第115話 春休みの通知
三月中旬の朝、錦町のマンションの窓から差し込む光は、冬のそれより柔らかかった。
神代蒼真はカーテンを半分だけ開けたまま、テーブルの上に置いたスマートフォンを見下ろしていた。画面には、学院から届いた短い通知が表示されている。
『本日十時、職員室まで来るように。後藤』
それだけだった。
用件は書かれていない。けれど、三月第一週に後藤から「職員会議がある」と聞かされてから、蒼真は何度もこの可能性を考えていた。対人戦の結果。年度末評価。Sクラス昇格の話。
考えないようにしても、弓を引いている時以外は、頭の端に引っかかって離れなかった。
「……飯、食うか」
声に出してみても、落ち着きは戻らない。
冷蔵庫から卵を二つ取り出し、いつも通りに卵焼きを作る。味噌汁を温め、ご飯をよそい、納豆を混ぜる。手順は何も変わらないのに、箸を持つ右手だけが速い。
食べ終えてから弽を手に取ったところで、蒼真は自分で苦笑した。
「今日は、弓いらないだろ」
職員室に呼ばれているだけだ。戦いに行くわけではない。そう分かっているのに、弽を鞄に入れようとした自分が少しおかしかった。
代わりにメンテナンスノートだけを鞄へ入れる。何かを聞いたら、たぶん書き留めたくなる。そう思ったからだ。
マンションを出ると、錦町の住宅街に春休みらしい静けさが落ちていた。制服姿の学院生は少ない。普段なら同じ時間帯に何人も見かけるのに、今日は駅へ向かう会社員と、犬を散歩させる年配の女性くらいしかいない。
立川駅の南口を抜け、多摩モノレール沿いに学院へ向かう。サンサンロードの店はまだ開き切っておらず、グリーンスプリングスの水音だけが妙にはっきり聞こえた。
学院の正門が見えた時、蒼真は自然と背筋を伸ばしていた。
四月一日、初めてこの門をくぐった時のことを思い出す。地方から来たばかりで、制服も街も学院も大きく見えた。弓術士という適性を抱えて、窓際最後列の席に座った。橘悠斗と宮瀬航に出会い、第5班ができた。
その一年が、今日の呼び出しに繋がっている。
そう思うと、誇らしさと寂しさが、同時に込み上げてきた。
春休み中の職員室は、普段よりも紙の匂いが強かった。
机の上には年度末の書類が積まれ、あちこちで教官たちがファイルを閉じたり、端末を叩いたりしている。奥の席で後藤喜一郎が紙コップのコーヒーを片手に、分厚いバインダーをめくっていた。
「来たか、神代」
「はい」
「時間ぴったりだな。春休みくらい、少し遅れてもいいんだぞ」
「呼び出した先生がそれを言うんですか」
「言うだけならタダだからな」
後藤は肩をすくめ、机の横に置かれた椅子を顎で示した。
蒼真が座ると、後藤はバインダーを閉じた。いつものくたびれた空気はある。ネクタイも少し曲がっている。けれど、目だけは職員会議の時と同じ、余計なものを削った色をしていた。
「まず、結論から言う」
「はい」
「神代蒼真。お前は二年次から、Sクラスへ昇格する」
その一言を聞いた瞬間、体の内側で何かが弾けた。
息を吸うのが少し遅れる。指先が熱い。頭の中で、演武場の石床と第3層の冷たい空気が重なる。冬の訓練場、対人戦の銅鑼の音まで、一度に押し寄せてきた。
「……本当、ですか」
「嘘で呼び出すには、俺も年度末で忙しすぎる」
「ありがとうございます!」
声が思ったより大きく出た。近くの席にいた藤村教官がちらりとこちらを見て、すぐに笑いを噛み殺すように書類へ目を戻す。
蒼真は慌てて頭を下げた。嬉しい。どうしようもなく嬉しかった。
Sクラス。入学式の日、遠くに見えた場所。須藤がいて、凛がいて、ほのかがいた場所。ずっと追いつきたいと思ってきた場所。
そこへ行ける。
そこまで来た。
けれど、喜びが喉まで上がった直後、蒼真の中に、別の思いが静かに降りてきた。
「……俺だけ、ですか」
後藤は、すぐには答えなかった。
その沈黙だけで、答えは分かった。
「お前だけが上がる」
「悠斗たちは」
「一般クラスに残る。第5班は、来年度も継続だ。ただし、一人入れ替わる」
蒼真は膝の上で拳を握った。
嬉しさが消えたわけではない。消えるはずがない。目標に近づいたことは間違いない。けれど、昨日まで当たり前に同じ班だと思っていた五人と、もう同じダンジョンに潜らないのだと理解した瞬間、足元が急に頼りなくなったような心細さがあった。
「終わる、わけじゃないんですよね」
自分で言ってから、子どもみたいな確認だと思った。
それでも、口にせずにはいられなかった。
後藤は紙コップを机に置き、少しだけ表情を緩めた。
「お前らが終わるわけじゃない。班が変わる。クラスが変わる。指示系統も探索の階層も、訓練相手も変わる。だが、関係まで職員会議で決められるほど学院は偉くない」
「……はい」
「寂しいのは、まあ、普通だ。俺でも少しは分かる」
「先生でもですか」
「俺を何だと思ってる」
「書類に追われてる人です」
「今のは減点だな。いや、事実だから困るな」
後藤がぼやくと、肩の力が抜けた。
その時、職員室の奥から榊原美樹が歩いてきた。手には薄いファイルを持っている。以前より動きはゆっくりで、けれど背筋はいつも通り伸びていた。
「神代くん、正式通知、聞いたところかしら」
「はい。あの、ありがとうございます」
「私にお礼を言うことではないわ。あなたの一年間の積み重ねよ」
榊原は穏やかに言い、後藤の机の上にファイルを置いた。
「来年度から、後藤先生がSクラス担任になります。私は副担任扱いで、引き継ぎと事務処理を中心に担当する予定です。教室に顔を出す機会は、今までより少なくなると思っておいて」
「後藤先生が、Sクラスの担任……」
蒼真は思わず後藤を見た。
後藤は露骨に嫌そうな顔をした。
「そんな顔をするな。俺が一番まだ慣れてない」
「いえ、嫌とかじゃなくて」
「分かってる。だが今、全国の後藤先生が傷ついた」
「全国にはいないと思います」
蒼真がそう返すと、榊原が小さく笑った。
「神代くん。Sクラスに上がれば、今まで以上に見られます。弓術士だから。対人戦優勝班の班長だったから。一般クラスから上がったから。理由はいくつもあるわ」
「はい」
「でも、肩書きを背負いすぎないこと。あなたは、あなたの射を続けなさい」
その言葉は、祖父の「矢は続けろ」と少し似ていた。
蒼真は背筋を伸ばし、深く頭を下げた。
「続けます」
榊原は頷き、後藤の机を軽く指で叩く。
「橋本先生が、制度面の説明をしてくださるそうよ。後藤先生、書類を忘れないで」
「忘れたら橋本に怒られる。榊原先生にも怒られる。二重に損だ」
「分かっているなら大丈夫です」
ほどなくして、橋本圭介が職員室奥の棚から数枚の書類を持ってきた。以前、前期実力試験の時に見た時と同じ、落ち着いた事務処理の空気を纏っている。
「神代くん。昇格おめでとう」
「ありがとうございます」
「説明は簡単にする。二年次Sクラスでは、探索可能階層、授業内容、評価基準が一般クラスと一部異なる。特に第4層以降は環境が変わる。草原型のフィールドだ。射線は通りやすいが、遮蔽物の使い方も変わる」
橋本は書類を一枚ずつ見せながら、必要な項目だけを短く説明した。
Sクラス昇格は、褒美ではない。扱う課題が変わるということ。班長として評価された部分はあるが、来年度の班では必ずしも班長になるわけではないこと。新しい班の指示系統に従い、その中で弓術士として機能すること。
その説明を聞きながら、蒼真の内側で、喜びとは別の緊張が立ち上がっていた。
「班長じゃ、ないんですね」
口にしてから、当然のことだと思った。
けれど、それもまた重かった。
橋本は頷く。
「現時点では、君を班長として固定する予定はない。SクラスにはSクラスの積み上げがある。君は、まずそこに入るべきだ」
「はい」
後藤が横から口を挟んだ。
「お前は今まで、撃つ場所を作るために班を動かしてきた。次は、誰かが作る戦場の中に、お前の射を置く番だ」
蒼真はその言葉を、ゆっくり飲み込んだ。
班長ではない。けれど、弓術士でなくなるわけではない。
指示を出す側から、指示系統の中で最善の一射を置く側へ。たぶん、それが二年次の最初の課題だ。
「分かりました」
「いい返事だ。まあ、分かりましたで全部分かったら教官はいらないんだがな」
「台無しですよ、先生」
「台無しにしてからが俺の仕事だ」
後藤のぼやきに、蒼真は少し笑った。
手続きの説明が終わると、橋本は書類をまとめ、榊原は次の面談があると言って職員室の奥へ戻っていった。
残った後藤が、机の引き出しから一枚の封筒を取り出す。
「正式通知書だ。保護者にも連絡は行く。お前からも、家に話しておけ」
「はい。祖父にも、連絡します」
「爺さんには短く言え。長文を送っても、たぶん三文字で返ってくるぞ」
「たぶん、そうですね」
蒼真は封筒を受け取った。
白い封筒は、思ったより軽かった。けれど、鞄に入れる時には、不思議なくらい重く感じた。
職員室を出ると、廊下には春休みの静けさが戻っていた。
蒼真は窓際に立ち、封筒をもう一度見下ろす。嬉しさと寂しさが、交互に押し寄せてきた。
スマートフォンを取り出し、班チャットを開く。
今すぐ打てる言葉はいくつも浮かんだ。Sクラスに上がることになった。今日、正式に聞いた。春休み中に会えるか。
けれど、指はすぐには動かなかった。
これは、メッセージだけで済ませる話じゃない。
そう思った。
まずは、顔を見て言いたい。五人がどんな顔をするのか、少し怖い。悠斗はたぶん大声を出す。航は当然だと言う。紅葉は寂しいと言うかもしれない。里奈は丁寧に祝ってくれて、真帆は皆の様子を見ながら微笑むだろう。
想像すると、さっきの心細さがやわらいだ。
蒼真は班チャットではなく、祖父とのトーク画面を開いた。
『二年次から、Sクラスに上がることになりました』
送信してから、窓の外を見る。
春休みの学院は静かだった。けれど、その静けさの奥で、次の一年はもう始まっていた。
数分後、スマートフォンが短く震える。
『そうか。引け』
蒼真は画面を見て、思わず笑った。
「……相変わらず、短いな」
でも、その短さで十分だった。
蒼真は封筒を鞄の奥へ入れ直し、廊下を歩き出した。
Sクラスへ行く。五人とは別の班になる。班長ではなくなる。
それでも、矢は続く。
階段を下りながら、蒼真はもう一度だけ、スマートフォンを握り直した。
今日の夕方、五人に会って話そう。
そう決めた瞬間、春の光が廊下の床に薄く伸びて、蒼真の足元を明るく照らしていた。




