第120話 二年生、始まる
四月の朝の空気には、まだ冬の名残があった。
錦町から学院へ向かう道は春休みの間より人の流れが明らかに多い。制服の肩を並べる新入生らしい集団がいて、二年生になった生徒たちが慣れた顔で正門を潜っていく。学院の門柱の向こうでは桜の花びらが風に乗り、石畳の上を滑っていた。
蒼真はその流れの中で、一度だけ右肩を回した。
昨日の重藤弓の張りは、まだ完全には抜けていない。痛みではない。右肩の奥と背中の筋肉が、あの弓の重さを覚えていた。
今日は始業式だ。弓は持ってきていない。いつもの和弓も重藤弓も、錦町の部屋に置いてきた。
鞄の中にあるのはメンテナンスノートと筆記具、それから始業式に必要な書類だけだ。弽も入っていない。指先が軽いのに落ち着かない。
去年の四月一日、同じ正門を潜った時は何も知らないまま胸だけが勝手に熱くなっていた。悠斗にいきなり肩を叩かれた。適性を聞かれ、弓術士だと答えると、かっこいいと言われた。
その声が、今も耳の奥に残っている。
今日は、その悠斗も航も隣にいない。
寮へ向かう道の方を見れば、一般クラスの生徒たちがまとまって歩いている。知った顔もいくつかあった。手を振られたので蒼真も軽く返す。けれど、足の向きは違う。
昇降口を抜けて、Sクラス棟へ向かう。
たったそれだけのことなのに、廊下の空気が変わったように思えた。教室の位置が違う。下駄箱の並びが違う。廊下に立つ生徒の顔ぶれも違う。
蒼真は鞄の肩紐を握り直し、息を一つ吸った。
緊張はある。
けれど、それ以上に、体の内側がじっとしていなかった。
Sクラス。
去年の春からずっと遠くに見えていた場所。水泳授業で同じプールにいても、訓練場ですれ違っても、観客席に姿を見つけても、そこは別の高さにあった。
そこへ、自分の足で向かっている。
右手の指先が、無意識に弦を引く形を作りかけた。弓はない。それでも、弦音の記憶だけは残っていた。
「来たか」
廊下の角を曲がったところで、低い声がした。
蒼真が顔を上げると、壁に背を預けた須藤大河がいた。鞄を肩に掛け、いつものように表情は読みにくい。けれど立っている位置が不自然だった。
教室の前でも窓際でもない。昇降口からSクラス教室へ向かう者が、必ず通る場所だ。
蒼真は口元を動かした。
「来た」
「迷わなかったな」
「校内で迷ったら、さすがにまずいだろ」
「初日は分からない。一般クラス棟へ行く癖が残っているかと思った」
「それは、ちょっとあった」
正直に答えると、須藤の目が細くなった。
笑った、というほどではない。口元もほとんど動いていない。だが、機嫌が悪い時の須藤ではなかった。
むしろ、かなり良い。
蒼真はそれに気づいたが、指摘はしないことにした。言ったら面倒な顔をされるだろうし、たぶん本当に面倒なことになる。
「重い弓とやらは持ってきていないのか」
「始業式に持ってくるものじゃないだろ」
「お前なら持ってくるかと思った」
「須藤の中で、俺はどういう扱いなんだ」
「弓を持っていない方が違和感のある弓術士」
「間違ってないのが嫌だなぁ」
蒼真が苦笑すると、須藤は壁から背を離した。
歩き出す方向は同じだった。Sクラスの教室へ向かう廊下。須藤と並んで歩くと、四月の模擬戦前の廊下を思い出す。
あの時、須藤は蒼真を止めるために声をかけた。
今は、同じ教室へ向かっている。
それだけで、去年一年の距離が別のものになった気がした。
「神代」
「ん?」
「Sクラスは、一般クラスより静かではない」
「え、そうなのか」
「強いやつほど、妙なところでうるさい」
「それ、須藤も含まれてる?」
「僕は静かだ」
「今、自分で言うのはちょっと怪しい」
須藤が横目だけを向ける。
蒼真は思わず笑った。
緊張が、いくらかほどけた。
廊下の先に、二年Sクラスの札が見えた。白いプレートに黒い文字。それだけのものなのに、蒼真の足が半歩遅れる。
教室の中からはいくつもの声が聞こえた。低い声や高い声、机を動かす音、誰かが笑う音。須藤の言った通り、想像していたほど静かではない。
ただし、ただ騒がしいわけでもなかった。
声の端々に張りがある。互いを知っている者同士の遠慮のなさと、これから何かが変わることへの気配。その両方が混ざっていた。
蒼真は教室前で足を止めた。
そこに、二人の女子がいた。
天城凛と、白瀬ほのか。
凛は腕を軽く組み、教室の扉の横に立っていた。金の髪はいつものように整い、春の廊下の光を受けている。ほのかはその隣で柔らかい笑みを浮かべていた。
蒼真の心臓が、一拍だけ強く鳴った。
それは去年の春のような、遠くから見上げるだけの鼓動ではない。けれど、落ち着いているとも言い切れなかった。
同じ教室。
その言葉が、今さら実感になった。
「遅い」
凛が最初にそう言った。
蒼真は反射的に廊下の時計を見る。始業式前のホームルームまでは、まだかなり時間があった。
「まだ早い方だと思うけど」
「Sクラスの始業式当日にしては遅い」
「基準が高いな」
「当然でしょ」
凛の声は素っ気ない。
けれど、目は逸らされなかった。
蒼真が返す言葉を探していると、ほのかが一歩だけ前に出た。
「神代くん、同じクラスだね」
「うん。よろしく、白瀬」
「こちらこそ。凛ちゃんも、ちゃんと言うことあるんじゃない?」
「言われなくても分かってる」
凛が小さく息を吐く。
それから、蒼真を見る。
「……よろしく、神代」
「よろしく、天城」
去年なら、それだけで蒼真はうまく返せなかった。
今は、声が出た。出たあとで指先に力が入る。
ほのかがそのやり取りを見て、目元を柔らかくする。茶化すのではなく、空気が固まりすぎないよう受け止める笑みだった。
「凛ちゃん、朝からちょっと落ち着かなかったんだよ」
「ほのか」
「だって、教室前で待ってたのは本当だし」
「待ってたわけじゃない。教室に入る前に、廊下の空気を見ていただけ」
「廊下の空気って見るものなんだ」
「見るわよ。探索者なら」
凛が真顔で言い切るので、蒼真は笑っていいのか迷った。
須藤は隣で何も言わない。だが、視線を外している。たぶん、笑いかけたのを隠している。
蒼真はそれにも気づいたが、やはり言わないことにした。
「神代くん、荷物それだけ?」
ほのかが蒼真の鞄を見る。
「今日は始業式だから。弓は置いてきた」
「橘くんは見たがってそうだね」
「昨日も言われた。挨拶代わりに持っていけって」
「橘らしいわね」
凛の声が柔らかくなった。
旧第5班の名前がSクラスの廊下で出たことに、蒼真は小さな安心を覚えた。
ここに来たからといって、あの一年が消えるわけではない。昨日、悠斗と航と拳を合わせた音はまだ手の甲に残っている。
蒼真は鞄の肩紐から手を離した。
「今日から、こっちでもよろしく」
自分で言ってから照れた。
凛は一瞬だけ目を瞬かせる。ほのかは嬉しそうに頷いた。
「うん。神代くんが来てくれるの、楽しみにしてた」
「ほのか」
「これは本当のことだから、いいでしょ」
「……別に、否定はしてない」
凛は視線を教室の扉へ向ける。
その横顔を見て、蒼真は余計なことを言わないことにした。
代わりに、教室の札を見る。
二年Sクラス。
去年は遠かった文字が、今は目の前にある。
「おい、お前ら」
背後から、気だるげな声がした。
振り返ると、後藤が紙コップのコーヒーを片手に歩いてきていた。スーツは相変わらずくたびれていて、ネクタイも少し曲がっている。
その隣には、榊原がいた。
淡い色のジャケットに書類の挟まったファイル。去年まで担任として教室の前に立っていた時より、後藤の半歩後ろにいる。けれど、周囲を見る柔らかい目は変わっていなかった。
Sクラス担任の後藤と、その横に並ぶ榊原。
その二人が一緒にいるだけで、新年度の教室へ向かう廊下に、去年とは違う輪郭が生まれていた。
「廊下で門番でもするつもりか。始業式の朝から入口が詰まってると、俺の胃が詰まる」
「後藤先生、初日から胃を詰まらせないでください」
「詰まらせてるのは俺じゃなくて入口だ」
「その表現、たぶん流行らないと思います」
「榊原先生にも不評か。新年度早々、厳しいな」
「先生、俺も初めて聞きました」
「そうか。三票入ったなら廃案だな」
榊原が小さく笑った。
その笑顔を見て、蒼真は自然と背筋を伸ばす。
「おはようございます、榊原先生」
「おはよう、神代くん。ここからだね」
「はい」
後藤は蒼真を見た。
その目が、いつもの眠そうな色から少し鋭くなる。
「来たな、神代」
「はい」
「今日からこっちだ。まあ、急に何かが変わるわけじゃない。だが、何も変わらないわけでもない」
「はい」
「返事が固いな。昨日の橘の方がまだ肩の力が抜けてたぞ」
「悠斗、先生の前でも班長って言ってました?」
「三回聞いた」
「朝だけで三回は多いな」
思わずそう言うと、後藤が紙コップを軽く揺らした。
「本人が慣れるまで言うんだろう。お前も、慣れるまで言っておけ。Sクラスの神代、とな」
「自分で言うのは、ちょっと恥ずかしいです」
「なら、行動で慣れろ」
「その話も含めて、続きは中でしましょう。初日から廊下で全部済ませると、本当に入口が詰まります」
「ほら見ろ。入口は詰まるんだ」
後藤はそれだけ言って、教室の扉に手をかけた。
榊原がその横に立ち、凛とほのかが自然に一歩退く。須藤も扉の横から離れた。
蒼真は、最後に一度だけ廊下の先を見た。
一般クラス棟は見えない。悠斗たちの声も聞こえない。
それでも、昨日の拳の音は消えていない。メンテナンスノートに書いた一行も残っている。
Sクラスで、弓術士として役割を得る。
その一行の続きは、ここから書く。
後藤が扉を開けた。
教室の中の視線が、一斉にこちらを向く。歓迎。警戒。好奇。値踏み。いくつもの感情が、春の朝の光の中で揺れた。
蒼真は一度だけ息を吸う。
指先が軽い。
弓はない。
けれど、背筋は自然と伸びた。
「行くぞ」
後藤が言う。
蒼真は頷き、二年Sクラスの教室へ足を踏み入れた。
窓から差し込む四月の光が、机の列を白く照らしている。
二年生が、始まった。




