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蒼弓の軌跡 ~探索者学院唯一の弓術士は静かに頂を狙う~  作者: 七夜灯
第六章 Sクラスの弓術士編

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第119話 班長ではない朝

 四月の始業式を翌日に控えた朝、蒼真は錦町のマンションでメンテナンスノートを開いていた。


 机の右側には、昨日試射した重藤弓(しげとうゆみ)が布に包まれて置かれている。布越しでも、そこだけ空気が重く感じられた。弓が重いのではなく、自分の背中と肩がまだそれを覚えている。


 起きてすぐ、右肩を回した時に、鈍い張りがあった。筋肉痛というほどではない。けれど、いつもの和弓を百射した翌朝とは違う種類の疲れが残っていた。

 たった十射で、だ。

 蒼真は苦笑しながら、ノートの新しいページに日付を書く。


 四月。二年次開始前日。

 その下に、いつもの癖で線を引いた。


『新年度目標』


 そこまではすぐに書けた。

 問題は、その次だった。


 去年の自分なら、迷わず書いていた。第5班の方針。探索時の基本配置。前衛二人の役割。紅葉の索敵範囲。里奈と真帆の魔法の使いどころ。自分がどこから射を置くか。

 班の形を、まず紙の上に作る。

 それが、班長になってからの蒼真の癖だった。


 ペン先が紙の上で止まる。

 小さな黒い点だけが、白いページに滲んだ。


「……俺、もう班長じゃないんだよな」


 声に出してみると、思った以上に妙だった。

 寂しい、だけではない。

 不安、だけでもない。

 肩の上に乗っていた荷物を降ろしたはずなのに、そこにあった重さを体が探している。そんな感覚だった。


 旧第5班は終わっていない。悠斗たちは新しい第5班として続いていく。川崎も加わった。悠斗が班長になる。

 頭では全部分かっている。

 それでも、ノートの目標欄に「班の方針」と書こうとして手が止まった時、心にぽっかりと空いた隙間までは誤魔化せなかった。


 蒼真は一度ペンを置き、台所へ行って水を飲んだ。

 冷たい水が喉を通る。昨日の試射で乾いた体に染みるようだった。

 戻ってから、もう一度ノートを見る。


 班長ではない。

 なら、何を書くべきか。

 Sクラスで、自分は何になるのか。

 祖父の手紙の一文が、頭の中に戻ってくる。


 弓に引かれるな。


 強い弓を持ったからといって、自分が強くなったわけではない。Sクラスに上がったからといって、自分の場所が勝手に用意されているわけでもない。

 場所は、これから探す。

 蒼真はペンを取り、ゆっくりと書いた。


『Sクラスで、弓術士として役割を得る』


 書き終えた瞬間、息が楽になった。

 班を率いるのではない。

 誰かが作る戦場の中に、射を置く。

 後藤の言葉が、昨日の弦音みたいに内側で反響する。

 そのためには、まず重藤弓に振り回されないこと。新しい班の前衛や魔法使いの動きを見ること。凛とほのかがどう動くのか、須藤たちSクラスの基準がどれくらい高いのかを知ること。


 書くことは、いくらでもあった。


 けれど、今日は一行でいいと思った。

 蒼真はノートを閉じ、弓袋へ手を伸ばした。重藤弓を入れようとして、迷う。

 始業式は明日だ。今日の自主訓練で使うなら学院に持っていくべきだが、昨日の疲労が残っている状態で無理に引いても射形を崩すだけだ。

 結局、今日はいつもの和弓を持っていくことにした。

 重藤弓は、布の中で黙っている。


「逃げたわけじゃないからな」


 弓に言い訳するように呟いてから、蒼真は自分で苦笑した。


 一人は大きく手を振りながら何かを喋っている。もう一人は少し横を歩き、鞄の肩紐を直しながら聞いている。

 悠斗と航だった。

 蒼真が足を速めるより先に、悠斗が振り返った。


「お、蒼真! なんだよ、今日も訓練か?」

「そっちもだろ」

「まあな。始業式前日だからこそ、槍を振っとかないとな。明日から班長だし」


 悠斗は軽く胸を叩いた。

 いつもの調子だった。声は大きいし、笑い方も変わらない。けれど、蒼真にはその手の動きがいつもより速く見えた。

 航が横から視線だけを向ける。


「こいつ、朝から三回それ言ってる」

「三回じゃねえよ。二回だろ」

「今ので三回目」

「数えんなよ、参謀」

「班長の発言回数を記録するのも仕事かもしれないだろ」

「やめろ。俺の班、初日で議事録がうるさくなる」


 くだらないやり取りに、蒼真は笑った。

 この空気は変わらない。悠斗が大きな声で言い、航が冷静に刺す。蒼真がその間で笑う。

 それだけで、空いた隙間が埋まっていくようだった。

 悠斗がふと、前を向いたまま言った。


「なあ、蒼真。班長って何すりゃいいんだろうな」


 軽い声だった。

 まるで、今日の昼飯を何にするか聞くみたいな調子だ。

 だから蒼真も、反射的に答えようとした。


 班員の状態を見る。探索前に目的を決める。戦闘中は全員の位置を把握し、撤退判断を遅らせない。誰かが迷った時に、最初の言葉を出す。

 いくつも浮かんだ。


 浮かんだのに、口から出なかった。

 それは全部、蒼真が第5班でやってきたことだ。けれど、それをそのまま悠斗に渡せばいいわけではない。


 悠斗には悠斗の班がある。槍使いとして前に出る班長と、弓術士として後ろから全体を見ていた班長では、同じ言葉でも意味が変わってくる。

 蒼真が黙ったことで、悠斗が横を見た。


「……いや、そんな真面目に考えなくていいって。なんかこう、班長経験者からありがたい一言を貰おうと思っただけだから」

「一言で言うと、たぶん嘘になる」


 蒼真が答える前に、航が言った。

 悠斗が「お前に聞いてねえし」と眉を寄せる。


「でも、航の言う通りだと思う」


 蒼真はゆっくり頷いた。


「俺がやってたことをそのまま言っても、悠斗の班には合わないかもしれない。川崎も入るし、航も盾を使うんだろ。里奈と真帆の魔法も去年の春とは全然違う。紅葉の索敵も悠斗がどう動くかで使い方が変わる」

「うわ、急に全部言われると胃が重い」

「聞いたのは悠斗だろ」

「そうなんだけどさー……」


 悠斗は頭を掻いた。

 笑っている。だが、いつもの馬鹿みたいに明るい笑い方とは少し違った。口角だけが先に上がって、目が遅れてついてくる。

 蒼真は、その違いに気づいてしまった。

 たぶん航も気づいている。けれど航は、すぐには何も言わなかった。


「俺さ」


 悠斗がぽつりと言った。


「班長になるって聞いた時はちょっと嬉しかったんだよ。いや、かなり嬉しかった。蒼真のあとを任されるってことだろ。めちゃくちゃ燃えるじゃん」

「悠斗らしいな」

「だろ。でも昨日の夜、槍の手入れしてたら急に思ったんだよな。俺、蒼真みたいに全員見えてたっけ、って」


 その言葉は、軽口ではなかった。

 蒼真は歩幅を緩める。

 悠斗は前を向いたまま続けた。


「俺は前に出るのは得意だよ。突っ込むのも敵を止めるのも、たぶん去年よりできる。でも班長って前に出ればいいだけじゃないんだろ。里奈が魔法を撃つタイミングとか、真帆が回復する余裕とか。紅葉がどこを見ているかとか、航が盾に変えたらどこまで任せていいかとか。そういうのを考え始めたら、寝るのが遅くなった」

「だから朝からやけに元気だったのか」


 航が言うと、悠斗が顔をしかめた。


「元気じゃなかったら不安ってバレるだろ」

「今、自分で言った」

「うるせえ」


 いつもの調子に戻りかけた声が、揺れた。

 蒼真はしばらく言葉を探した。

 班長としての正解を言うことはできない。自分だって、最初からできていたわけではない。初めての第2層で、里奈を追いかけた時の恐怖。真帆の怪我。後藤への通信。全部まだ体に残っている。

 失敗しなかった班長ではない。

 失敗して、それでも六人で帰ってきただけだ。


「悠斗」

「ん?」

「全部見るのは、たぶん無理だ」

「おい、班長経験者の一言、重すぎない?」

「でも、一人で全部見る必要もないと思う」


 悠斗が黙った。

 航も横で、一瞬視線を下げる。


「俺は紅葉に何度も助けられた。航にも悠斗にも里奈にも真帆にも。俺が見えてないところを、みんなが見てた。だから俺は、最後に決める時だけ迷わないようにしてたんだと思う」

「最後に決める時だけ、か」

「撤退するか進むか。誰に任せるか。今撃つか待つか。そういうところで班長が迷うと全員が止まる。逆に言うと、それ以外は全部自分で持たなくていいんじゃないかな」


 言いながら、蒼真は自分にも言い聞かせていることに気づいた。

 新しい班で、自分は班長ではない。

 なら、誰かが決める場面で横から奪わないことも、きっと大事になる。

 悠斗が鼻の頭を指でこすった。


「……なんか、それっぽいな」

「ありがたい一言になったか?」

「一言じゃないけどな。長い。蒼真、班長の話になると長い」

「悪かったな」

「いや、助かった」


 最後の一言だけ、悠斗の声が少し低かった。

 航がわざとらしく咳払いする。


「ちなみに、班長が不安で寝不足の時は、参謀に早めに申告してくれ。朝から変なテンションで槍を振られると危ない」

「だから不安じゃねえって」

「さっき自分で言った」

「忘れろ」

「記録した」

「消せ!」


 悠斗が航の肩を軽く小突く。航は半歩ずれて避けた。

 そのやり取りを見て、蒼真は声を出して笑った。

 関係まで職員会議で決められるほど、学院は偉くない。

 後藤の言葉を思い出し、蒼真は肩の力を抜いた。


 立川駅前の人通りが近づく。

 分かれ道で、悠斗が足を止めた。寮へ向かう二人と、訓練場へ向かう蒼真では、ここから道が違う。


「蒼真」

「ん?」

「明日、Sクラス行ってもさ」


 悠斗はそこで一度言葉を切り、いつものように笑った。

 今度は、ちゃんと目も笑っていた。


「たまには一般クラスの班長様にありがたい助言をしに来いよ」

「班長様って自分で言うな」

「言っとかないと慣れないんだよ」

「じゃあ、慣れるまで言ってろ」


 航が淡々と言う。


「ただし、調子に乗ったら俺が止める」

「お前、参謀じゃなくてブレーキ役じゃねえか」

「必要だろ」

「否定できないのが腹立つ」


 蒼真は二人を見て、頷いた。


「俺も、たぶん相談する。Sクラスで、分からないことがあったら」

「おう。俺たち一般クラスの先輩だからな」

「同学年だろ」

「気分の問題だ」


 悠斗が拳を突き出した。

 蒼真は一拍遅れて、その拳に自分の拳を合わせる。航もため息をつきながら、最後に軽く拳を当てた。

 こん、と小さな音が三つ重なる。

 それだけで、十分だった。


 悠斗と航が寮の方へ歩き出す。悠斗は途中で振り返り、大きく手を振った。


「蒼真! 重い弓、明日見せろよ!」

「始業式に持っていくものじゃないだろ」

「いいじゃん、Sクラスへの挨拶代わりに!」

「絶対違う」


 航の呆れた声が遠ざかっていく。

 蒼真は笑いながら、二人の背中を見送った。

 背中には、いつもの和弓がある。部屋には、まだ扱い切れない重藤弓がある。明日には、Sクラスの教室が待っている。


 班長ではない朝。

 その言葉を心の中で転がしてみても、もうさっきほど妙ではなかった。


 蒼真は訓練場へ向けて歩き出す。

 誰かが作る戦場の中に、自分の射を置く。

 そのための一射目を、今日はいつもの弓で引く。

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