第118話 重藤弓
三月下旬の夜、錦町のマンションに帰ると、玄関前に不在票が挟まっていた。
差出人の欄には、神代玄蔵の名前がある。
蒼真は靴を脱ぐ前に弓袋を肩から下ろし、紙片を見つめた。心拍が速い。祖父から荷物が届く予定など聞いていなかった。電話もない。メッセージもない。
それが、逆に祖父らしかった。
再配達の手続きを済ませると、荷物はその日の最終便で届いた。縦長の箱を抱えた配達員が、困ったように笑う。
「すみません、これ、かなり長いんですけど、玄関先で大丈夫ですか」
「大丈夫です。ありがとうございます」
受け取った瞬間、蒼真の腕にずしりと重みが乗った。
弓だ。
それも、今まで使ってきた和弓とは違う。
箱を部屋の中央に寝かせ、カッターの刃を浅く入れる。段ボールを開くと、古い布に包まれた一張りの弓と小さな封筒が入っていた。封筒の表には、祖父の筆で「蒼真へ」とだけ書かれている。
蒼真は先に弓へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
先に手紙だ。
そう思ったのは、たぶん祖父ならそうしろと言うからだ。
封筒の中には、便箋が一枚だけ入っていた。
『今のお前なら引ける。だが、弓に引かれるな。玄蔵』
それだけだった。
蒼真はしばらく便箋を見つめ、それから、ふっと息を漏らした。
「短いな、爺ちゃん」
けれど、その短さの中に、余計なものは一つもなかった。
今のお前なら引ける。
その一文だけで、体の芯に力が入る。Sクラスに上がることを報告した時、祖父は「そうか。引け」とだけ返した。その続きが、今ここに届いている。
布を解くと、藤蔓を巻いた弓が姿を見せた。
黒く沈んだ弓身に、巻かれた藤が古びた色で浮かんでいる。装飾ではない。補強だ。神代家道場の奥に眠っていた、誰も引けなくなった弓。祖父が以前、一度だけ話したことがある。
重藤弓。
手に取っただけで、今までの和弓より芯が太いと分かる。見た目の重さではなく、弓そのものがこちらを試しているような重さだった。
蒼真は畳の上に正座し、弓を膝の前に置いた。
携帯が震える。
父からのメッセージだった。
『届いたか。じいさんが昨日から妙にそわそわしていた。無理はするな。だが、逃げるな』
続けて、母からも届く。
『弓、届いた? ご飯はちゃんと食べてる? 重い弓なら、なおさら食べないと駄目だからね。Sクラスも大事だけど、体を壊したら意味ないから』
蒼真は思わず笑った。
父は父で、祖父に似た短さの中に心配を隠している。
母は母で、弓より先に食事の話をする。
その両方が、自分の家族だった。
『届いたよ。ご飯もちゃんと食べてます。明日、学院で引いてみる』
送信してから、蒼真はもう一度、重藤弓を見た。
今すぐ引きたい。
その衝動が、指先まで走る。
けれど、部屋で矢を番えるわけにはいかない。素引きだけでも危ない。弓の張りを確かめるには、整った場所と、逃がせる空間が要る。
蒼真は弽を取り出し、右手に嵌めた。革は一年間でさらに手に馴染んでいる。親指の弦枕に当たる部分だけが黒く沈み、自分の形になっていた。
弓に触れる。
握りを整える。
矢は番えない。弦に指をかけ、試しに引く。
その瞬間、背中の筋肉がぎしりと鳴った。
「……重っ」
思わず声が出た。
今までの和弓なら、弦を引き始めた時点で体の中に馴染む感覚があった。腕、肩、背中、腰。全部が順番に噛み合い、矢を飛ばす姿勢へ向かっていく。
だが、この弓は違う。
最初の一寸から、こちらの姿勢を崩そうとしてくる。少しでも腕で引けば、肩が前に出る。腰が抜ければ、弓が体を持っていく。力任せでは、引ける前に射形が壊れる。
蒼真はすぐに弦を戻した。
悔しさより先に、笑いが出る。
「爺ちゃん、これを『引ける』って言うのかよ」
引くことは、たぶんできる。
けれど、撃てるとは別だ。
蒼真は弓を布の上に戻し、メンテナンスノートを開いた。新しいページの上に、ペン先を置く。
『重藤弓。張力、想定以上。素引き初動で肩が前に出かける。腕で引くと負ける。背中、腰、足まで使う。今の和弓と同じ感覚で扱うと射形が崩れる』
そこまで書いて、蒼真はペンを止めた。
強い武器を手に入れた。なのに、すぐには使えない。
内側に残るのは、喜びと悔しさが混ざった、妙に落ち着かない感情だった。
翌日の午後、蒼真は春休み中の学院訓練場にいた。
自主利用の申請を出すと、受付の教官が重藤弓を見て目を丸くした。だが、蒼真の名前を確認すると「破損させるなよ。的も床も」とだけ言って、弓術用レーンを使わせてくれた。
弓術用レーンは春休みで空いている。いや、学院には蒼真しか弓術士がいないため、常時開放状態である。そこにはいつもの的が、二十メートル先に静かに立っていた。
蒼真は深く息を吸い、矢筒から一本を抜く。
今日は試射だ。魔力は込めない。
まずは純粋に、弓を引く。
弦に矢を番えた瞬間、昨日の素引きよりも重さが増した気がした。矢があるだけで、意識が的へ向かう。的へ向かう意識が、逆に弓の重さを引き出す。
左手の押し手を整え、右手の弽で弦を受ける。
足を開く。
腰を落とす。
背中で引く。
途中までは行けた。
けれど、会に入る直前で照準が揺れる。
今までなら吸収できた揺れだった。だが、重藤弓はそれを許さない。弓が早く離れろと暴れる。いや、暴れているように感じるのは、自分が制御できていないからだ。
蒼真は歯を食いしばり、狙いを的の中心に戻す。
「……行け」
離れ。
弦音が、訓練場の空気を鋭く裂いた。
矢は中心から右へ十センチ外れ、的に突き刺さった。
外した。
外したのに、蒼真は一瞬、息を忘れた。
矢羽根が震えている。的の板の奥まで、矢が深く食い込んでいた。いつもの和弓なら、ここまで沈まない。
魔力を込めていない。
ただの一射で、これだ。
背中に、ぞわりとした感覚が走る。
「すごいな、お前」
弓に向かって、そんな言葉が漏れた。
次の矢を抜く。
二射目は引き起こしが遅れた。会が浅くなり、矢は的の左下へ落ちる。
三射目は中心に近い。だが、離れが硬い。
四射目で、右肩が重くなる。
五射目を番えた時、蒼真は一度、矢を下ろした。
息が上がっている。
たった四射でだ。
今までの和弓なら、百射を前提に組んでいた。対人戦では連射と位置取りで相手の判断を縛ってきた。だが、この弓では同じことができない。
射るまでに時間がかかる。
構えに入るまでの一拍が重い。
外せば、その分だけ取り返しが難しくなる。
それでも、蒼真は元の和弓へ戻そうとは思わなかった。
威力が違う。
急所に当てなければ意味が薄いという、弓術士の課題は変わらない。むしろ、重い弓で外せば隙は大きくなる。けれど、急所に当てた時の意味が違う。
この弓なら、届く場所がある。
そう思わせるだけの力が、確かにあった。
「暴れ馬、だな」
呟くと、笑えた。
祖父の言葉が頭の中で響く。
弓に引かれるな。
今の自分は、完全に引かれている。重さに意識を奪われ、威力に目を奪われている。Sクラスに上がる前に、祖父はそれを見越していたのかもしれない。
蒼真は矢を抜きに行き、的に刺さった一本を両手で引いた。
なかなか抜けない。
「……これ、回収も大変なのか」
一人で言って、自分で笑う。
ようやく抜けた矢の鏃を確認する。傷みはある。これをダンジョンで魔物に刺したまま倒せば、当然、粒子化に巻き込まれる。重藤弓の威力が上がるほど、一本の矢の意味も重くなる。
蒼真はレーンへ戻り、メンテナンスノートを開いた。
『一、初動が重い。構えまでの時間増加。
二、照準維持が難しい。会が浅くなると左右へ散る。
三、四射で右肩と背中に疲労。速射性、大幅低下。
四、威力は比較にならない。魔力なしでも的への食い込みが深い。
五、急所射撃前提は変わらない。外した時の損失はむしろ増える』
五行を書き終えたところで、蒼真はペンを止める。
最後に、もう一行を足した。
『目標――弓に引かれず、弓を引く』
言葉にすると、単純だった。
単純だから、逃げられない。
蒼真はノートを閉じ、重藤弓を見た。藤を巻かれた弓身は、何も言わずにそこにある。褒めもしない。慰めもしない。ただ、引けるなら引けと黙っている。
祖父によく似ていると思った。
蒼真は弽の親指を軽く握り、もう一度、矢筒に手を伸ばす。
五射目。
今度は、急がない。
強い弓を得たから強くなったわけではない。強い弓に、自分が追いつかなければならない。
それでも、蒼真の口元には笑みが浮かんでいた。
Sクラス。新しい班。班長ではない自分。川崎を加えた新しい第5班。全部が、まだ慣れないものとして目の前に並んでいる。
その中で、この重藤弓だけは分かりやすかった。
引け。
ただ、それだけだ。
蒼真は弦に指をかけ、背中で弓を開いていく。
今度の矢は、的の中心から五センチ右に刺さった。
まだ、遠い。
けれど、さっきより近い。
蒼真は的を見据えたまま、小さく息を吐いた。
「待ってろよ」
それが誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
Sクラスか。新しい班か。祖父か。あるいは、この暴れ馬みたいな弓そのものか。
ただ一つだけ、はっきりしている。
頂は、まだ遠い。
だからこそ、矢を引く理由がある。




