第116話 五人への報告
三月中旬の夕方、めしや鷹丸の暖簾はまだ出たばかりだった。
春休み中のサンサンロードは静かだった。昼間の柔らかい光は傾き、ガラス張りの店の窓に、学院帰りらしい数人の制服姿が薄く映っていた。
神代蒼真は店の前で一度だけ足を止め、鞄の奥に入れた白い封筒の位置を指先で確かめた。
軽いはずの封筒は、朝よりもずっと重く感じる。
班チャットには、昼過ぎに短く送っていた。
『今日の夕方、鷹丸に集まれるか。大事な話がある』
橘悠斗からは三秒で『なにそれ怖い』と返ってきた。宮瀬航が『集合でいい。十七時半』とまとめた。鬼塚紅葉が『大事な話って言われると気になるんだけど』と続け、中村里奈と小林真帆も予定を合わせてくれた。
その流れは、いつも通りだった。
だからこそ、蒼真は怖かった。
暖簾をくぐると、出汁と揚げ油の匂いがした。奥のテーブル席では、すでに五人が揃っている。悠斗が一番手前に座り、箸袋を無意味に折ったり伸ばしたりしている。
「遅いぞ、蒼真! いや、時間ぴったりだけど気分的には遅い!」
「無茶言うな」
「大事な話って言われた側の心拍数を考えろよ。俺、から揚げ定食か生姜焼き定食か三回間違えたんだぞ」
「それは大事な話のせいじゃなくて、お前が腹減ってるだけだろ」
航が呆れたように言い、紅葉が口元を押さえて笑う。
「悠斗、さっき店員さんに『から揚げ焼き定食』って言ってたもんね」
「混ざったんだよ。から揚げと生姜焼きが、俺の中で戦った」
「負けた方、どっちですか?」
真帆が穏やかに続ける。
「両方頼めば、平和的解決だと思います」
「真帆さん、たまに発想が強いよな」
蒼真はそのやりとりを聞きながら席に着く。いつもの席。いつもの六人。少し狭いテーブルの上に、湯呑みが六つ並んでいる。
この景色が、四月からは当たり前ではなくなる。
「それで、大事な話って何だ」
航が水を一口飲み、まっすぐ蒼真を見る。
冗談を挟まない声だった。悠斗も箸袋を置き、紅葉も背筋を少し伸ばす。里奈と真帆は、黙って蒼真の言葉を待っていた。
蒼真は鞄から白い封筒を取り出した。
学院印を見た瞬間、五人の空気が変わる。
「今日、職員室に呼ばれた」
そこまで言うと、自分の声が思ったより硬いことに気づいた。
一度息を吸い直す。
「二年次から、Sクラスに上がることになった」
一拍、沈黙が落ちた。
次の瞬間、悠斗が椅子から半分立ち上がった。
「っしゃあああ! やっぱりじゃん! そりゃそうだろ! 優勝班の班長で弓術士で、あれだけやったんだから当然だろ!」
「悠斗。店内」
「分かってる! 分かってるけど声出るだろ、これは!」
店の奥から店主が笑う声がした。
悠斗は慌てて頭を下げ、それでも顔は笑ったままだった。紅葉も表情を明るくする。
「おめでとう、蒼真! すごいじゃん、本当に!」
「おめでとう、ございます」
「神代さん、おめでとうございます。……よかったです。本当に」
里奈の声は細いが、言葉の最後はしっかりしていた。真帆は目元を緩め、湯呑みを両手で包んでいる。
航は、いつものように大きく表情を変えなかった。ただ、口角だけがわずかに上がる。
「お前が行くのは当然だ。職員会議がまともに機能していて安心した」
「先生たちに聞かれたら怒られるぞ、それ」
「後藤先生なら笑う。橋本先生なら眉間にしわが寄る」
「想像できるのが嫌だな」
蒼真がそう返すと、笑いが少し広がった。
祝ってくれている。それが胸に沁みるほど嬉しかった。
けれど、同じ場所に、別の重さもある。悠斗の笑顔が少しずつ固まっていく。紅葉も封筒と蒼真の顔を交互に見ていた。
「……で」
悠斗が椅子に座り直した。
さっきまでの大声が、一段小さくなる。
「上がるのって、蒼真だけ、なんだよな」
「うん」
「そっか」
それだけ言って、悠斗は黙った。
いつもなら、すぐに何かを足す。大げさに騒ぐ。冗談にする。けれど、今は湯呑みの縁を指でなぞっているだけだった。
蒼真は視線を落とさず、五人を見る。
「みんなには、ちゃんと顔を見て言いたかった。メッセージで済ませる話じゃないと思ったから」
「それは、うん。そこは蒼真っぽい」
紅葉が唇を尖らせた。
「でもさ、寂しいって言うくらいは許されるよね」
「……うん」
「だって急じゃん。いや、急じゃないのかもしれないけど。対人戦に勝って、もしかしたらって思ってたけど。でも実際に言われると急じゃん」
「紅葉」
「分かってる。おめでたいのも分かってる。だから、ちゃんとおめでとうって言った。でも寂しいのも本当だから。そこまで我慢したら私、変な顔になる」
紅葉はそう言って、わざと頬を膨らませた。
いつも通りすぎて、少し笑いそうになり、同時に胸が痛くなった。
「ありがとう。寂しいって言ってくれて、たぶん、助かった」
「助かった?」
「俺も、寂しいから」
言葉にした瞬間、空気がふっと緩んだ。
悠斗が大きく息を吐く。
「だよな。お前、朝から一人でかっこつけて受け止めてそうだったから、ちょっと腹立つとこだった」
「かっこつけてない」
「いいや。蒼真はそういうとこある。『矢は続く』とか一人で考えて、納得した顔するタイプだ」
「それ、なんで分かるんだよ」
「一年一緒にいたからだよ」
悠斗の言葉は、乱暴なくらいまっすぐだった。
蒼真は返す言葉を探して、見つけられずに湯呑みへ手を伸ばす。
航が静かに口を開いた。
「班が変わるのは事実だ。来年度、同じ指示系統では動かない。探索階層も違う。訓練内容も違う。そこは、変にぼかさない方がいい」
「航、現実を置きに来るな」
「必要だろ」
悠斗が顔をしかめるが、航は蒼真から目を逸らさない。
「でも解散じゃない。少なくとも俺はそうは思ってない。お前がSクラスで得たものはこっちにも流れてくる。こっちが一般クラスで積んだものも、お前に見せられる」
「……うん」
「だから勝手に遠くへ行った顔をするな。行くなら行け。ただ、たまには戻ってこい。飯くらいは食える」
最後の一文だけ、少し不器用だった。
航らしい、精一杯の送り出しだと思った。
「戻る。というか、普通に呼ぶ」
「ならいい」
「でも航、今の言い方、ちょっと寂しそうだったよね」
「紅葉」
「分析じゃなくて感想です」
「余計悪い」
紅葉が笑うと、里奈も小さく笑った。
里奈が、膝の上で両手を握り直す。
「私、最初は神代さんに助けられてばかりでした」
「里奈」
「第1層でも第2層でも、その後も。逃げた私を神代さんが追いかけてくれて、皆さんが待ってくれました。だから神代さんがSクラスに行くのは寂しいです。でも……置いていかれるだけには、したくないです」
里奈は一度言葉を切った。
前よりも、ずっとはっきり顔を上げている。
「私も、もっと戦えるようになります。新しい班でも、氷で、ちゃんと場所を作れるようにします」
「里奈ならできる」
「はい。できるように、します」
細い声なのに、逃げる響きはなかった。
真帆が頷く。
「私も、治すだけで終わらない白魔法使いになります。皆さんが前に出られるように支えます。……あと、悠斗さんが無茶した時に怒れるようになります」
「俺、名指し?」
「一番必要そうなので」
「真帆さん、今日強くない?」
「春休みなので」
「理由になってない」
悠斗が真剣に困った顔をしたので、今度こそ全員が笑った。
笑いながら、蒼真は胸にあった重さがほどけていくのを感じていた。
寂しさは消えない。消えるはずがない。
でも、それは足を止める重さではない。
「悠斗」
「ん?」
「来年度の第5班、班長は悠斗になるんだよな」
「……まあ、たぶん。後藤先生から、正式にはまだだけど、そういう話はされた」
悠斗は頭をかき、視線を泳がせた。
「正直、俺が班長って、まだ変な感じする。蒼真みたいに配置図とか、全部頭に入れて動かすタイプじゃないし」
「全部じゃないぞ」
「嘘つけ。お前、たまに俺の足の角度まで見てるだろ」
「それは見る」
「ほら!」
悠斗が指を差すと、航が呆れたように肩をすくめる。
「悠斗は蒼真と同じ班長になる必要はない。お前は声を出して前に立てる。それはお前の強みだ」
「航に真面目に褒められると、なんか落ち着かない」
「今のを茶化すな。二度と言わないぞ」
「ごめん、保存したい」
「するな」
悠斗は笑ってから、蒼真を見た。
その顔には、まだ寂しさが残っている。けれど、さっきよりも前を向いていた。
「お前がSクラスでやるなら、こっちはこっちでやる。川崎って子が来るんだろ? Sクラスから来るなら、向こうも色々あるだろうし。だったら俺たちがちゃんと迎えないとな」
「悠斗ならできる」
「簡単に言うなよ」
「簡単じゃない。でも、できると思うから言ってる」
蒼真がそう返すと、悠斗は一度目を瞬き、それから照れくさそうに笑った。
「じゃあ、やる。俺、来年の第5班をちゃんとやる。蒼真がいないから弱くなったって言われたら腹立つしな」
「それは私も嫌」
「私もです」
「私も嫌ですね。かなり」
「俺もだ」
五人の声が重なる。
蒼真はその声を聞いて、ようやく息を吐けた。
店員が注文を取りに来る。悠斗は結局、から揚げ定食と生姜焼き単品を頼んだ。航に「平和的解決か」と突っ込まれ、真帆が「採用されました」と小さく笑う。
料理が並ぶ頃には、テーブルの空気はいつもの第5班に近づいていた。
紅葉がレモンをかけるかどうかで悠斗と軽く揉める。里奈が取り皿を回し、航は黙って蒼真の前にも一つ置く。
いつも通りで、少しだけ違う。その違いを六人全員が分かっている。
「蒼真」
食事の途中、悠斗が箸を止めた。
「Sクラスでちゃんとやれよ」
「やる」
「天城と同じ班になる可能性あるんだろ」
「そこで急にそれを出すな」
「大事だろ。お前、変に固まるなよ」
「固まらない」
「水泳授業の時、顔拭きすぎ事件あったよな」
「航」
「事実だ」
「え、何それ。詳しく」
「詳しくしなくていい」
皆がわざといつもの調子に戻してくれているのが分かった。
蒼真は観念して笑う。
「ちゃんとやる。Sクラスで、弓術士としてやる。班長じゃなくても、俺の射を置けるようにする」
「なら、よし」
悠斗が湯呑みを持ち上げた。
「じゃあ、第5班と元第5班と、これからの第5班に」
「長い」
「うるさい。いい感じにまとめようとしてるんだよ」
航の突っ込みを無視して、悠斗は湯呑みを少し前に出す。
紅葉たちも続いた。
蒼真も、最後に湯呑みを持ち上げる。
六つの湯呑みが、軽く触れ合った。
「また、飯食おうな」
悠斗の声は、さっきよりずっと自然だった。
「ああ。また、ここで」
蒼真はそう答えた。
班は変わる。クラスも変わる。春が来れば、六人で同じダンジョンには潜らない。
それでも、このテーブルまでの道は消えない。
から揚げの湯気と春休みの夕方の冷たい空気の中で、蒼真はそのことを五人の声と一緒に胸へしまい込んだ。




