、指揮系統は乱したくない」
「俺も、そのつもりだ」
その横から、小柄な男子が控えめに会釈した。
「綾瀬律です。斥候です。よろしくお願いします。神代くん」
「よろしく、綾瀬」
「弓術士の方と組むのは初めてなので、距離の取り方を確認させてください」
「俺も、斥候の報告の受け方を覚えたい。去年は視力強化の斥候と組んでた。綾瀬はたしか《聴覚強化》だよな」
「はい。見えるものと聴こえるものは違います。そこはたぶん面白いと思います」
蒼真の中で、まだ見えないダンジョンの通路に、別の種類の索敵線が一本引かれる。
「で、俺が久我晴臣だ」
最後に、大柄な男子が片手を上げた。久我晴臣。肩幅が広く、口元には自信の強い笑みがあった。
「神代、噂は聞いてる。一般クラスから上がってきた弓術士ってやつだろ」
「その言い方だとだいたい合ってる」
「だいたいじゃなくてかなり合ってるだろ。俺は剣士。前で割る。お前は後ろから射る。分かりやすくていい」
「分かりやすいのは助かる」
「ただし俺の背中はでかいからな。射線を塞いだら悪い」
「塞がれたら、横から射つさ」
久我が一瞬だけ目を丸くし、それから笑った。
「いいな。遠慮ない方が楽だ」
「久我、初日から圧をかけるな」
「かけてない。ただの挨拶だ」
綾瀬が小さく目を伏せた。笑ったのかもしれない。
ほのかが楽しそうに見ている。凛も距離を置く様子はない。
蒼真は、黒板の第4班の列をもう一度見た。
真田が止める。
久我が割る。
綾瀬が聴く。
凛が焼く。
ほのかが支える。
その中で、自分は射を置く。
まだ、何も始まっていない。
けれど、頭の中に配置図の輪郭だけが浮かび始めていた。
「全員、班は確認したな」
後藤の声が教室に通る。
黒板には六つの班が並んでいた。去年の形ではない、新しいSクラスの地図だ。
「今日の午後は始業式と各種連絡で終わる。明日からは、座学も訓練も通常通りだ。新しい班での顔合わせは今日中に済ませておけ。名前だけ知ってる相手とダンジョンに入らせるほど、俺は優しくないぞ」
後藤はそこで一度言葉を切り、蒼真の方を見た。
「特に第4班。神代が入ったことで、良くも悪くも注目される。真田、まとめろ」
「はい」
真田が短く返事をした。その一音に、前に立つ者の重さがあった。
「神代」
後藤が続ける。
「お前は、ここでは班長じゃない。だが、ただ後ろにいるだけの弓術士でもない。自分の射を置く場所を、班の中で探せ」
「はい」
返事は、今度は固くなかった。
右手の指先を軽く握る。弦はない。けれど、弦音の記憶はある。
Sクラスの席。黒板に書かれた第4班の中に、自分の名前がある。
窓の外では、桜の花びらが春の風に流されていった。
蒼真はその白い影を視界の端で追いながら、メンテナンスノートの一行の続きを頭の中で書き足した。
Sクラスで、弓術士として役割を得る。
そのための最初の席は、もう決まった。




