第117話 川崎麻衣
三月下旬の学院は、普段より広く感じた。
終業式も終わった校舎には、自主訓練に来た生徒の声がまばらに響いている。川崎麻衣は面談室の前で、両手を制服のスカートの上に重ねた。
指先が冷たい。寒いからではない。面談室の扉を前にすると、手のひらだけが落ち着かなかった。
扉の向こうには、榊原美樹がいる。
今日は、来年度に自分が所属する班と正式に顔を合わせる日だった。
Sクラスから一般クラスへ移る。その言葉はもう何度も頭の中で噛み砕いた。劣等生として落とすのではない。自分の《土壁》も《泥沼》も能力そのものが低いわけではない。ただ前の班では噛み合わなかった。
理解はしている。けれど、理解と感情は同じ速度では進まない。
廊下の先から、明るい声が聞こえた。
「ここで合ってるよな? 面談室って、ここだよな?」
「合っている。扉に書いてあるだろ」
「いや、合ってるかどうかを声に出して確認すると安心するだろ」
「お前だけだ」
男子二人の声に続いて、女子の軽い笑い声が近づいてくる。
麻衣は背筋を伸ばした。
廊下の角を曲がってきたのは、五人だった。
先頭にいる背の高い男子が麻衣の姿を見つけ、一瞬だけ足を止める。それから、ぱっと表情を明るくした。
「川崎さん、だよな。俺、橘悠斗。来年度から、たぶん班長やることになった。よろしく!」
勢いのある自己紹介だった。
声も大きい。手を差し出す速度も速い。けれど、その手は途中でぴたりと止まった。いきなり握手を求めるのは強すぎると思ったのか、悠斗は自分の手を見て慌てた顔をする。
「あ、いや、握手は別に今じゃなくてもいいな。ごめん、先走った」
「悠斗、初手から圧が強い」
「圧って言うな。歓迎の気持ちだよ」
「歓迎を全身で突撃させるな」
隣の男子――宮瀬航が淡々と釘を刺す。
そのやりとりが自然すぎて、麻衣は瞬きをした。
怒られているのに、悠斗は本気で落ち込んでいない。航も突き放しているわけではない。二人の間にある距離が近い。
その後ろから、赤みのある髪を揺らした女子が顔を出した。
「鬼塚紅葉。斥候だよ。悠斗がうるさかったら遠慮なく言ってね。たぶん静かにはならないけど、私たちが慣れてるから」
「慣れてるって何だよ」
「一年分の実績」
「重い」
紅葉が笑うと、残る二人の女子も表情を緩めた。
中村里奈と、小林真帆。
麻衣は二人の名前を知っていた。対人戦の決勝で何度も聞いた名前だ。
里奈が一歩前に出る。
「中村里奈です。氷魔法使い、です。よろしくお願いします」
「小林真帆です。白魔法使いです。よろしくお願いします、川崎さん」
二人の声は柔らかかった。
麻衣の中で固くなっていたものが、ゆるやかにほどける。
「川崎麻衣です。地魔法使いです。こちらこそ、よろしくお願いします」
悠斗が何か言いかけ、航に横から肘で止められる。紅葉が「今のは止めて正解」と小声で言い、悠斗が「分かってるよ」とさらに小声で返した。
麻衣は思わず口元を押さえた。
「……賑やかな班なんですね」
「え、今の褒められた?」
「たぶん違う」
「いや、賑やかは長所だろ」
「短所にもなる」
航の即答に、悠斗が肩を落とす。
その空気に、面談室の扉が内側から開いた。
榊原が穏やかな顔で立っている。
「全員揃ったわね。入りましょうか」
面談室には、六人分の椅子が半円に近い形で置かれていた。
榊原の目に同情の色はなかった。ただ、次に進む生徒を確認する教官の目だった。
「来年度、川崎さんは二年一組所属、第五班へ配属となります。橘君たち五人は、神代君がSクラスへ昇格した後、この六人で新しい第五班として活動します」
神代君。
その名前が出た瞬間、麻衣は無意識に指先を握った。
自分が抜けた場所へ行く生徒。自分が入る班から抜ける生徒。
彼のことを、麻衣は一度だけ近くで見ている。職員室近くの廊下で、榊原に呼ばれた帰りだった。すれ違いざま、彼は短く会釈をした。
それなのに、妙に覚えている。勝った人の顔ではなかったからだ。
「まず、確認しておきます」
榊原の声で、麻衣は意識を戻した。
「川崎さんは、Sクラスの水準に届かないから配属されるわけではありません。地魔法の発動速度や制御、座学はどれも評価対象として十分です。ただ、前の班では得意な『止める』『区切る』『足場を変える』役割が戦術の中心に置かれにくかった」
「はい」
「第五班は、神代君が抜けたことで火力と射程の形が変わります。その代わり、あなたの《土壁》と《泥沼》はここでは前よりずっと必要になる可能性が高い」
榊原の言葉に、麻衣は黙って頷いた。
必要になる。その言葉は怖くて、嬉しくもあった。
里奈が控えめに手を上げる。
「あの、質問してもいいですか」
「どうぞ」
「川崎さんの《土壁》って、幅と厚みはどれくらい調整できますか?」
麻衣は驚いて里奈を見た。
遠慮や気遣いではなく、戦術の質問だった。自分の魔法と合わせるために必要な情報を聞いている顔だった。
「幅は最大で三メートルくらいまでなら。厚くすると幅は狭くなります。高さは今の制御だと二メートル少しが安定します」
「私の《氷壁》より、幅を取りやすいですね」
「でも、展開速度はたぶん氷より遅いです。地面に定着させる分、出す場所を間違えると邪魔になります」
「邪魔に、できますよね」
「え?」
「敵にとって、です」
里奈の言葉に、麻衣は息を止めた。
紅葉が目を輝かせる。
「それ、面白い。氷で退路を狭めて、土で横を塞ぐ。そこに泥で足を取ったら、かなり嫌な通路作れるんじゃない?」
「宮瀬くんが盾で前を止めて、橘くんが横から突く。真帆ちゃんは《光盾》と《光矢》で補助。……あ、すみません。勝手に」
「いや、続けてください」
麻衣の声は、さっきより強く出た。
里奈は一瞬だけ目を丸くし、それから小さく頷く。
「川崎さんの《泥沼》は足場を悪くする魔法ですよね。私の《氷床》も、滑らせる使い方ができます。泥で沈ませて氷で滑らせれば、敵の踏み直しがかなり遅れると思います」
「ただ、味方も巻き込みます」
「はい。だから、使う場所を決めたいです。紅葉ちゃんの索敵と合わせて、橘くんと宮瀬くんが踏まない線を先に作れれば」
「俺、踏まない自信あんまりないんだけど」
「そこは持て、班長」
「真帆さんや、俺が踏んだらよろしく」
「踏まない前提でお願いします」
麻衣は、自分の中に沈んでいた言葉を探した。ここで黙ったままだと、また同じことになる。
「私、前の班では、あまり言えませんでした」
五人の視線が麻衣に向く。怖い。けれど、逃げたいほどではなかった。
「真田くんが前を作ってくれて、火力のある人たちがすぐ倒してくれて。私の壁や泥を使う前に、戦闘が終わることも多かったです。だから、必要ないなら邪魔しない方がいいと思っていました」
言葉にしてみると、胸が痛んだ。
でも、榊原は何も挟まない。悠斗も、今度は口を開かなかった。
「でも、それだと自分が何をできるのか、班にも伝わらないままでした。だから、今度は必要だと思ったら言います。……言うようにします」
「言ってくれ」
悠斗が、今度は静かに返した。
「俺、まだ班長って感じじゃないけど、聞くことはできる。たぶん、声だけはでかいから、言ってくれたら拾う」
「そこは自信あるんだ」
「ある。声量で負けたら俺の良さが半分消える」
「半分で済むんだ」
紅葉の突っ込みで、また笑いが起きる。
麻衣も、今度ははっきり笑えた。
榊原が満足そうに一つ頷く。
「良い滑り出しね。正式な訓練は新年度からだけれど、春休み中に顔を合わせておく意味はあったと思います。今日はここまで。細かい運用は、後藤先生の指示が出てから進めなさい」
「はい!」
悠斗の返事だけが、やはり大きかった。
面談室を出ると、廊下の空気が冷たく感じた。麻衣は一度息を吸う。
廊下の向こうから、弓袋を肩にかけた男子が歩いてくる。神代蒼真だった。
◇◆◇
蒼真は、面談室の前に集まった六人を見た。
旧第5班の五人。
そこに、知らない女子が一人いる。
茶色のショートカット。大人しそうに見えるが、目だけはまっすぐこちらを見ていた。
職員室近くの廊下で、一度すれ違った生徒だ。
「神代さん、ですよね」
彼女が先に言った。
「川崎麻衣です。来年度から、第五班に入ることになりました」
「神代蒼真です。二年次から、Sクラスに上がることになりました」
言ってから、少し変な自己紹介だと思った。互いに、入れ替わる場所を名乗っている。
「あの時、廊下で会釈してくれましたよね」
「覚えてたんですか」
「はい。……私、あの時、あまり顔を上げられなかったので。ちゃんと返せていなかったら、すみません」
「いや、俺もただ会釈しただけだから」
蒼真は首を振った。
悠斗が横から口を挟もうとして、航に袖を掴まれて止められている。
川崎は息を吸う。
「神代さんがいた班に、私が入ります。神代さんが行く場所から、私は出ます。正直、複雑です」
まっすぐな言葉だった。蒼真は、返事を急がなかった。自分だって、Sクラスに行ける喜びと、五人から離れる寂しさが同じ場所にある。
「俺も、複雑です。嬉しいけど、寂しい。だから、川崎さんがそう言ってくれて安心しました」
「安心、ですか」
「俺だけじゃないんだなって」
川崎は目を瞬かせ、それからほんの少しだけ笑った。
「……変わった人ですね」
「よく言われる」
「本当に言われてそう」
紅葉の小声に、悠斗が吹き出した。
川崎も釣られるように笑う。その笑い方は控えめだったが、無理はなかった。
里奈が、川崎の隣に並ぶ。
「神代さん。川崎さんの《土壁》と《泥沼》、すごく面白いです」
「面白い?」
「はい。私の《氷壁》と《氷床》と合わせられます。たぶん、前より安全に戦えます」
その言葉に、蒼真は肩の奥から息が抜けるのを感じた。
自分が抜ける穴が、そのまま穴として残るわけではない。それは寂しい。けれど、嬉しくもあった。
「そっか。なら、俺もSクラスで負けてられないな」
「負けるなよ、蒼真」
「悠斗もな」
「おう。こっちはこっちで、第5班やるから」
悠斗の声は、前より班長らしく聞こえた。
蒼真は川崎に向き直り、軽く頭を下げた。
「五人を、よろしくお願いします」
「はい。でも、私も入るので」
川崎は言葉を探し、続けた。
「六人の第五班として、やれることをやります」
その返答に、蒼真は自然と笑った。
「うん。よろしく、川崎さん」
廊下の窓から、春の光が差し込んでいた。
旧第5班は、もう同じ形ではない。けれど、終わったわけでもない。
自分の知らない配置図が、五人と一人の間で新しく描かれ始めている。蒼真は弓袋の紐を握り直した。
自分もまた、新しい場所で射を置かなければならない。
春は、もうすぐそこまで来ていた。




