第119話 班長ではない朝
四月の始業式を翌日に控えた朝、蒼真は錦町のマンションでメンテナンスノートを開いていた。
机の右側には、昨日試射した重藤弓が布に包まれて置かれている。布越しでも、そこだけ空気が重く感じられた。弓が重いのではなく、自分の背中と肩がまだそれを覚えている。
起きてすぐ、右肩を回した時に、鈍い張りがあった。筋肉痛というほどではない。けれど、いつもの和弓を百射した翌朝とは違う種類の疲れが残っていた。
たった十射で、だ。
蒼真は苦笑しながら、ノートの新しいページに日付を書く。
四月。二年次開始前日。
その下に、いつもの癖で線を引いた。
『新年度目標』
そこまではすぐに書けた。
問題は、その次だった。
去年の自分なら、迷わず書いていた。第5班の方針。探索時の基本配置。前衛二人の役割。紅葉の索敵範囲。里奈と真帆の魔法の使いどころ。自分がどこから射を置くか。
班の形を、まず紙の上に作る。
それが、班長になってからの蒼真の癖だった。
ペン先が紙の上で止まる。
小さな黒い点だけが、白いページに滲んだ。
「……俺、もう班長じゃないんだよな」
声に出してみると、思った以上に妙だった。
寂しい、だけではない。
不安、だけでもない。
肩の上に乗っていた荷物を降ろしたはずなのに、そこにあった重さを体が探している。そんな感覚だった。
旧第5班は終わっていない。悠斗たちは新しい第5班として続いていく。川崎も加わった。悠斗が班長になる。
頭では全部分かっている。
それでも、ノートの目標欄に「班の方針」と書こうとして手が止まった時、心にぽっかりと空いた隙間までは誤魔化せなかった。
蒼真は一度ペンを置き、台所へ行って水を飲んだ。
冷たい水が喉を通る。昨日の試射で乾いた体に染みるようだった。
戻ってから、もう一度ノートを見る。
班長ではない。
なら、何を書くべきか。
Sクラスで、自分は何になるのか。
祖父の手紙の一文が、頭の中に戻ってくる。
弓に引かれるな。
強い弓を持ったからといって、自分が強くなったわけではない。Sクラスに上がったからといって、自分の場所が勝手に用意されているわけでもない。
場所は、これから探す。
蒼真はペンを取り、ゆっくりと書いた。
『Sクラスで、弓術士として役割を得る』
書き終えた瞬間、息が楽になった。
班を率いるのではない。
誰かが作る戦場の中に、射を置く。
後藤の言葉が、昨日の弦音みたいに内側で反響する。
そのためには、まず重藤弓に振り回されないこと。新しい班の前衛や魔法使いの動きを見ること。凛とほのかがどう動くのか、須藤たちSクラスの基準がどれくらい高いのかを知ること。
書くことは、いくらでもあった。
けれど、今日は一行でいいと思った。
蒼真はノートを閉じ、弓袋へ手を伸ばした。重藤弓を入れようとして、迷う。
始業式は明日だ。今日の自主訓練で使うなら学院に持っていくべきだが、昨日の疲労が残っている状態で無理に引いても射形を崩すだけだ。
結局、今日はいつもの和弓を持っていくことにした。
重藤弓は、布の中で黙っている。
「逃げたわけじゃないからな」
弓に言い訳するように呟いてから、蒼真は自分で苦笑した。
一人は大きく手を振りながら何かを喋っている。もう一人は少し横を歩き、鞄の肩紐を直しながら聞いている。
悠斗と航だった。
蒼真が足を速めるより先に、悠斗が振り返った。
「お、蒼真! なんだよ、今日も訓練か?」
「そっちもだろ」
「まあな。始業式前日だからこそ、槍を振っとかないとな。明日から班長だし」
悠斗は軽く胸を叩いた。
いつもの調子だった。声は大きいし、笑い方も変わらない。けれど、蒼真にはその手の動きがいつもより速く見えた。
航が横から視線だけを向ける。
「こいつ、朝から三回それ言ってる」
「三回じゃねえよ。二回だろ」
「今ので三回目」
「数えんなよ、参謀」
「班長の発言回数を記録するのも仕事かもしれないだろ」
「やめろ。俺の班、初日で議事録がうるさくなる」
くだらないやり取りに、蒼真は笑った。
この空気は変わらない。悠斗が大きな声で言い、航が冷静に刺す。蒼真がその間で笑う。
それだけで、空いた隙間が埋まっていくようだった。
悠斗がふと、前を向いたまま言った。
「なあ、蒼真。班長って何すりゃいいんだろうな」
軽い声だった。
まるで、今日の昼飯を何にするか聞くみたいな調子だ。
だから蒼真も、反射的に答えようとした。
班員の状態を見る。探索前に目的を決める。戦闘中は全員の位置を把握し、撤退判断を遅らせない。誰かが迷った時に、最初の言葉を出す。
いくつも浮かんだ。
浮かんだのに、口から出なかった。
それは全部、蒼真が第5班でやってきたことだ。けれど、それをそのまま悠斗に渡せばいいわけではない。
悠斗には悠斗の班がある。槍使いとして前に出る班長と、弓術士として後ろから全体を見ていた班長では、同じ言葉でも意味が変わってくる。
蒼真が黙ったことで、悠斗が横を見た。
「……いや、そんな真面目に考えなくていいって。なんかこう、班長経験者からありがたい一言を貰おうと思っただけだから」
「一言で言うと、たぶん嘘になる」
蒼真が答える前に、航が言った。
悠斗が「お前に聞いてねえし」と眉を寄せる。
「でも、航の言う通りだと思う」
蒼真はゆっくり頷いた。
「俺がやってたことをそのまま言っても、悠斗の班には合わないかもしれない。川崎も入るし、航も盾を使うんだろ。里奈と真帆の魔法も去年の春とは全然違う。紅葉の索敵も悠斗がどう動くかで使い方が変わる」
「うわ、急に全部言われると胃が重い」
「聞いたのは悠斗だろ」
「そうなんだけどさー……」
悠斗は頭を掻いた。
笑っている。だが、いつもの馬鹿みたいに明るい笑い方とは少し違った。口角だけが先に上がって、目が遅れてついてくる。
蒼真は、その違いに気づいてしまった。
たぶん航も気づいている。けれど航は、すぐには何も言わなかった。
「俺さ」
悠斗がぽつりと言った。
「班長になるって聞いた時はちょっと嬉しかったんだよ。いや、かなり嬉しかった。蒼真のあとを任されるってことだろ。めちゃくちゃ燃えるじゃん」
「悠斗らしいな」
「だろ。でも昨日の夜、槍の手入れしてたら急に思ったんだよな。俺、蒼真みたいに全員見えてたっけ、って」
その言葉は、軽口ではなかった。
蒼真は歩幅を緩める。
悠斗は前を向いたまま続けた。
「俺は前に出るのは得意だよ。突っ込むのも敵を止めるのも、たぶん去年よりできる。でも班長って前に出ればいいだけじゃないんだろ。里奈が魔法を撃つタイミングとか、真帆が回復する余裕とか。紅葉がどこを見ているかとか、航が盾に変えたらどこまで任せていいかとか。そういうのを考え始めたら、寝るのが遅くなった」
「だから朝からやけに元気だったのか」
航が言うと、悠斗が顔をしかめた。
「元気じゃなかったら不安ってバレるだろ」
「今、自分で言った」
「うるせえ」
いつもの調子に戻りかけた声が、揺れた。
蒼真はしばらく言葉を探した。
班長としての正解を言うことはできない。自分だって、最初からできていたわけではない。初めての第2層で、里奈を追いかけた時の恐怖。真帆の怪我。後藤への通信。全部まだ体に残っている。
失敗しなかった班長ではない。
失敗して、それでも六人で帰ってきただけだ。
「悠斗」
「ん?」
「全部見るのは、たぶん無理だ」
「おい、班長経験者の一言、重すぎない?」
「でも、一人で全部見る必要もないと思う」
悠斗が黙った。
航も横で、一瞬視線を下げる。
「俺は紅葉に何度も助けられた。航にも悠斗にも里奈にも真帆にも。俺が見えてないところを、みんなが見てた。だから俺は、最後に決める時だけ迷わないようにしてたんだと思う」
「最後に決める時だけ、か」
「撤退するか進むか。誰に任せるか。今撃つか待つか。そういうところで班長が迷うと全員が止まる。逆に言うと、それ以外は全部自分で持たなくていいんじゃないかな」
言いながら、蒼真は自分にも言い聞かせていることに気づいた。
新しい班で、自分は班長ではない。
なら、誰かが決める場面で横から奪わないことも、きっと大事になる。
悠斗が鼻の頭を指でこすった。
「……なんか、それっぽいな」
「ありがたい一言になったか?」
「一言じゃないけどな。長い。蒼真、班長の話になると長い」
「悪かったな」
「いや、助かった」
最後の一言だけ、悠斗の声が少し低かった。
航がわざとらしく咳払いする。
「ちなみに、班長が不安で寝不足の時は、参謀に早めに申告してくれ。朝から変なテンションで槍を振られると危ない」
「だから不安じゃねえって」
「さっき自分で言った」
「忘れろ」
「記録した」
「消せ!」
悠斗が航の肩を軽く小突く。航は半歩ずれて避けた。
そのやり取りを見て、蒼真は声を出して笑った。
関係まで職員会議で決められるほど、学院は偉くない。
後藤の言葉を思い出し、蒼真は肩の力を抜いた。
立川駅前の人通りが近づく。
分かれ道で、悠斗が足を止めた。寮へ向かう二人と、訓練場へ向かう蒼真では、ここから道が違う。
「蒼真」
「ん?」
「明日、Sクラス行ってもさ」
悠斗はそこで一度言葉を切り、いつものように笑った。
今度は、ちゃんと目も笑っていた。
「たまには一般クラスの班長様にありがたい助言をしに来いよ」
「班長様って自分で言うな」
「言っとかないと慣れないんだよ」
「じゃあ、慣れるまで言ってろ」
航が淡々と言う。
「ただし、調子に乗ったら俺が止める」
「お前、参謀じゃなくてブレーキ役じゃねえか」
「必要だろ」
「否定できないのが腹立つ」
蒼真は二人を見て、頷いた。
「俺も、たぶん相談する。Sクラスで、分からないことがあったら」
「おう。俺たち一般クラスの先輩だからな」
「同学年だろ」
「気分の問題だ」
悠斗が拳を突き出した。
蒼真は一拍遅れて、その拳に自分の拳を合わせる。航もため息をつきながら、最後に軽く拳を当てた。
こん、と小さな音が三つ重なる。
それだけで、十分だった。
悠斗と航が寮の方へ歩き出す。悠斗は途中で振り返り、大きく手を振った。
「蒼真! 重い弓、明日見せろよ!」
「始業式に持っていくものじゃないだろ」
「いいじゃん、Sクラスへの挨拶代わりに!」
「絶対違う」
航の呆れた声が遠ざかっていく。
蒼真は笑いながら、二人の背中を見送った。
背中には、いつもの和弓がある。部屋には、まだ扱い切れない重藤弓がある。明日には、Sクラスの教室が待っている。
班長ではない朝。
その言葉を心の中で転がしてみても、もうさっきほど妙ではなかった。
蒼真は訓練場へ向けて歩き出す。
誰かが作る戦場の中に、自分の射を置く。
そのための一射目を、今日はいつもの弓で引く。




